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おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

島津歳久の生涯、悲劇の名将は薩摩武士が敬慕する武神となった

島津歳久(しまづとしひさ)は戦国時代に南九州で活躍した人物である。その生涯を追ってみよう。

なお、記事作成ではおもに、江戸時代に編纂された『本藩人物誌』や『西藩烈士干城録』、『島津国史』などを参考にした。

 

 

 

 

四兄弟の中で、あまり語られない存在

生年は天文6年(1537年)、没年は天正20年(1592年)。通称は「又六郎(またろくろう)」で、法号の「晴蓑(せいさ)」、官位の「左衛門督(さえもんのかみ)」、官位の唐名である「金吾(きんご)」、所領の「祁答院(けどういん)」で呼ばれることもある。

薩摩国守護で15代当主の島津貴久(たかひさ)の三男で、兄に島津義久(よしひさ、16代当主)と島津義弘(よしひろ)、母違いの弟に島津家久(いえひさ)がいる。

 

16世紀の後半に島津氏は南九州を制圧し、九州全土へと勢力を広げていった。その中で島津家の四兄弟の活躍はめざましく、戦国時代に興味のある人にはそれなりに知られていると思う。ただ、兄弟の中で歳久はちょっと印象が薄い。具体的にどんな活躍をしたのかイメージがついてこない、「〇〇をした人」とすぐに説明できる人は多くはないだろう。

ちなみにほかの3人は功績がわかりやすい。島津義久の場合は「島津家の最盛期を築いた当主」や「関ケ原の戦いのあと、徳川家康と粘り強く交渉して本領安堵を勝ち取った」など、島津義弘は「木崎原(きざきばる)の戦いや朝鮮出兵での劇的な勝利」や「島津の退き口(関ケ原での撤退戦)」など、島津家久は「沖田畷(おきたなわて)の戦い、戸次川(へつぎがわ)の戦いでの鮮やかな勝利」、といったところだ。そういったわかりやすい活躍のイメージが、歳久にはないのである。

戦国時代の島津氏を語るとき、この3人のエピソードだけでもうお腹いっぱい。島津歳久も活躍しているのだが、そこまで話題が及ばないという感じだろうか。

 

また、島津歳久は豊臣秀吉の怒りを買って最期は討たれる。国家の最高権力者に刃向かった罪人とされたことから、活躍があまり語られなくなった可能性もあるのかもしれない。

 

 

 

 

戦乱の中で誕生

天文6年(1537年)7月10日、島津歳久は薩摩国伊作(いざく、現在の鹿児島県日置市吹上)の伊作城に生まれる。伊作城の本丸である亀丸城(かめまるじょう)には四兄弟の誕生石もある。

 

城跡に並ぶ4つの石

亀丸城(伊作城)本丸跡にある島津兄弟の誕生石

 

【関連記事】伊作城跡にのぼってみた、戦国大名島津氏の源流はここにあり

 

この頃、島津家中では内紛の真っただ中だった。本宗家(奥州家)の14代当主・島津忠兼(ただかね、のちに「島津勝久」と改名)の実権が弱く、有力分家が覇権争いに加わった。

その有力分家のひとつが薩摩国出水(現在の出水市)を本拠地とする島津実久(さねひさ)であった。薩摩守を名乗ったことから「薩州家」と呼ばれ、当主は薩摩国守護代も任された。宗家に次ぐ家柄である。

その対抗馬となったのが、薩摩国田布施(たぶせ、現在の南さつま市金峰)を本拠地とする島津忠良(ただよし)・島津貴久の親子だった。こちらは「相州家」と呼ばれている。

 

奥州家・薩州家・相州家の抗争は長年に及んだ。この争いは相州家の島津忠良・貴久が制した。その過程で本拠地を薩摩国伊集院の一宇治城(いちうじじょう、場所は現在の日置市伊集院)、鹿児島の内城(うちじょう、御内、みうち。現在の鹿児島市大竜町)へと移した。

伊作城・一宇治城・内城で、歳久は育った。

【関連記事】一宇治城(伊集院城)跡にのぼってきた、島津貴久の薩摩平定の拠点

 

 

 

岩剣城攻めで初陣をかざる

薩摩南部を制圧した島津貴久は、西大隅へと出兵する。薩摩北部に大きな勢力を持つ渋谷一族の祁答院良重(けどういんよししげ)や大隅国蒲生院(現在の姶良市蒲生)の蒲生範清(かもうのりきよ)らの連合軍との決戦である。戦場となったのは大隅国の脇元・帖佐・加治木・蒲生などで、現在の姶良市一帯にあたる。

天文23年(1554年)の岩剣城(現在の姶良市平松)攻めで、義久・義弘・歳久が初陣を飾った。

 

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【関連記事】戦国時代の南九州、激動の16世紀(7)大隅合戦、島津義久と島津義弘と島津歳久の初陣

 

天文24年(1554年)、島津方は蒲生の北村城(きたむらじょう)を攻めたが敗北。島津歳久はこの戦いの中で負傷しながら奮戦した。北村城跡は「米丸マール」と呼ばれる火口の外輪山にあたる。

火口跡の田園風景

蒲生の北村城跡、手前の田んぼは米丸マール

 

弘治3年(1557年)に蒲生氏の本拠地である蒲生城が落城し、西大隅の戦いは島津氏側の勝利で終結する。祁答院良重も西大隅に持っていた城をことごとく失い、本拠地の祁答院(現在の薩摩郡さつま町・薩摩川内市祁答院)に退去している。

 

祁答院氏についてはこちらの記事で触れている。

【関連記事】南九州に所領を得た鎌倉御家人たち ~鮫島氏・二階堂氏・渋谷氏・比志島氏・種子島氏 ほか~

 

蒲生氏についてはこちらの記事で触れている。

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吉田の領主、そして祁答院の領主に

永禄6年(1563年)、島津歳久は大隅国吉田院(よしだいん、現在の鹿児島市吉田)をまかされる。松尾城(まつおじょう、吉田城とも)に入り、ここを居城とした。歳久は約18年間にわたって吉田の領主をつとめることになる。

断崖をむき出しにした山城跡

松尾城(吉田城)跡

吉田院は史料によって薩摩国だったり大隅国だったりする。時代によって国境が変わっている。つまり、ここは国境の地である。前述の西大隅の戦いがあった蒲生や脇元とも近く、松尾城を前線基地としていた。

蒲生氏を降伏させたものの、薩摩北部には祁答院氏をはじめとする渋谷一族、大口・菱刈(現在の鹿児島県伊佐市)の菱刈(ひしかり)氏など敵対勢力がまだまだいる。歳久が任された吉田は、戦略上で重要な場所であった。

天正8年(1580年)、歳久は吉田から祁答院へ所領替えとなる。祁答院の11ヶ村・1万7300余石のの領主となった。この地もまた、肥後方面や日向方面の敵に対して軍事的要所である。

その11ヶ村とは『西藩烈士干城録』によると、宮之城(みやのじょう)、鶴田(つるだ)、中津川(なかつがわ)、求名(ぐみょう)、佐志(さし)、合志、虎井(とらい、虎居)、久富木(くぶき)、柏原(かしわばる)、紫尾(しび)と記されている。このうち「合志」は「神子(こうし)」のことだと思われる。なお、「凡十一村」と記載されるが、記された村の数は10である。また、『本藩人物誌』では「十二ヶ村」としている。

歳久の所領は、おおよそ現在の薩摩郡さつま町の一帯にあたる。祁答院は渋谷一族・祁答院氏が長年治めていた土地であり、敵地に乗り込んだ形になる。統治は一筋縄ではいかなかったはず。さつま町の方と話をすると、歳久の人気は今も高い印象だ。きっと、善政を行ったんだろうな、と思う。

川内川越しに見る山城跡

祁答院で本拠地とした虎居城の跡

 

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戦い、戦い、また戦い

島津氏は薩摩国・大隅国・日向国の諸勢力を制圧していく。歳久も数々の戦いに参加している。『本藩人物誌』に記載があるものを下に列挙する。

永禄9年(1566年)、島津義久の副将として日向国の三山城(現在の宮崎県小林市細野)攻めに参加。三山城はこの頃、日向国の伊東氏の勢力下にあった。

 

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元亀3年(1572年)、大隅国垂水(たるみず、現在の鹿児島県垂水市)の伊地知重興(いじちしげおき)攻めの大将を務めた。伊地知重興は肝付(きもつき)氏や禰寝(ねじめ)氏と結んで島津氏と敵対していた。天正2年(1574年)に伊地知重興は降伏する。

ちなみに元亀3年(1572年)というと、島津氏の戦いでは日向国真幸院(まさきいん、現在の宮崎県えびの市)の木崎原の戦いがよく知られている。真幸院の領主でもあった島津義弘が日向方面の戦いを任され、大隅方面は歳久が担当した。

 

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天正4年(1576年)、島津義久に従って日向国高原(たかはる、現在の宮崎県西諸県郡高原町)での伊東氏との決戦に参加。

天正6年(1578年)、島津義久に従って日向国に出兵。高城川の戦い(耳川の戦い)に参加する。これは豊後国(現在の大分県)周辺に勢力を持つ大友義鎮(おおともよししげ、大友宗麟、そうりん)との決戦であった。島津軍は大友軍に大勝した。

 

天正9年(1581年)、義弘や家久ともに肥後国の水俣城(現在の熊本県水俣市)を攻撃。歳久は脇大将をつとめた。落城させ、相良義陽(さがらよしひ)は降伏。

 

天正12年(1584年)、沖田畷の戦い。肥前(現在の佐賀県や長崎県)の龍造寺隆信が率いる大軍と、島原で決戦に及ぶ。この戦いで歳久は肥後国佐敷(現在の熊本県葦北郡芦北町)に陣取った。前線に出撃した家久が、大きな兵力差を覆して龍造寺隆信を討ち取っている。

 

天正14年(1586年)、島津氏は大友氏への攻撃を開始。7月(旧暦、以下同)の筑前国の岩屋城(現在の福岡県太宰府)攻めの際に、歳久は肥後国八代(現在の熊本県八代市)に詰める。10月に豊後侵攻のために、島津歳久は島津義弘の副将として出陣する。しかし、九州平定のために豊臣軍が侵攻してくる。島津軍は豊後を捨てて南へ撤退。島津歳久は肥後から帰国したという。また、豊後国の白仁城(南山城、現在の大分県竹田市久住)に在番していたときに島津歳久は病を発症したとも。天正15年3月に白仁城を出て、4月に祁答院に戻ったという。病で手足が思うように動かず、「中風(ちゅうぶ、脳出血の後遺症などが原因)」だったとも。

 

天正15年(1587年)5月8日、島津義久が川内の泰平寺(現在の薩摩川内市大小路町)におもむき、そこに陣を構えていた豊臣秀吉(とよとみのひでよし)に降伏した。

豊臣秀吉は川内からの帰路として祁答院を通過した。歳久は病気を理由に秀吉への目通りをせず、兵を伏せて小競り合いもあった。山崎から鶴田への道程はわざわざ難路へと案内し、歳久の家臣が秀吉の籠に矢を射かけたりもした。

古びた鳥居と石段、城跡に平松神社が鎮座

鶴田の梅君ヶ城跡、島津歳久の居城のひとつ

 

 

竜ヶ水に死す

天正20年(1592年)、天下人となった豊臣秀吉は朝鮮への出兵を全国の大名に命じた。そんなさなかに、島津氏配下の梅北国兼(うめきたくにかね、菱刈郡湯之尾の地頭)が反乱を起こす(梅北一揆)。梅北国兼の軍勢は朝鮮半島に向かう道中に挙兵し、肥後国の佐敷城(現在の熊本県葦北郡芦北町)を占拠した。

6月に反乱が鎮圧されたあと、追求は島津家にも及んだ。反乱軍に歳久の家臣もいたことから、疑いをかけてきた。豊臣秀吉は一揆の首謀者を島津歳久であるとし、その成敗を島津義久に命じてきたのだ。

島津歳久が梅北一揆に関わっていたどうかはわからない。ただ、一揆鎮圧から追討命令が出るまでの期間が短いところを見ると、その通りであったのかもしれない。

 

豊臣秀吉は、天正15年の祁答院での反抗的な態度についても蒸し返す。朱印状には「歳久も義弘ともに渡海していたら、あのときのことは許してやろうと思っていたのに、いうこときかないかばかりか、反乱まで企てるとはなんたること!」というようなことが書かれていたという(島津氏の朝鮮出兵について書かれた『征韓録』より意訳)。

従わなければ、島津家は潰されてしまうような状況になっていた。島津義久は苦渋の決断を下した。

 

島津歳久は鹿児島に呼び出された。死を覚悟し、家中の者に別れを告げて祁答院を出た。歳久は鹿児島で形ばかりの釈明をしたあと、義久から祁答院への帰城が命じられた。このとき、歳久が祁答院で自害することで話がついていたともされる。

ところが、歳久主従は鹿児島を船で発つときに様子がおかしいと感じる。歳久追討の軍が差し向けられたのだ。祁答院へつながる道もことごとく兵に塞がれ、行き場を失った歳久主従は竜ヶ水(りゅうがみず、「滝ヶ水」とも)に上陸した。

竜ヶ水は鹿児島市吉野町にある。かつては大隅国帖佐郷脇元村の飛び地だった。現在は、海に沿って国道10号が通っており、海岸には姶良カルデラのカルデラ壁がそびえている。

歳久は竜ヶ水を死に場所と決めた。病気で手が麻痺していたために刀を持てなかった。石を刀にみたてて腹にあて、「早く首を取れ」と討ち手を呼び寄せた。みな躊躇していたが、ようやく原田甚次という者が首を落とした。天正20年7月18日、歳久は生涯を終える。歳久の死に、討ち手側もみな地面につっぷして号泣したという。

 

竜ヶ水の平松神社(ひらまつじんじゃ)が、歳久最後の場所である。その前身を心岳寺(しんがくじ)といい、慶長4年(1599年)に島津義久によって歳久の菩提をともらうために建立された。明治の初めに廃寺となり、その後は神社となる。平松神社の御祭神は碧空巌岳彦命(あおぞらいずたけひこのみこと)。島津歳久のことである。境内には島津歳久と殉死者27名の墓石もある。

江戸時代に築かれた石垣と石段

歳久の終焉の地、平松神社(心岳寺)跡

 

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歳久の首は京へ、明治時代に鹿児島に帰る

歳久の遺体は、竜ヶ水からやや北の脇元の海岸近くで清められたという。JR重富駅の近くに供養塔が残っていて、これは「御石山(おいしやま)」と呼ばれている。

住宅地にある小さな供養塔

御石山

首は、鹿児島の義久のもとに送られ、そして肥前の名護屋城(なごやじょう、現在の佐賀県唐津市)の豊臣秀吉のもとへ。首実検の後に京都の一条戻橋にさらされた。その当時、京にいた島津忠長(ただたけ、歳久の従兄弟にあたる)は不憫に思い、ひそかに首を盗ませて、今出川(現在の京都市上京区今出川)にあった浄福寺(じょうふくじ)に葬らせた。

その後、胴体は帖佐の総禅寺(そうぜんじ、場所は現在の鹿児島県姶良市鍋倉)に葬られた。総禅寺は豊州・島津氏(島津氏庶流)の菩提寺。明治の初めに廃寺となり、現在は墓地となっている。

 

時代は下って明治5年(1872年)、日置島津家14代目の島津久明(しまづひさあき、歳久の末裔)らが、御首級を鹿児島に持ち帰る。総禅寺に埋葬されていた胴体とあわせて、平松神社(心岳寺跡)に改葬された。

木漏れ日が降り注ぐ墓塔

平松神社の島津歳久墓所

さらに、大正時代の終わり頃に、日置市日吉にある日置島津家の菩提寺である大乗寺(だいじょうじ)跡に歳久の遺体は改葬されている。

 

 

日置島津家

歳久が討たれたあと、祁答院の虎居城に歳久の妻と娘、孫の袈裟菊丸(けさぎくまる、島津常久)が籠城した。しばらく抵抗の態度を見せていたが、義久側からの説得に応じて城を明け渡した。その後、袈裟菊丸は薩摩国日置(ひおき)に3600石の所領を得て、これが日置島津家のはじまりとなった。

日置島津家の祖は島津歳久で、2代が島津忠隣(ただちか)、そして3代が島津常久である。

歳久には男児がなかったので、薩州家から婿養子を迎えて後継ぎとした。ちなみに、忠隣の母は島津義久の娘で、大叔父のもとに婿入りしたことになる。忠隣は、天正15年(1587年)に豊臣家の九州遠征軍と日向国の根白坂で戦った際に戦死している。そのとき、袈裟菊丸(常久)はまだ生後3ヶ月だった。

 

江戸時代に、日置島津家は一所持(いっしょもち)として遇された。一所持は御一門(ごいちもん、本家に後継ぎがいない場合は養子を出す分家)に次ぐ家柄で、多くの家老を出して藩政を支えた。

日置家12代・島津久風(ひさかぜ)は宗家27代当主・島津斉興(なりおき)の筆頭家老で、天保8年(1837年)に山川港(指宿市山川)に異国船が現れた「モリソン号事件」での対応にあたった人物である。日置家13代・久徴(ひさなが)は宗家28代当主・島津斉彬(なりあきら)と29代当主・島津忠義(ただよし、島津久光の嫡男)の家老として、幕末の難しい時期で藩政を担った。

また、久徴の弟の島津歳貞(としさだ)は桂家の養子に入り、桂久武(かつらひさたけ)と名乗る。こちらも藩の家老に昇進し、西郷隆盛や大久保利通らとともに倒幕運動で活躍した。桂久武はのちに西南戦争にも従軍し、明治10年(1877年)9月の城山総攻撃で戦死している。

 

 

「戦いの神様」になる

島津歳久は神様として祀られている。鹿児島市吉野竜ヶ水の平松神社(心岳寺跡)、薩摩郡さつま町鶴田の平松神社(梅君ヶ城跡)、さつま町中津川の大石神社、伊佐市大口曽木の平松神社(曽木城跡)など、各地で崇敬されている。また、鹿児島市吉田の松尾城跡には村人が建てた招魂碑もある。「金吾さぁ(様)」「心岳寺様」「御石様」など、いろいろな呼び方でも親しまれ、領民に慕われていたことがうかがえる。

大石神社の境内、石造りの鳥居と標柱がある

中津川の大石神社

山城跡の麓に石造りの招魂碑がある

松尾城(吉田城)の島津歳久招魂碑

 

江戸時代に島津歳久は「戦いの神様」として人気があった。鹿児島県の伝統行事に「妙円寺詣り」というものがある。島津義弘の関が原からの帰還を記念して、義弘の菩提寺である日置市伊集院の妙円寺(みょうえんじ)まで歩いて詣でるというもの。鹿児島市街地からだと20㎞ほどの道のりで、江戸時代から現代に至るまで鍛錬・教育の一環として行われている。

妙円寺詣りと並んで、かつては加世田の日新寺(じっしんじ)、竜ヶ水の心岳寺に詣でるのも恒例だった。日新寺は島津忠良の菩提寺、心岳寺は前述のとおり島津歳久の菩提寺である。

 

心岳寺詣りは第二次世界大戦中までは盛んだった。命日の旧暦7月18日には、鹿児島市街地方面と姶良市方面から夜を通して参拝者が訪れたという。平松神社(心岳寺跡)のすぐ下に鉄道も走っているが、かつてはお詣り当日に臨時の駅も設けられたという。また、鹿児島と平松神社との間に臨時船便も行き来したそうだ。

第二次世界大戦のあとになって心岳寺詣りは行われなくなる。敗戦直後で、「戦争」のイメージに否定的な風潮となったことも原因なのだろう。

 


<参考資料>

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1973年

『西藩烈士干城録(一)』
編/出版 鹿児島県立図書館 2010年

『島津歳久の自害 増補改訂版』
著/島津修久 発行/島津顕彰会 2000年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『鹿児島県の歴史』
著/原口虎雄 出版/山川出版社 1973年

『宮之城町史』
著/宮之城町史編纂委員会 発行/宮之城町 2000年

『吉田町郷土誌』
編/吉田町郷土誌編纂委員会 発行/吉田町長 大角順徳 1991年

ほか