ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

島津義弘の戦歴(3) 異国での戦い、関ヶ原からの生還

九州を席巻しつつあった島津氏だが、天正15年(1587年)5月に豊臣秀吉に屈服した。これ以降の島津義弘(しまづよしひろ)の戦いは、豊臣政権下でのものとなる。

 

天正15年8月から「島津義弘」と名を改める。それまでは「島津義珍(よしまさ)」と名乗っていた。島津義弘の「強さ」のイメージは、老境に入ったこの頃以降の戦いぶりからきているようにも思う。朝鮮の泗川(サチョン)の戦いのときは63歳。関ヶ原の戦いは65歳での参戦だった。

その戦場での凄みは、経験によるところが大きいと思う。なんといっても、踏んできた場数が多いのである。若い頃から厳しい戦場に身を投じ、そして生き抜いてきた。その中で「戦場での感覚」が研ぎ澄まされた、という感じだろうか。

 

なお、日付は旧暦にて記す。

 

島津義弘のそれまでの戦歴はこちら。

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こちらは年譜をまとめた記事。

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豊臣政権下の島津氏

島津義久(よしひさ、義弘の兄)が降伏した天正15年(1587年)5月8日の時点では、島津氏に安堵されたのは薩摩国のみだった。当初は日向国を大友氏に、大隅国を長宗我部氏に与えるという国分案もあったという。

その後、島津氏は交渉を重ね、薩摩国・大隅国と日向国の南部を安堵された。ただし、すべてが当主である島津義久の所領という扱いではない。まず、島津義久と島津義弘とそれぞれに知行地が与えられた。そして家臣の中にも豊臣秀吉から直接に知行を受けた者もあった。その内訳はつぎのとおり。

 

島津義久/薩摩国(一部のぞく)

島津義弘/大隅国(一部のぞく)

島津久保(ひさやす、義弘の子)/日向国真幸院(まさきいん、現在の宮崎県えびの市・小林市のあたり)

島津忠豊(ただとよ、島津豊久、とよひさ)/日向国佐土原(さどわら、宮崎市佐土原町)・都於郡(とのこおり、宮崎県西都市)

島津義虎(よしとら)/薩摩国出水郡(いずみ、鹿児島県出水市・阿久根市)

北郷時久(ほんごうときひさ)/日向国庄内(しょうない、宮崎県都城市のあたり)

伊集院忠棟(いじゅういんただむね)/大隅国肝属郡(きもつき、鹿児島県肝属郡肝付町・鹿屋市のあたり)

島津以久(もちひさ)/大隅国清水(きよみず、霧島市国分清水)

 


島津家の本拠地の鹿児島がある薩摩国は島津義久へ、大隅国は島津義弘へ。それぞれに与えられた。島津久保は次期当主候補で、島津義久の娘を妻とする。所領を与えられたが、本人は上方へ人質に出される。

島津忠豊(島津豊久)は義久・義弘の末弟の島津家久(いえひさ)の嫡男である。島津家久は九州戦線の主力として大活躍したが、豊臣軍に降伏した直後に急死している。島津家久に与えられるはずだった所領が、そのまま嫡男に認められた。島津忠豊(島津豊久)は、島津本家とは別に豊臣政権から大名してして扱われる。

島津義虎は分家の薩州家(さっしゅうけ)、北郷時久は島津氏の支族である。薩州家も北郷氏も島津義久に従属していたが、もともとは半独立勢力。これらも独立した大名になった。

伊集院忠棟・島津以久は島津義久の重臣である。これらも大名に。


島津氏は南九州に押し込まれて大きく領地を削られた。そのうえ、豊臣秀吉が大名として扱う者たちが乱立。おまけに、島津氏が配置していた地頭には所領替えとなった者も多い。大幅に領地を削られてしまう者もあった。こちらの不満もかなり大きくなっていく。

島津領内は統制がとれなくなる。

 

 

豊臣家に従う島津義弘、距離をおく島津義久

天正13年(1585年)に島津義弘は兄から「名代」「守護代」に指名されている。島津義久が当主ではあるが、島津義弘ももうひとりの当主という感じで運営された。ふたりを「両殿」と呼んだりもした。

豊臣政権下は島津義弘のほうを島津家の代表として扱うようになる。そして、弟を厚遇し、兄を冷遇する。例えば、豊臣姓は島津義弘にみに与えられていたりする。豊臣秀吉には、兄弟を仲違いをさせようという思惑もあったかもしれない。

そんな中で、島津義弘は豊臣政権の命令にしっかりと応えようとする。そうすることが島津家が生き残っていくための方策だと考えたのだろう。

一方の島津義久は豊臣政権とは距離をとる。統制がとれなくなった領内の立て直しを優先したかったようだ。国許の家臣たちも、多くが義久を支持した。

 

兄と弟は政治的に対立する。島津義弘が豊臣政権の命令を実行しようとしても、国許の協力がまったく得られない状況が頻発する。

 

 

島津義弘が栗野に移る

島津義弘は日向国真幸院の飯野城(いいのじょう、宮崎県えびの市原田)を居城としていた。その期間は長く、永禄7年(1564年)から天正18年(1590年)までの約26年間である。

真幸院は息子の島津久保に譲ることとなり、天正18年には飯野城を出る。大隅国栗野院の松尾城(まつおじょう、栗野城、鹿児島県湧水町栗野)に居城を移した。

島津義久には男子がなく、島津久保は次期当主にも指名された。また、天正18年(1590年)の小田原征伐にも参陣している。

 

写真は栗野の松尾城跡。島津義弘が築かせたという野面積の石垣も残る。

石段と石垣がある

松尾城跡

 

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文禄の役

豊臣秀吉は小田原征伐を成功させ、日本全国を従えた。そして、つぎは海を越えて明(ミン)国を攻め取るという野望を抱く。

天正19年(1591年)8月、「唐入り」を全国の大名に告げる。決行は天正20年春とした。まずは朝鮮王朝(李氏朝鮮)に侵攻し、明に攻め入る計画である。肥前国の名護屋(なごや、佐賀県唐津市鎮西町名護屋)に前線基地を整備させ、全国の大名にも渡海のための準備を求めた。

天正19年12月には関白職を甥の豊臣秀次に譲る。太閤となった豊臣秀吉は、唐入りに専念する。

 


日本一之遅陣

大名には石高に応じて兵の動員が割り当てられた。天正20年(1992年)3月の陣立てでは島津義弘は第四軍に属し、兵数は1万が課せられた。しかし、島津家領内では依然として統制がとれていない。募兵はするもののまったく揃えられず。

島津義弘・島津久保は2月27日に栗野の松尾城から出陣する。引き連れる兵は、たったの23騎だったという。3月末には名護屋に入る。しかし、兵も集まってこないうえに、船も来ない。しかたなく現地で船を借り、4月27日に対馬を発つ。なんとか渡海し、朝鮮の釜山には5月3日に到着した。家臣宛の手紙の中で「日本一之遅陣」と島津義弘は嘆いている。

小西行長(こにしゆきなが)・宗義智(そうよしとし)の第一軍は4月13日より釜山攻撃を開始した。第四軍も4月17日に釜山に上陸している。日本軍は破竹の勢いで制圧していく。5月2日には王都の漢城(ハンソン、現在のソウル市)が陥落した。朝鮮王の宣祖(そんじょ)は平壌(ピョンヤン)に落ちのびる。島津義弘隊は小規模な戦闘をこなしながら、第四軍に合流すべく大急ぎで進んだ。兵を送るよう国許にも要請するが、こちらも改善されない。

 

 

梅北一揆

朝鮮の戦いが続く中で、肥後国佐敷(さしき、熊本県葦北郡芦北町)で事件が起こる。

6月15日、島津氏配下の梅北国兼(うめきたくにかね)らが反乱を起こし、加藤清正(かとうきよまさ)領の佐敷城を占拠しただのだ。梅北国兼は兵をひきつれて渡海し、島津義弘隊に合流予定だった。梅北一揆は3日ほどで鎮圧された。島津義久は名護屋に参陣していたが、7月に鹿児島に戻る。国許で事件の収拾をつけるためであった。豊臣秀吉は、梅北一揆に関与したとして島津歳久(としひさ、義久・義弘の弟)の追討を命じる。7月18日に島津歳久は討たれた。

 

 

転戦

天正20年6月15日、日本軍は平壌(ピョンヤン)を制圧する。朝鮮王は明国との国境近くまで逃げ、明国に援けを求めた。明軍が動き出すと、日本軍の勢いを止まった。戦況は膠着する。明国との和平も模索されるが、こちらもうまくいかず。


島津義弘隊は第四軍に遅れて合流し、江原道(ガンウォンド)の攻略にあたっていた。江原道は交通の要衝で、日本軍はこのあたりに城を築く。このうちの永平(ヨンピョン)に、島津義弘・島津久保は入る。

11月、春川城(チョンチュンじょう)が明軍(あるいは朝鮮軍)6万に攻められた。このとき春川城は島津忠豊(島津豊久)が500の兵で守っていた。島津義弘は援軍を出す。敵は戦わずに撤退した。

しかし、援軍が帰ったあと、再び明軍が春川城を囲んだ。島津忠豊(島津豊久)隊は奮戦し、敵を撃退した。なお、敵軍勢の兵数は『島津国史』『本藩人物誌』によるもの。数字は誇張されているような感じがする。

文禄元年(1592年)12月に、島津義弘・島津久保は永平から移り、金化城(クムファじょう)の守りについた。ここで敵軍とたびたび戦った。

文禄2年(1593年)6月には朝鮮南部の晋州城(チンジュじょう、もくそ城)の攻撃に参加。「もくそ城取巻人数之事」という覚書によると、島津義弘が率いる兵は2128人だったという。軍役として課された1万人には遠い。また、島津忠豊(島津豊久)隊は446人。

晋州城陥落後の6月29日には、唐島(からしま、巨済島)の永登浦倭城(ヨンドンポわじょう)に入った。

 

 

島津久保の死、島津忠恒が後継者に

文禄2年(1593年)9月8日、唐島(巨済島)にあった島津久保が病没する。まだ、21歳だった。島津家は後継者を失う。

世嗣には、島津忠恒(ただつね)が立てられることになった。島津久保の弟である。島津忠恒は上洛し、豊臣秀吉に見参する。その後、朝鮮に渡海する。文禄3年(1594年)10月30日に唐島(巨済島)に入り、島津義弘に合流した。

 

 

島津義久と島津義弘の国替え

島津義弘はいったん帰国する。文禄4年(1595年)5月10日に唐島(巨済島)を出て、6月5日に大坂へ。7月28日に栗野に戻った。およそ3年ぶりの帰国だった。

島津領内の検地を終えて豊臣政権は知行目録を発給した、島津義久宛ではなく、島津義弘宛てに。また、領内では大幅な所領替えがあった。その中で、薩摩国は島津義弘に、大隅国は島津義久にあてがわれた。これまでとは入れ替わりである。豊臣政権は島津義弘に本拠地のある薩摩国を与え、島津家の代表とみなした。

島津義久は鹿児島を出て、大隅国の富隈城(とみくまじょう、鹿児島県霧島市隼人町住吉)に居城を移した。

島津義弘は鹿児島には入らず。兄に遠慮してのことだろう。文禄5年(1596年)10月に大隅国帖佐に帖佐館(ちょうさやかた、鹿児島県姶良市鍋倉)を築き、ここに居城を移す。

鹿児島の内城(うちじょう、鹿児島市大竜町)は、島津忠恒の居城となる。ただし、本人は朝鮮に在陣中である。

 

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慶長の役

日本と明国の間では、和平交渉がすすめられた。だが、うまくいかず。豊臣秀吉は再び侵攻を諸大名に号令。慶長2年(1597年)2月に出兵を開始する。

島津義弘にも出陣が命じられた。課せられた兵数は1万人。ただし、今回も兵を揃えきれなかったようである。島津義弘は2月21日に帖佐を発ち、壱岐や対馬を経由して4月30日に朝鮮の加徳島(カドクとう)に入る。ここに在陣していた島津忠恒と合流した。

 

 

巨済島海戦、南原城の戦い

慶長2年7月、唐島(巨済島)の周囲にあった朝鮮水軍と戦う。日本側は藤堂高虎(とうどうたかとら)・加藤嘉明(かとうよしあきら)らが水軍を率いて攻める。島津隊は兵3000を率いて唐島(巨済島)に入る。海戦で敗れて上陸しようとしてきた朝鮮軍を撃った。

この戦いに勝利し、日本軍は巨済島近海の制海権を奪った。

8月12日、日本軍は明軍・朝鮮軍が守る南原城(ナムウォンじょう)を囲む。島津隊もこれに加わり、敵首421を討ち取ったという。南原城は8月15日に陥落する。その後、日本軍は全羅道(チョラルド)・忠清道(チョンチュド)の攻略をすすめた。

 

 

泗川の守りを任される

慶長2年10月、島津義弘は泗川(サチョン、しせん)の在番を命じられ、泗川邑城(サチョヌプじょう、泗川古城)に入る。そして新たに築かれた泗川新城に移った。

日本軍は朝鮮南部に日本式の城郭を築いた。泗川新城もそのひとつである。ほかに蔚山倭城(ウルサンわじょう)や順天倭城(スンチョンわじょう)なども築かれる。

同年12月には築城途中の蔚山倭城が大軍に攻められた。加藤清正が未完成の城をなんとか持ちこたえ、援軍を得て敵を撃退している。

 

 

太閤の死

慶長3年(1598年)8月18日、豊臣秀吉が没する。その死は伏せられ、日本側はひそかに撤退の準備をはじめた。

一方の明・朝鮮軍は大軍で攻勢をかける。陸路で蔚山・泗川・順天を攻め、水軍も侵攻させることとした。9月に侵攻を開始する。

9月22日、明・朝鮮軍は蔚山倭城に攻めかかる。蔚山倭城では加藤清正が籠城。前年の戦いのときとは違い、城側では準備ができていた。明・朝鮮軍は攻めあぐねた。また、同時期に展開した順天の戦いも、小西行長らがよく守った。

 

 

泗川の戦い

島津義弘らが守る泗川にも敵が迫る。慶長3年(1598年)9月上旬に董一元が率いる明軍・朝鮮軍は晋州城に入り、攻撃の機会をうかがう。

泗川の戦いについては17世紀に島津家が編纂させた『征韓録』に詳しい。こちらを参考にしながら、戦況を追ってみる。同書によると敵の兵数は20万としている。数字には誇張があると思われる、実際には4万~5万くらいだろうか。それでもかなりの大軍だ。一方の島津方の兵力は7000ほどだったという。


晋州城のすぐ南側には晋江(南江)が流れている。この川を挟んで、島津隊と明軍・朝鮮軍は対峙する。

泗川新城に島津義弘・島津忠恒の本隊が入り、支城にも部隊を配置していた。泗川邑城は川上忠実(かわかみただざね)、永春(ヨンチュンじょう)の城に川上忠智(ただとも)、望津(マンジン)の城に寺山久兼が入っていた。望津城と永春城は晋江(南江)の南岸にあり、晋州城のすぐ近く。また、泗川邑城は晋江(南江)と泗川新城との中間地点といった位置関係である。

島津義弘は支城の部隊に、泗川新城に終結するよう指示を出した。兵力差が大きいことから、兵を分散させるよりも集中させるほうが勝機ありと考えたのだろう。望津城と永春城の城兵は泗川新城に入る。寺山久兼は望津城に幟旗を立て、移動をさとられないように擬兵の策も打つ。一方、泗川邑城では城にあった食糧を運ぶのにやや手間取っていた。

 

明軍の董一元は島津方の策略を警戒し、川を渡ろうとしない。島津義弘は泗川新城を決戦の地と定めた。『征韓録』には敵を誘導するための策を講じたことも書かれている。

島津家の陣中に、郭国安という明人がいた。のちに汾陽理安(かわみなみりあん)と名乗る人物である。その郭国安が内応すると手紙を明側に送る。望津城の食糧に火をかけて島津方を混乱させると持ちかけてきたのだ。内応は偽りで、島津方の策略である。9月20日、望津城に火の手が上がる。これを郭国安の合図と察した明軍は渡河して攻めかかった。無人の望津城・永春城を一気に制圧した。

泗川邑城の川上忠実の部隊は逃げ遅れてしまう。9月28日、ここに数万の敵が襲来する。城兵は300ほど。島津忠恒は泗川邑城の救援に出たいと訴えるが、島津義弘は許可せず。結局、川上忠実は自力で脱出。その際に150もの兵が戦死。また、泗川新城に逃げ込んだ川上忠実には36本の矢が刺さっていたという。

9月29日、島津忠恒は城から撃って出たいと申しでるが、またも島津義弘は却下する。泗川邑城まで制圧した明・朝鮮軍は南下。大軍が泗川新城へと押し寄せてくる。敵方は泗川新城近くに立て札をたて、10月1日の総攻撃を予告した。

 

10月1日、朝から明・朝鮮軍は猛攻をかける。泗川新城は守りを固めて応戦する。まだ撃って出ない。島津義弘はギリギリまで敵を引き付ける算段だ。城門を破って敵兵が城のなだれこもうとしたそのとき、島津義弘は「時分ヨキゾ」(『征韓録』より)と下知。鉄砲隊の一斉射撃で、敵兵が倒されていく。また、明軍の後方では火の手があがる。火薬箱に引火して爆発したのである。明軍・朝鮮軍は混乱した。島津方は城から撃って出る。明軍・朝鮮軍は大きな被害を出し、混乱した兵は逃げはじめる。

明軍・朝鮮軍は北へ敗走する。島津勢は追撃をかける。晋江(南江)を渡る際に溺れた敵兵も多かったという。

追撃の際に城からほとんどの兵が出払った。そこを衝こうと動く明の一隊もあった。茅国器が率いるおよそ1万の軍勢が泗川新城を目指す。この動きに気付いた島津忠長(しまづただたけ、義弘の従兄弟)は100の兵を率いてこれを止めようとした。寡兵でよく持ちこたえていたところ、寺山久兼隊100が敵軍の背後を攻撃して大打撃を与える。こちらの軍勢も撤退させた。

ちなみに『征韓録』は島津久通(ひさみち)が編集したものである。この人物は島津忠長の孫にあたる。

明軍・朝鮮軍は壊滅した。島津氏の報告によると、挙げた首級は3万8717。「此外切捨ハ不知其数」とも付け加えられている。

明軍・朝鮮軍は泗川で大敗した。同時期に展開していた蔚山と順天においても攻めきれず、兵を退く。

 

 

撤退命令

日本では明と講和を結んで、兵を退くことを決める。講和交渉が行われるとともに、朝鮮在陣中の軍勢には撤退命令が出された。慶長3年(1598年)10月9日に泗川の島津義弘にもこのことは伝わる。

10月13日に明の使者が泗川新城を訪れ、和議をはかる。敵方から人質をとって、11月16日に島津隊は泗川を出た。

 

 

露梁海戦、そして帰国

日本と明との講和がなり、停戦して双方が撤退することとした。しかし、明側は約束を違えた。順天倭城を攻撃してきたのである。海上は李舜臣(イスンシン)が率いる朝鮮水軍が封鎖した

順天倭城を出ようとしていた小西行長らの部隊は行く手を遮られて閉じ込められた。島津義弘・立花宗茂(たちばなむねしげ)・高橋直次(たかはしなおつぐ)・寺沢広高(てらさわひろたか)らは協議し、順天の救援に向かうことになった。

 

慶長3年(1598年)11月18日の早朝、島津義弘の水軍が露梁(ノリャン)の海峡で戦端が開かれる。明軍・朝鮮軍が待ち伏せていたのだ。大乱戦となる。この海戦で、明軍の鄧子龍や朝鮮軍の李舜臣などは討たれた。

海上封鎖が解けて、小西隊は順天倭城を脱出。目的を果たした日本軍も戦いをやめて唐島(巨済島)へと撤退した。

ただ、この際に島津義弘の乗る船が潮に流されて敵に拿捕されそうになった。種子島久時(たねがしまひさとき)・川上忠兄(かわかみただえ)らの船が救援に向かい、なんとか難を逃れた。ちなみに種子島久時は鉄砲の名手で、船上の敵兵をづぎつぎと撃ち倒したという。

島津隊の中には、船が壊れて南海島(ナムヘとう)に上陸した部隊もあった。樺山久高ら500人ほどが島に取り残されてしまう。こちらにも迎えの船を出して救出した。

 

島津隊は南海島の味方を収容し、11月21日に唐島(巨済島)を出航。翌日、日本軍が落ち合う釜山にいたる。日本軍の多くがすでに釜山を出たあとだった。ただ、島津忠豊(島津豊久)は島津義弘らを待っていた。11月23日にいっしょに釜山を発つ。

12月10日、島津義弘は筑前国博多に着く。

 

加増される

豊臣政権による朝鮮遠征は失敗に終わった。そんな中にあっても、島津義弘には恩賞が与えられた。薩摩国出水や大隅国加治木など5万石の加増である。

朝鮮での戦いぶり、とくに泗川の大勝が評価されたのである。泗川の戦いの記録はけっこうたくさんある。島津家側でも大いにアピールしたのだろう。

寡兵で大軍を撃退したこの戦いは、島津義弘の強さを諸将に印象付けた出来事でもあったのではないだろうか。

 

精矛神社(くわしほこじんじゃ、鹿児島県姶良市加治木町)には、朝鮮から持ち帰ったとされる石臼と手水鉢がある。帰国時の軽くなった船を安定させるために、重しとして積み込まれたのだという。なお、精矛神社は島津義弘を御祭神としている。

大きな石臼が置かれている

精矛神社の石臼

 

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関ヶ原の戦い

豊臣秀吉が亡くなり、家督は豊臣秀頼がついだ。だが、まだ幼少である。政権運営は五大老(徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家)と五奉行(石田三成・増田長盛・浅野長政・前田玄以・長束正家)の合議制で運営された。だが、政権は崩壊へと向かう。

五大老の徳川家康は権力を掌握していく。ほかの大老・奉行がこれに反感を持つ。対立はやがて「関ヶ原の戦い」へとつながる。そして島津家も巻き込まれるのである。

 

 

庄内の乱

慶長4年(1599年)3月9日、島津家に事件が起こる。京で島津忠恒が筆頭家老の伊集院忠棟(いじゅういんただむね)を殺害したのだ。謀反の疑いがある、というのが理由だった。

伊集院忠棟は豊臣秀吉から日向国庄内に8万石の知行を得ていた。待遇としては独立した大名である。豊臣政権への叛逆ととらえられてしまいかねない行為だったが、徳川家康は島津忠恒を不問とした。

庄内には伊集院忠真(ただざね、忠棟の嫡男)があった。閏3月、庄内の諸城の守りを固めて、島津家と戦う構えを見せる。島津忠恒は鹿児島に帰国して対応にあたることになった。庄内に向けて軍を発し、6月上旬に布陣した。島津義久も出陣する。

徳川家康は島津家を支援する。軍勢を派遣し、和睦交渉にも手を尽くした。反乱は長引くが、伊集院忠真は慶長5年(1600年)3月に降伏した。

「庄内の乱」に介入したことで、徳川家康は島津家に恩を売った形となった。

 

 

伏見城の留守番を頼まれる

慶長5年(1600年)4月27日、島津義弘は徳川家康を訪問した。庄内の乱への支援の御礼を述べるためであった。その席で徳川家康は、自身が会津(現在の福島県)に遠征した際の伏見城(京都市伏見区)の留守を島津義弘に依頼したいと言ってきたという。この頃、大老の上杉景勝が会津に戻ったまま上洛を拒否していた。その対応として、徳川家康は会津出兵を考えていた。

ところが島津義弘のもとには兵がわずかしかいなかった。伏見城留守の役目が決まった場合に対応できるよう、国許に急ぎ兵を送ることを要請する。しかし、兵はぜんぜんこないのである。庄内の乱があったばかりで、島津家は兵を出せる状態ではなかった。

 

 

石田三成が挙兵、島津義弘は西軍につく

慶長5年(1600年)6月、徳川家康は会津征伐に動く。6月17日に大阪を発した。ところが石田三成が大阪に引き返し、諸将としめしあわせて挙兵した。反徳川方は毛利輝元を大将とする。こちらを「西軍」と呼ぶ。一方の徳川方は「東軍」である。島津義弘は西軍についた。

 

島津義弘は徳川家康の要請のとおりに、当初は伏見城に入城しようとしたという。だが、伏見城を守る鳥居元忠(とりいもとただ)が入城を拒む。島津義弘は相変わらず兵が少ない。入城できないままでは西軍方に潰されてしまう……ということから仕方なく西軍についた、というのである。

これはどこまでが事実であるかはわからない。戦後の和平交渉の中で語られたものであり、「本意ではなかった」「仕方なく」という感じを出している。言い訳がましい印象を受ける。実際のところは、石田三成らの説得に折れて自発的に西軍に参加した可能性もあるかもしれない。

 

7月18日、西軍は伏見城を攻める。島津義弘は島津豊久と合流して攻撃に参加する。

依然として国許から派兵はない。島津義弘の手勢は200ほどだったようだ。結局、志願兵を募るような感じとなる。南九州から「島津義弘のために」と自発的に駆けつけてくる者が、ちょっとずつ加わる。こちらの動きに対しては島津義久・島津忠恒も黙認したようだ。

島津隊は島津豊久の兵もあわせて、最終的に1500ほどになったという。

島津義弘は石田三成らとともに美濃国に移動。大垣城(岐阜県大垣市)を経て、決戦の地である関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)へ。

 

 

決戦

慶長5年9月15日(1600年10月21日)未明、西軍と東軍が関ヶ原に布陣する。巳の刻(午前10時頃)に戦端が開かれた。

島津義弘隊は二番備えだったという。石田三成隊の後方で待機した。戦況をうかがいながら、撃って出るべき時機を計った。しかし、その機会はついに訪れなかった。昼過ぎには西軍は総崩れに。大勢が決したのだ。

 

 

島津の退き口

西軍の軍勢は敗走する。そして、島津隊は戦場に取り残された。周囲を数万の敵が取り囲む。

島津隊の兵力は1500ほど。この時点では、さらに減っていると思われる。ただ、その兵の多くが、島津義弘を慕って駆け付けた者たちである。士気は高い。ちなみに、この戦いをともにした武将の顔ぶれはつぎのとおり。

島津豊久/日向国佐土原の大名。島津家久の子で、島津義弘の甥にあたる。

山田有栄(やまだありなが)/山田有信(ありのぶ)の子。

長寿院盛淳(ちょうじゅいんせいじゅん)/島津義弘の家老。

新納旅庵(にいろりょあん、新納長住)/島津義弘の家老。新納康久(やすひさ)の子。

新納忠増(にいろただます)/新納忠元(ただもと)の子。

新納忠在島津久元、ひさもと)/島津忠長の子で、新納家に養子に入っていた。のちに実家に戻り、宮之城島津家をつぐ。

喜入忠続(きいれただつぐ)/喜入季久(すえひさ)の子。島津氏庶流。

伊勢貞成(いせさだなり)/家老。島津義弘の旧領の飯野の地頭でもある。

入来院重時(いりきいんしげとき)/島津以久(もちひさ)の子。養子入りして入来院氏の当主となった。

肝付兼護(きもつきかねもり)/肝付氏嫡流。肝付兼続(かねつぐ)の子。

 


島津義弘は退かずに戦死することを覚悟する。しかし、島津豊久が説得して、退却することを決める。

 

惟新様被成御意候ハ、敵ハ何方か猛勢か御尋ニ而候、東より之敵以之外猛勢之由被申上候ヘハ、其猛勢之中へ可相掛之由 (「神戸久五郎覚書」より/『旧記雑録 後編三』収録)

島津義弘は「敵はいずかたが猛勢か」と尋ねる。「東よりの敵、もってのほか猛勢」と家臣が答える。すると、島津義弘は「その猛勢の中へ、相掛かかるべし!」と。

 

そうして、島津隊の撤退戦が始まった。東は敵方がひしめきあう。前方への退却である。このとき後方は敗走する兵でごちゃついていた。敵に向かっていくほうが活路が見いだせる、と島津義弘が判断したとも。

島津隊は乱戦を切り抜けつつ駆ける。その道中で、徳川家康の本隊と遭遇。こちらをかすめるように進み、伊勢路へと抜ける。徳川家康の陣からは、松平忠吉(まつだいらただよし、徳川家康の四男)・井伊直政(いいなおまさ)・本田忠勝(ほんだただかつ)らが追撃をかける。井伊直政は銃撃により負傷。本田忠勝は馬をやられて足が止まる。島津隊はふりきった。

 

写真は、鹿児島県日置市伊集院の島津義弘の騎馬像。JR伊集院駅前にある。製作者は彫刻家の中村晋也。伊集院にある妙円寺(みょうえんじ)は島津義弘の菩提寺である。関ヶ原の戦いの当日に島津義弘を参拝する「妙円寺詣り」という行事が江戸時代から続いている。

騎馬武者の銅像

島津義弘像伊集院

 

 

長寿院盛淳は陣に残る

家老の長寿院盛淳は、島津義弘の陣羽織をまとって陣に残っていた、主人の身代わりとして。島津義弘が遠くまで逃げたことを確認すると、「島津兵庫頭死に狂い也」と声を挙げて戦い、乱戦の中で討ち死にしたのだという。

一緒に残って戦っていた新納忠増・新納忠在は戦線を離脱。このふたりは生還する。

 

 

島津豊久の討ち死に

島津豊久は、島津義弘を守りながら東へ向かっていた。しかし、山田有栄がその姿が見当たらないことに気づく。山田有栄は引き返す、島津豊久を探すために。すると、豊久の愛馬がいた。主人は乗っていない。鞍には血が溜まっていたという。島津豊久が戦死したことをさとった山田有栄は捜索を諦めた。

島津豊久の最期についてはよくわかっていない。豊久のまわりにいた者たちもすべて討ち死にしたようで、証言がないのである。

烏頭坂(うとうざか、岐阜県大垣市上石津町)で討ち死にしたとも伝わる。ここには記念碑もある。

 

 

長い長い帰国路

島津義弘は戦場を離脱した。だが、ここからが大変なのである。国許の薩摩・大隅は遠いのだ。

 

伊勢路に入ると、撤退中の長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)・長束正家(なつかまさいえ)の部隊と遭遇する。兵の少ない島津隊は、先に撤退させてもらうことに。長束正家は道案内を一騎つけてくれた。

島津義弘一行は落ち武者狩りと戦いつつ大坂を目指す。駒野峠(大垣市上石津町)から近江国の高宮(たかみや、彦根市高宮町)に出て信楽(しがらき、滋賀県甲賀市信楽町)に抜けたというのが定説。桐野作人氏の著書『関ヶ原 島津退き口』によると、高宮には出ずに信楽に出るルートをとっただろうとしている。個人的には桐野氏の説に同意する。

島津隊の中にははぐれた者もあり、また、追手をまくための工作もあったかもしれない。そういったことも、島津隊の動きをわかりにくくしていると思われる。

逃避行の中で入来院重時や新納旅庵などがはぐれている。入来院重時は追手に見つかり、戦って主従7名が討ち死にしたという。新納旅庵は入京して潜伏するが、捕縛された。新納旅庵はのちに講和交渉で活躍する。

 

島津隊は9月20日に摂津国の住吉(すみよし、大阪市住吉区)に入った。信楽から木津(きづ、京都府木津市)を通り、飯盛山(いいもりやま、京都府城陽市)・平野(ひらの、大阪市平野区)を経由してここへ至ったと考えられる(桐野作人氏の説による)。

余談だが、住吉は島津氏初代の島津忠久(しまづただひさ)の誕生伝説が残る地でもある。

 

住吉では田辺屋道与という商人が協力する。塩屋孫右衛門という堺(さかい、大阪府堺市)の商人も紹介してもらい、船を手配した。

大坂城には人質として島津忠恒夫人の亀寿(かめじゅ、義久の娘でもある)、島津義弘の妻の宰相殿(さいしょうどの、広瀬夫人、園田実明の娘)があった。部下を遣わして人質を奪還している。

 

9月22日、島津義弘は堺を出航する。西宮沖で立花宗茂の船団と遭遇する。こちらも西軍として参加し、九州の自領へ向かっているところだった。島津と立花の船団はいっしょに瀬戸内海を西へ向かう。9月26日に周防国の日向泊(山口県大島郡周防大島町)に停泊した際には、立花宗成が島津義弘の船を訪問した。

9月28日、豊前沖で黒田氏の水軍と遭遇する。豊前中津(なかつ、大分県中津市)の黒田長政(くろだながまさ)は東軍の主力として活躍した。父の黒田孝高(くろだよしたか、黒田如水)は国許に残り、九州の西軍方を攻撃していた。

海戦は激しく、島津方の船2艘が沈められた。犠牲を出しながら、島津氏の船団はさらに南下。9月29日に日向国の細島(ほそしま、宮崎県日向市)に上陸する。

 

細島から高鍋(たかなべ、宮崎県児湯郡高鍋町)を経由し、10月1日に佐土原城に入る。島津豊久の居城である。島津豊久の討ち死にを家族にも伝える。

この頃、日向国南部の飫肥(おび)の伊東氏が不穏な動きを見せていた。当主の伊東祐兵(いとうすけたけ)は大坂で病に伏せっていただが、東軍方に内応。国許を任されていた稲津祐信(いなづすけのぶ)は黒田孝高と結んで、九州の西軍方の攻略に動く。伊東軍は佐土原城のすぐ南にある宮崎城を攻めて乗っ取っていた。

島津義弘は佐土原を早々に発つ。先を急ぐ。島津義久は日向方面に警固のための兵を出して支援した。10月1日に八代(やしろ、宮崎県東諸県郡国富町)に到着。ついに島津領内に入った。

 

10月3日、島津義弘は大隅国の富隈城に着く。ここは島津義久の居城である。兄と対面した。そして、自身の居館がある帖佐へ帰還した。

 

城跡と神社

富隈城跡

 

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本領安堵

島津家では薩摩国北部の出水・大口(いずみ・おおくち、鹿児島県出水市・伊佐市大口)の防備を固め、東軍方の攻撃に備えた。黒田氏・加藤氏・鍋島氏ら九州の東軍方による討伐軍が南下、11月7日に肥後国水俣(みなまた、熊本県水俣市)に布陣した。だが、戦端は開かれなかった。

同時進行で、徳川家康との講和交渉を進めていた。関ヶ原で島津隊に傷を負わされた井伊直政は仲介役を買って出たという。黒田孝高も仲介となり、講和に向けて動く。一方、島津義弘は慶長5年(1600年)末に大隅国向島(むこうじま、桜島)に謹慎蟄居する。

島津義久・島津忠恒が粘り強く交渉を重ねた。そして、慶長7年(1602年)に講和がなった。島津家は本領安堵を勝ち取る。島津義弘もお咎めなし。

 

 

加治木で死す

島津義弘は大隅国加治木(かじき、鹿児島県姶良市加治木町)で隠居生活を送った。引退したあともまだまだ元気で、加治木の産業振興や教育に力を入れた。

 

元和5年7月21日(1619年8月30日)に没する。享年85。

 

春秋の花も紅葉もとどまらず人も空しき関路なりけり
(はるあきの はなももみじも とどまらず ひともむなしき せきじなりけり)

 

島津義弘の辞世の歌である。「春になり秋になり、桜も紅葉も散っていく、人の命もはかないものだ、関ケ原からの道もそうであった」といったところ。

 

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<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

鹿児島県史料集37『島津世禄記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1996年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

鹿児島県史料『旧記雑録 後編 二』
編/鹿児島県維新史料編さん所 出版/鹿児島県 1982年

鹿児島県史料『旧記雑録 後編 三』
編/鹿児島県維新史料編さん所 出版/鹿児島県 1983年

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『「不屈の両殿」島津義久・義弘 関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』
著/新名一仁 発行/株式会社KADOKAWA 2021年

『島津義弘の賭け』(文庫版)
著/山本博文 発行/中央公論新社 2001年

『関ヶ原 島津退き口 義弘と家康 知られざる秘史』
著/桐野作人 発行/株式会社ワニブックス 2022年

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