ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

島津義弘の年譜、活路を無理矢理こじ開けて乱世を生き抜く

島津義弘(しまづよしひろ)の生涯を年表風にまとめてみた。……なかなかのボリュームに。とにかく戦いが多すぎるのである。

 

島津義弘は、島津家15代当主の島津貴久(たかひさ)の次男である。16代当主の島津義久は兄にあたる。父と兄のもとで、島津家の軍事面の主力を担った。

16世紀半ばから島津家は薩摩国(鹿児島県の西側)より勢力を広げていく。そして大隅国・日向国をも制圧。勢いはとまらず、九州全土を覆っていく。その中で、島津義弘の戦場での活躍が光る。

豊臣政権下に入ったあとも、島津義弘は戦場で凄みを見せる。「泗川の戦い」や「関ヶ原の戦い」では絶望的な状況を突破した。

 

島津義弘の戦いぶりは泥臭い感じがする。そして、しぶとい。活路を無理矢理こじ開けるのである。

 

采配を振るう島津義弘の立像

島津義弘像(宮崎県えびの市)

 

なお、日付は旧暦で記す。初名は島津忠平(ただひら)で、のちに島津義珍(よしまさ)、島津義弘と改名する。記事中では、その時その時の名乗りに準拠する。

目次だけでも年表に。クリックすればそれぞれのちょっとした解説にとぶ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天文4年(1535年)7月23日/誕生

薩摩国伊作(いざく、鹿児島県日置市吹上町)の伊作城に生まれる。父は島津貴久(たかひさ)。母は入来院重聡の娘(雪窓院)。幼名は不明。元服したあと「島津忠平」と名乗る。通称は「又四郎(またしろう)」。のちに「兵庫頭(ひょうごのかみ)」とも。

 

天文23年(1554年)9月/岩剣城の戦い

岩剣城(いわつるぎじょう、鹿児島県姶良市平松)の戦いで初陣。兄の島津義辰(島津義久)、弟の島津歳久(としひさ)も初陣だった。ここから大隅合戦はじまる。島津貴久は大隅国始羅郡(しら、現在の姶良市の一帯)の攻略をすすめる。相手は蒲生範清(かもうのりきよ)・祁答院良重(けどういんよししげ)など。落城後は、島津忠平に岩剣城在番が任された。

 

 

天文24年(1555年)3月/帖佐の戦い

帖佐本城(ちょうさほんじょう、姶良市鍋倉)の南の別府川沿いで祁答院良重の軍勢と戦う。島津方が勝利する。

 

 

弘治2年(1556年)/松坂城攻め

蒲生の松坂城(まつざかじょう、姶良市蒲生町)を3月に攻めるが落とせず。10月の再攻撃で陥落させる。

 

 

弘治2年(1556年)11月/蒲生城包囲

蒲生城(かもうじょう、姶良市蒲生町)を島津勢が包囲。ここは蒲生範清の本拠地である。島津忠平は兄の島津義辰(島津義久)とともに城の西側に布陣した。

 

 

弘治3年(1557年)4月/蒲生北村の戦い

蒲生方の援軍として菱刈重豊(ひしかりしげとよ)が北村(蒲生城のやや北)に布陣していた。島津忠平・島津忠将(ただまさ、忠平の叔父)らがこれを破る。菱刈重豊は自刃。

 

 

弘治3年(1557年)4月/蒲生城落城

蒲生範清が降伏して開城。島津貴久が大隅国始羅郡を制圧する。

 

 

永禄3年(1560年)3月/飫肥の戦い

島津忠平は日向国の飫肥(おび、宮崎県日南市)に入る。飫肥の領主は豊州家(ほうしゅうけ、島津氏の分家)の島津忠親(ただちか)。その養子となった。島津忠親とともに飫肥に侵攻してくる伊東義祐(いとうよしすけ)の軍と戦う。

 

 

永禄5年(1562年)/飫肥を離れる

島津忠親は永禄4年7月に伊東義祐と和睦。飫肥本城などを明け渡す。島津忠平は養子縁組を解消され、翌年に鹿児島に帰る。

 

 

永禄5年(1562年)6月/横川城攻め

島津歳久(としひさ)・新納忠元(にいろただもと)とともに大隅国の横川城(よこがわじょう、鹿児島県霧島市横川町)を攻め落とす。

 

 

永禄7年(1564年)/飯野城を任される

日向国真幸院(まさきいん)の飯野城(いいのじょう、宮崎県えびの市原田)の城主となる。ここは伊東義祐との勢力争いの最前線である。

 

 

永禄9年(1566年)10月/三山城の戦い

島津義久を総大将とし、伊東方である真幸院の三山城(みつやまじょう、小林城、宮崎県小林市)を攻撃。島津忠平は副将を務める。大軍で囲むが落とせず、島津軍は撤退。島津忠平は重傷を負う。

 

 

永禄10年(1567年)11月24日/菱刈侵攻、馬越城攻め

島津貴久は大隅国菱刈郡(ひしかり、現在の伊佐市菱刈)の攻略にかかる。菱刈氏と戦う。その緒戦として馬越城(まごしじょう、伊佐市菱刈前目)を攻めた。島津忠平の部隊は飯野から進軍。湯之尾(ゆのお、伊佐市菱刈川北)を攻略したのち、馬越城に夜襲をかけて陥落させた。菱刈氏は本城(ほんじょう、太良城、たらじょう、伊佐市菱刈南浦)を棄てて、薩摩国伊佐郡の大口城(おおくちじょう、伊佐市大口)に逃げ込んだ。大口城は相良義陽(さがらよしひ)の勢力下にあった。菱刈氏は相良氏とともに抵抗を続ける。

 

 

永禄11年(1568年)1月20日/羽月堂崎の戦い

馬越城にあった島津忠平は、羽月堂崎(はづきどうざき、現在の伊佐市大口堂崎)へ出撃。率いる兵は数百。これを大口城守将の赤池長任(あかいけながとう、相良氏家臣)が迎え撃った。相良方の兵力は3000を超える。伏兵を用いた作戦をとるが失敗。島津忠平が率いる300ほどの部隊が敵に囲まれる。国老の川上久朗(かわかみひさあき)が奮戦もあって、島津忠平はなんとか戦場から離脱する。川上久朗は傷が深く、撤退後に亡くなる。

 

 

永禄11年(1568年)/桶比良の戦い

伊東義祐の軍勢が日向国真幸院の桶比良(桶平、おけひら、宮崎県えびの市原田)に進軍。飯野城をうかがう。島津忠平は飯野城に戻り、しばらくはにらみ合いが続く。

 

 

永禄12年(1569年)9月/大口城陥落

菱刈氏・相良氏との間に和睦がなり、大口城が島津氏に明け渡された。大口城が陥落すると桶比良の伊東勢も撤退した。

 

 

元亀2年(1571年)6月/島津貴久の死

父の島津貴久が没する。永禄9年(1566年)に家督を島津義久に譲っていたが、これを後見していた。その死を知って、肝付(きもつき)・伊地知(いじち)・禰寝(ねじめ)ら大隅勢が島津領内に水軍で侵攻。鹿児島湾岸で戦いとなった。この頃、島津忠平は伊東方に備えて飯野城を守っていた。

 

 

元亀3年(1572年)5月4日/木崎原の戦い

伊東義祐は、手薄になっていた日向国の飯野・加久藤に兵を動かした。島津忠平は飯野城にあり、手勢は200余。加久藤城(かくとうじょう、宮崎県えびの市小田)の兵は50余。島津方の兵力はあわせて300ほどだったという。対する伊東方の兵力は3000ほど。5月4日未明に、伊東方は加久藤城を攻めるが落とせず。その後、伊東方は木崎原(きざきばる、えびの市池島)に駐屯する。そこへ、島津忠平は総攻撃をかけた。伏兵も効果的に使いながら敵軍を混乱させる。さらに、敗走した敵軍に追撃をかける。伊東方は壊滅し、大将格の武将も多くが討ち取られた。

 

 

天正4年(1576年)8月/高原城攻め

島津義久は天正2年に肝付兼亮(きもつき)を降伏させ、大隅半島も勢力下に置いた。そしてつぎは、日向国の伊東氏の領内へ本格的な侵攻を開始する。島津方は8月21日に島津忠平(島津義弘)を先陣として飯野城から高原城(たかはるじょう、宮崎県西諸県郡高原町)に進軍する。23日に高原城を開城させた。高原城が陥落すると、伊東方の三山城・須木城(すきじょう)が寝返る。内木場城(うちこばじょう)・岩牟礼城(いわむれじょう)・須志原城(すしはらじょう)・奈佐木城(なさきじょう)も降った。

 

 

天正5年12月(1578年1月)/野尻城攻め

日向国の野尻(のじり、小林市野尻)を攻める。野尻城を守る福永祐友(ふくなすけとも)は味方に援軍を要請するが来ず。孤立した福永祐友は島津方の調略に応じた。内山城(うちやまじょう、天ヶ城、あまがじょう、宮崎市高岡町内山)の野村文綱(のむらふみつな)も調略に応じた。

 

 

天正5年12月9日(1578年1月)/伊東崩れ

12月8日、島津忠平が日向に進軍。戸崎城(とざきじょう)・紙屋城(かみやじょう)・富田城(とみたじょう)を寝返らせ、伊東義祐が本拠地とする佐土原城(さどわらじょう、宮崎市佐土原町)に迫る。12月9日、伊東義祐は城を出て逃亡。大友義鎮(おおともよししげ、大友宗麟、そうりん)を頼って豊後国(現在の大分県)に落ちのびた。

 

 

天正6年(1578年)10月/大友軍が南下、島津忠平も出陣

大友義鎮(大友宗麟)はこの年の3月から日向侵攻を開始。大軍(4万とも、6万とも、8万とも、数字は諸説あり)を南下させ、新納院高城(にいろいんたかじょう、宮崎県児湯郡木城町)を囲んだ。城は堅く守り、持ちこたえた。島津義久は大軍(3万ほどとされる)を率いて出陣。大友との決戦にのぞむ。島津忠平も飯野から合流する。

 

 

天正6年(1578年)11月11日/松山陣に奇襲

11月11日、島津忠平は財部城(たからべじょう、高鍋城、児湯郡高鍋町)より撃って出る。松山陣の佐伯惟教(さえきこれのり)隊を囮部隊で釣り出し、伏兵で叩く。混乱した敵に大きな打撃を与えた。前哨戦の奇襲はきまる。そして、夜のうちに小丸川(高城川)の南の台地に島津軍は布陣する。島津忠平もその一隊を担った。

 

 

天正6年(1578年)11月12日/高城川の戦い(耳川の戦い)

田北鎮周(たきたしげかね)を先陣として大友軍が突撃。高城川原(高城の麓)の島津の前線部隊を撃破する。勝ちに乗じた大友軍は一気に川を渡った。島津軍は、敵が懐深く入り込んだところで動く。台地上から全軍が駆け下り、大友軍を包囲殲滅した。大友軍は総崩れとなって敗走する。島津軍ははるか北の耳川(みみかわ)まで追撃した。大友軍は壊滅し、田北鎮周・佐伯惟教・角隈石宗(つのくませきそう)ら有力武将の多くが戦死した。

 

 

天正8年(1580年)9月/佐敷の戦い

島津氏は肥後国の相良義陽の領内に進攻。佐敷(さしき、熊本県葦北郡芦北町)を攻めた。島津忠平は島津家久とともに船団で海から迫る。上陸して戦うが、敵の守りは堅い。島津方は撤退する。

なお、佐敷の戦いは『求麻外史』に載っている。島津氏側の資料にはない。

 

 

天正9年(1581年)8月18日/水俣城攻め

島津義久は大軍を発し、肥後国の水俣城(みなまた、熊本県水俣市)を囲んだ。島津忠平も一軍を指揮する。水俣城は窮し、相良義陽は降伏。相良氏は島津義久の傘下に入った。

 

 

天正12年(1584年)3月24日/沖田畷の戦い

龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)が肥前国島原(長崎県島原市)に侵攻する。島原の有馬晴信の救援要請を受け、島津義久は派兵する。大将は島津家久。島津忠平は後詰として佐敷城に入る。

なお、島原に入った島津家久は、沖田畷(おきたなわて)で龍造寺軍本隊とぶつかる。寡勢で大軍を迎え撃って勝利する。龍造寺隆信を討ち取った。

 

 

天正13年(1585年)5月/「名代」になる

島津忠平が「名代」に指名される。「守護代」とも。肥後国の八代城(やつしろじょう、古麓城、ふるふもとじょう、熊本県八代市古麓町)に入り、肥後攻略を一任される。

 

 

天正13年(1585年)閏8月/阿蘇合戦

阿蘇氏の領内を攻める。阿蘇家は当主が幼少で、家老の甲斐親英(かいちかひで)らが取り仕切っていた。島津忠平は肥後国益城郡(現在の熊本県宇城市・上益城郡・下益城郡のあたり)に出兵。諸城を落とし、甲斐氏の本拠地である御船城(みふねじょう、熊本県上益城郡御船町)も開城させた。阿蘇氏が降る。

 

 

天正14年(1586年)8月17日/「島津義珍」と改名

 

 

天正14年(1586年)10月/豊後侵攻開始

島津氏は大友領内へ攻め入る。島津義珍は肥後国阿蘇から豊後国へ侵攻する。まずは緩木高城(ゆるぎたかじょう、大分県竹田市九重野)を攻め落とす。そして、直入郡・大野郡(竹田市や豊後大野市のあたり)を制圧していく。しかし、志賀親次(しがちかつぐ)が守る岡城(おかじょう、竹田城、大分県竹田市竹田)を落とせず。

 

 

天正15年(1587年)4月17日/根白坂の戦い

島津は大友を攻めきれずにいた。大友氏は関白の豊臣秀吉を頼る。大友氏を臣従させた豊臣秀吉は九州に大軍を送り込んできた。日向方面に豊臣秀長が率いる軍勢が押し寄せる。兵の数は10万とも15万とも。島津義久・島津義珍・島津家久らは根白坂(ねじろざか、宮崎県児湯郡木城町)で豊臣軍と戦うが大敗する。

 

 

天正15年(1587年)5月19日/豊臣政権に降伏

5月8日に島津義久が降伏するが、島津義珍は飯野城で抗戦しようとしていた。だが、豊臣秀長からの降伏勧告を受け入れる。5月19日、日向国野尻(のじり、宮崎県小林市野尻町)に陣取っていた豊臣秀長に降伏を申し入れる。

 

 

天正15年(1587年)5月22日/豊臣秀吉のもとに出頭

豊臣秀吉は薩摩国鶴田(つるだ、鹿児島県薩摩郡さつま町鶴田)に陣を置いていた。ここに島津義珍がおもむき、豊臣秀吉に拝謁。降伏を許される。

 

 

天正15年(1587年)8月/「島津義弘」と改名

 

 

天正18年(1590年)/栗野へ居城を移す

大隅国栗野院の松尾城(まつおじょう、栗野城、鹿児島県湧水町栗野)に居城を移した。日向国の飯野城は、子の島津久保(ひさやす)に譲られる。なお、島津義久には男子がなく、島津久保が後継者に指名された。

 

 

天正20年(1592年)5月3日/朝鮮に入る

豊臣秀吉は明国への侵攻を決め、まずは朝鮮に兵を出した。島津義弘・島津久保にも出陣が命じられる。課された兵数は1万だった。だが、兵を揃えられず、船がないため渡海も大幅に遅れた。5月3日にようやく朝鮮の釜山に上陸。この頃、日本軍はすでに朝鮮の都である漢城(ハンソン、現在のソウル市)を陥落させていた。

 

 

天正20年(1592年)11月/春川城の戦い

島津義弘隊は日本軍に合流し、江原道(ガンウォンド)の攻略にあたる。春川城(チョンチュンじょう)が明軍に攻められた際に援軍を出した。

 

 

文禄元年(1592年)12月/金化城に入る

島津義弘・島津久保は金化城(クムファじょう)の守りを任される。

 

 

文禄2年(1593年)6月/晋州城攻めに参加

晋州城(チンジュじょう、もくそ城)攻撃に従軍する。「もくそ城取巻人数之事」という覚書によると、島津義弘・島津久保が率いる兵は2128人。軍役の1万にはほど遠い。

 

 

文禄2年(1593年)9月8日/島津久保の死

島津隊は唐島(巨済島)に滞在していた。ここで島津久保が病没する。その後、世嗣には島津忠恒(ただつね、久保の弟)が立てられる。島津忠恒は上洛ののちに渡海し、文禄3年(1594年)10月に島津義弘に合流する。

 

 

文禄4年(1595年)7月/一時帰国

島津義弘は朝鮮より一時帰国。朝鮮には島津忠恒を残す。7月28日に栗野に戻った。

 

 

文禄5年(1596年)10月/帖佐へ居城を移す

大隅国帖佐の帖佐館(ちょうさやかた、鹿児島県姶良市鍋倉)に居城を移す、島津義久も大隅国の富隈城(とみくまじょう、鹿児島県霧島市隼人町住吉)に居城を移した。

 

 

慶長2年(1597年)4月30日/慶長の役、ふたたび朝鮮へ

朝鮮の加徳島(カドクとう)に入り、在陣中の島津忠恒と合流。この年の2月に豊臣秀吉は再出兵を号令し、島津義弘にも出陣が命じられた。

 

 

慶長2年(1597年)7月/巨済島海戦

唐島(巨済島)で朝鮮水軍と戦う。島津隊は兵3000を率いて陸上で戦った。

 

 

慶長2年(1597年)8月/南原城攻め

南原城(ナムウォンじょう)攻めに参加。8月15日に城は落ちる。

 

 

慶長2年(1597年)10月/泗川の守りを任される

泗川(サチョン、しせん)の在番を命じられ、こちらに移る。まずは泗川邑城(サチョヌプじょう、泗川古城)に入城。そして新たに築かれた泗川新城(サチョンしんじょう)に移った。

 

 

慶長3年(1598年)10月1日/泗川の戦い

9月上旬に董一元が率いる明軍・朝鮮軍が攻めある。島津側の記録では、その兵力は20万(実際には4万~5万くらいか)。島津義弘・島津忠恒は7000ほどの兵で守っていた。大軍と戦うために、支城を棄てて兵をすべて泗川新城に集める。明軍・朝鮮軍は諸城を制圧し、泗川新城を囲んだ。そして10月1日に総攻撃をかけてきた。島津義弘はギリギリまで城に敵を引き付けてから攻撃命令を出す。明軍・朝鮮軍は後方で火薬箱が爆発して混乱し、そこへ島津隊が攻めかかった。明軍・朝鮮軍は敗走。島津隊はさらに追撃をかけ、敵軍を壊滅させた。

 

 

慶長3年(1598年)11月18日/露梁海戦

講和がなり、日本軍は撤退を進めていた。しかし明・朝鮮は講和を破り、水軍をさしむる。順天倭城(スンチョンわじょう)が包囲され、ここに在番していた小西行長(こにしゆきなが)らが閉じ込められた。味方の救援のために日本軍は動く。島津義弘も加わった。露梁(ノリャン)の海峡で島津隊が敵と接触し、戦端が開かれる。この戦いで包囲は解け、小西隊は脱出できた。

 

 

慶長4年(1599年)か/出家、「惟新(いしん)」と号する

『島津国史』によると、この年に出家したという。同年2月の島津義久の書状に「兵庫入道殿」というのが確認できるとのこと。

 

慶長5年(1600年)7月18日/伏見城の戦い

徳川家康が会津(現在の福島県)へ遠征に出た隙をついて、石田三成ら反徳川派が挙兵。伏見城を攻撃した。島津義弘も城攻めに加わった。

 

 

慶長5年(1600年)9月15日/関ヶ原の戦い、島津の退き口

反徳川方は美濃国(現在の岐阜県)へ軍を進める。こちらを「西軍」という。一方、徳川家康の軍勢も美濃へ。こちらを「東軍」という。両軍は関ヶ原(せきがはら、岐阜県不破郡関ケ原町)でぶつかる。島津義弘は1500の兵で参戦。西軍の二番備えであった。決着は数時間であっけなくつく。西軍は総崩れとなった。待機していた島津隊は戦場に取り残され、数万もの東軍勢に囲まれた。そこで、島津隊は敵がひしめく前方へ退路をとる。徳川家康の本隊の前をかすめて駆ける。追撃を振り切って戦場を離脱した。

 

 

慶長5年(1600年)9月22日/大坂城の人質を奪還

島津隊は伊勢から伊賀に抜け、9月20日に摂津国の住吉(すみよし、大阪市住吉区)に入った。大坂城に人質として入っていた、亀寿(かめじゅ、島津忠恒の妻)や宰相殿(さいしょうどの、島津義弘の妻)らの奪還に動く。人質を救出して、9月22日に出航。海路で西に向かう。

 

 

慶長5年(1600年)9月28日/豊前沖の海戦

帰国の途中、黒田孝高(くろだよしたか)配下の水軍と遭遇。戦闘となる。

 

 

慶長5年(1600年)10月3日/帰国

大隅国の富隈城に着く。島津義久と対面する。その後、帖佐へ帰還した。

 

 

慶長7年(1602年)/本領安堵

島津義久・島津忠恒が粘り強く交渉を重ね、徳川家康との和睦がなる。本領は安堵。島津義弘の西軍参加も不問とされた。

 

 

慶長10年(1605年)/平松に移る

居館を帖佐館から平松城(ひらまつじょう、鹿児島県姶良市平松)に移す。

 

 

慶長12年(1607年)/加治木に移る

居館を平松城から加治木館(かじきやかた、鹿児島県姶良市加治木町仮屋町)に移す。

 

 

元和5年7月21日(1619年8月30日)/逝去

加治木館で没する。享年85。

 

 


島津義弘の戦歴について、もうちょっと詳しい記事はこちら。

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<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

鹿児島県史料集37『島津世禄記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1996年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

鹿児島県史料集37『島津世家』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1997年

鹿児島県史料集27『明赫記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1986年

『島津義弘の軍功記』増補改訂版
著/島津修久 発行/島津顕彰会 2000年
※『惟新公御自記』(島津義弘による自伝)を収録・解説

鹿児島県史料『旧記雑録 後編 一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 出版/鹿児島県 1981年

鹿児島県史料『旧記雑録 後編 二』
編/鹿児島県維新史料編さん所 出版/鹿児島県 1982年

鹿児島県史料『旧記雑録 後編 三』
編/鹿児島県維新史料編さん所 出版/鹿児島県 1983年

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『島津貴久 戦国大名島津氏の誕生』
著/新名一仁 発行/戒光祥出版 2017年

『「不屈の両殿」島津義久・義弘 関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』
著/新名一仁 発行/株式会社KADOKAWA 2021年

『島津義弘の賭け』(文庫版)
著/山本博文 発行/中央公論新社 2001年

『関ヶ原 島津退き口 義弘と家康 知られざる秘史』
著/桐野作人 発行/株式会社ワニブックス 2022年

ほか