島津家の「小返しの五本鑓」について、紹介してみる。
慶長5年(1600年)9月15日、美濃国関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)で合戦があった。徳川家康が率いる東軍が、反徳川方の西軍を破る。
島津義弘(しまづよしひろ)は西軍に参加し、敗軍の将となる。戦況が決したとき、島津義弘の部隊は戦場の真っただ中にあった。島津隊は前方に向かって退却を敢行。徳川家康本陣の前をかすめ、激しい追撃を振り切り、戦場を離脱した。「島津の退き口」である。
徳川方の猛追を撃退した5人の将があった。撤退戦(島津の退き口)の殊勲者として「小返しの五本鑓」と讃えられる。
その顔ぶれはつぎのとおり。
川上忠兄(かわかみだだえ)・川上久智(ひさとも)・川上久林(ひさしげ)・押川公近(おしかわきみちか)・久保之盛(くぼゆきもり)である。
日付については、旧暦にて記す。
井伊直政・本田忠勝らを止める
「小返しの五本鑓」という言葉は、関ヶ原の戦いの当時の史料には見当たらなかった(『旧記雑録 後編三』の中で確認)。5人が戦った記述も見当たらず。ちょっとあとの時代に言われるようになったものだろうか。後世の創作の可能性も。
文化9年(1812年)に白尾国柱(しらおくにはしら)が著した『倭文麻環』(「しずのおだまき」と読む)に「五人小返しの槍」なる言葉が確認できる。
川上左京亮・同四郎兵衛・同久右衛門・久保七兵衛・押川強兵衛、五人小返しの槍をつかひし (『倭文麻環』より、読みやすくするために一部に読点などを追加)
とある。
また、『島津世家』にも5人の活躍が記されている。こちらは、明和6年(1744年)に編纂された島津氏の正史である。
川上京亮久林・同四郎兵衛尉忠兄・同久右衛門尉久智・押川公近・久保七兵衛尉等與公相失、向伊吹山敗走亦衣軍數百追及之、忠兄等下馬将決死 (『島津世家』より)
5人は下馬して死を決して、敵の追撃に対峙したという。なお、出典元の「川上京亮」というのは「川上左京亮」から一文字落ちていると思われる。
『西藩野史』には、もうちょっと詳しめに記される。こちらは宝暦8年(1758年)頃にまとめられたもの。同書からも引用してみる。なお「惟新公」は島津義弘のこと、「内府公」は徳川家康のこと、「龍伯」は島津義久(よしひさ、島津義弘の兄)である。
惟新公、川上四郎兵衛忠兄を内府公に使して曰。初伏見に在るのとき城に入り内府公殊遇の恩を報せんとす、鳥居内藤聴かず、止むことを得ずして西軍に与し素志に違う、今や国に帰る、我社稷のことに至ては、龍伯・忠恒、告訴して聴を煩わさん。四郎兵衛帰るに及んで、惟新公に後る伊吹山の麓を廻りて去る。川上久右衛門久智、川上助七久林、押川六兵衛、久保七兵衛等これに従ふ (『西藩野史』より、読みやすいようにカタカナを平仮名に打ち替え、一部に句読点や濁点を追加)
だいたい、こんなことが書かれている。
島津義弘は徳川家康の本陣に川上忠兄を使いに出す。そして、こう告げさせた。「はじめ伏見の城に入って徳川家に加勢をしようとしたのに、鳥居元忠(とりいもとただ)が拒んだ。だからやむを得ず西軍に与した。これは本意ではない。今はとりあえず国に帰る。あとで島津義久と島津忠恒が申し開きをするから」と。そして、川上忠兄は島津義弘本隊を追う。川上久智・川上久林・押川公近・久保之盛も行動をともにした。
……と。そのあとの展開については、つぎのとおり。
撤退する島津隊に対して、徳川方の松平忠吉(まつだいらただよし)・井伊直政(いいなおまさ)らが追撃してくる。川上忠兄・川上久智・川上久林・押川公近・久保之盛は踏みとどまって迎え撃つ。そして、松平忠吉と井伊直政を負傷させた。
松平忠吉は、島津方の松井三郎兵衛に組み伏せられて負傷する。松井三郎兵衛は敵方に討ち取られている。
また、井伊直政は島津方の銃撃で深手を負う。川上忠兄の配下の柏木源藤(かしわぎげんとう)の狙撃によるもとも伝わる。誰が撃ったかは諸説あり。
また、本田忠勝(ほんだただかつ)の馬も狙撃され、こちらの足も止めている。
五本鑓の活躍もあって、島津義弘は戦場から離脱できた。……のだという。
こちらの記事も、参考までに。
「捨て奸」にあらず
「島津の退き口」においては、「捨て奸(すてがまり)」という戦法が語られることも多い。「兵が留まって死ぬまで戦う」というもので、これにより島津隊は足止めをした、と。
だが、「捨て奸」という言葉は島津氏側の史料には、まったく出てこないのである。どうやら後世の創作っぽいのだ。
川上忠兄・川上久智・川上久林・押川公近・久保之盛らの戦いぶりは「捨て奸」を想起させるものではある。ただし、「死ぬまで戦う」というものではない。決死の覚悟で戦うのではあるが、あくまでも生還を目指しているはずだ。
そして5人とも、激闘を潜り抜けて生還しているのである。
「島津の退き口」では戦死者が多かったのも事実である。それは「捨て奸」によるものというより、あくまでも激戦の中でのこと。
「小返しの五本鑓」と讃えられることになる5人は、いわゆる殿軍(しんがり)であろう。
5人は戦場を離脱したものの、島津義弘の本隊とははぐれてしまう。別行動で西を目指すことに。その道中で徳川方に捕縛されたりもするが、国許への生還を果たした。
「小返しの五本槍」それぞれの履歴
川上忠兄
川上忠兄と川上久智は兄弟で、川上久林はふたりの甥にあたる。
川上氏は島津氏の一族である。島津氏5代の島津貞久(さだひさ)の庶長子は、島津頼久(よりひさ)といった。薩摩国鹿児島郡の川上(現在の鹿児島市川上町)を領したことから、「川上」を名乗りとした。南北朝争乱期には島津頼久(川上頼久)が、在京中の父に代わって大将を務めることもあった。
その後も、川上氏は島津家中で重きをなす。嫡流は国老を務めることも多かった。川上氏の庶流に川上忠塞を祖とする家系がある。こちらの一族は島津氏相州家に従い、島津忠良(ただよし)・島津貴久(たかひさ)・島津義久(よしひさ)に仕えた。川上忠兄らもこの一族である。
島津義弘の家老に、川上忠智(ただとも)という人物がいる。元亀3年(1572年)の木崎原の戦いの際には加久藤城(かくとうじょう)を寡兵で守り抜き、翌日の勝利を呼び込んだ。
この川上忠智の次男が、川上忠兄であった。通称は「四郎兵衛」あるいは「四郎兵衛尉」永禄4年(1561年)生まれで、母は春成久正(はるなりひさまさ)の娘。兄に川上忠堅(ただかた)、弟に川上久智がいる。三兄弟は母も同じ。ちなみに春成久正は島津忠良の腹心として活躍した人物である。
当初、忠兄は愛甲(あいこう)氏に養子入りしていて、養父の愛甲光久は大隅国吉松の内小野寺(鹿児島県姶良郡湧水町)の住職であった。島津義弘の命により、還俗して川上家に戻る。
天正4年(1576年)に日向国三山(みつやま、宮崎県小林市)と薩摩国羽月(はつき、鹿児島県伊佐市大口の羽月地区)の地頭に任じられた。その後は大隅国吉田(よしだ、鹿児島市の吉田地区)や薩摩国樋脇(ひわき、鹿児島県薩摩川内市樋脇)の地頭を務めたりもしている。
天正12年(1584年)、島津氏は肥前国島原(長崎県島原市)へ兵を出す。島津家久(いえひさ、島津貴久の四男)を大将とて出征し、龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)の軍勢と戦った。「島原合戦」「沖田畷の戦い」と呼ばれるものである。これに川上忠堅・川上忠兄の兄弟も従軍した。龍造寺軍は大軍で押し寄せるが、龍造寺隆信が戦死して敗走。島津方が勝利した。ちなみに龍造寺隆信を討ち取ったのは、川上忠堅であった。
天正15年(1587年)に島津家は豊臣家の軍勢と戦う。大軍で押し寄せる豊臣秀長の軍勢に対して川上忠兄は三山城を堅く守った。抵抗していた島津義弘が和睦に応じると、川上忠兄も従った。
朝鮮においても、島津義弘・島津忠恒(ただつね、義弘の子)に従って川上忠兄は転戦する。
慶長3年(1598年)の泗川(サチョン)での戦いにおいては、島津方は明・朝鮮連合軍に囲まれる。島津方の兵力は7000ほど。敵軍は5万とも、10万とも、20万とも。数字は諸説あり、史料には誇張もあると考えられるが、とにかく大軍である。圧倒的な兵力差があったが、島津方は勝利する。川上忠兄も戦功を挙げたという。
露梁(ノリャン)の海戦では、島津義弘の船が潮に流されて敵に拿捕されそうになったところを、川上忠兄は種子島久時(たねがしまひさとき)とともに救援している。
慶長4年(1599年)頃に島津義弘の家老になったようだ。この年、庄内の乱が勃発。疱瘡を患って出陣できなかったが、相談役として助言をしたりしている。
そして慶長5年(1600年)、上方に滞在していた島津義弘は手勢が少なく困り果てていた。国許に派兵を訴えるが、兵は送られず。状況は刻々と動く。島津義弘は「心ある者は上京せよ」と自由意志での出陣を促す。この激に応えて、川上忠兄は手勢を率いて馳せ参じた。
関ヶ原の戦いでは、前述したとおり撤退前に徳川家康への使者を務めた。徳川方の陣頭を通過すること、帰国後に申し開きをすること、などを伝えた。
このときに、川上忠兄は甲冑を残していったという。
内府公の近習皆是を笑て怯とす、公曰、彼使を奉ず危難の間、情偽弁じがたし、人之を疑はん、故に冑を遺して他日の信とす、軍事に練習すと云へし、汝等妄に笑事なかれ (『本藩人物誌』より、カタカナを平仮名に打ち替え、一部に読点や濁点を追加)
徳川家康は「難しい状況での使いであり、その役目を果たしたことを鎧を遺すことで証とした。軍事に練達していると言える。笑うことではない」と言ったんだとか。
川上忠兄は本隊とはぐれて、島津義弘とは別行動をとった。京に入って近衛信尹(このえのぶただ)に匿われ、近衛家の助けもあって帰国を果たした。
元和8年(1622年)、大隅国帖佐(ちょうさ、鹿児島県姶良市)で死去。墓は竜ヶ水の心岳寺(しんがくじ、現在の平松神社、鹿児島市吉野町)に建てられた。
川上久智
川上忠智の三男で、生年は不明。叔父の川上忠里の養子となった。通称は「久右衛門」とも「久右衛門尉」とも。
天正14年(1586年)の「戸次川の戦い」に川上久智は従軍している。島津家久が率いる島津勢は、仙谷秀久(せんごくひでひさ)・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)・長宗我部信親(のぶちか)・十河存保(そごうまさやす)ら豊臣勢と戦う。島津勢は大勝し、長宗我部信親と十河存保を討ち取った。
島津家久は長宗我部元親のもとに使者として川上久智を送った。
御息左京亮殿を打取候事、弓箭之事ゆへ不及是非次第に候、然るに舟も汐干に相成浮きがたく見得候間、緩々汐を待可有解陣と (『本藩人物誌』より、カタカナを平仮名に打ち替え、一部に読点や濁点を追加)
「嫡男の左京亮殿(長宗我部信親)を討ち取ったの戦なので仕方がなかった」ということと、「潮が満ちるのをゆるゆると待って撤退するといい」ということを伝えたという。
朝鮮出兵では島津忠恒に従って参加。泗川の戦いでも兄とともに奮戦した。
慶長4年(1599年)より、島津義弘のお供として京の伏見に滞在した。翌年には島津義弘に従って大垣で戦い、そして関ヶ原へ。
没年は不明。病死であったという。
川上久林
川上忠堅の嫡男で、通称は「左京亮」。天正4年(1576年)の生まれで、母は園田実祐の娘。
ちなみに島津義弘の妻は園田実明の娘である。名前の感じから、川上久林の母はその同族だろう。
父の川上忠堅は戦功を挙げまくった人物である。「高城川の戦い(耳川の戦い)」や「島原合戦(沖田畷の戦い)」で活躍し、とくに龍造寺隆信を討ち取るという殊勲を挙げている。しかし、天正14年(1586年)の肥前国鷹取(たかとり、佐賀県鳥栖市)の戦いで討ち死にした。
父が若くして亡くなったために、川上久林は幼くして家督をついだのだろう。
朝鮮派兵においては島津義弘に従う。この頃は20歳くらいに若武者に成長している。泗川の戦いも経験している。
時期はわからないが、薩摩国高城(たき、鹿児島県薩摩川内市高城町)の地頭に任じられたとも。
寛永2年(1625年)没。
押川公近(押川強兵衛)
押川氏は橘姓であるという。島津義弘が日向国真幸院(まさきいん、宮崎県えびの市)に封じられた際に、選りすぐりの60人の勇士を連れていったのだという。その中に押川讃岐守という人物がいた。その子の押川対馬守は相良氏への備えとして、島津義弘の命で薩摩国大口(鹿児島県伊佐市大口)へ。大口地頭の新納忠元(にいろただもと)の配下となる。
押川公近は押川対馬守の次男である。元亀2年(1571年)に大口で生まれたという。大隅国曽木(そぎ、伊佐市大口曽木)の生まれとも。
名乗りは「強兵衛(ごうべえ)」の通称がよく知られる。「郷兵衛」とも。また、「鬼三郎」「彌七」「六兵衛」というのも確認できる。「強兵衛」の名乗りは、関ヶ原から帰国後に、島津義弘から武勇を讃えて与えられたもの。関ヶ原の戦いの頃は「六兵衛」または「郷兵衛」だったようだ。
『本藩人物誌』『西藩烈士干城録』などの記事を見ると、個の戦闘力が高い印象を受ける。また、鉄砲の名手でもあったようだ。
公近勇力殊絶於人、自少至老、殺人凡百六十餘人 (『西藩烈士干城録』より、「押川氏遺書略」からの引用とのこと)
人並外れた剛力で、生涯で160人以上を討っている、と。また、物見(斥候)の任にあたったり、暗殺の実行役を担ったり。忍(しのび)のたぐいであったのかもしれない。
天正9年(1581年)の肥後国水俣(熊本県水俣市)の戦いの際に、兄とともに物見に出た。このとき12歳(数え年)。矢を射かけられ、矢文が元結に刺さったという。矢が体に当たらなかことを「運命長久にて武辺の者」と新納忠元は褒め、褒美をはずんだという。
天正20年(1593年)には、入来院氏の家臣の今藤権兵衛を上意討ちにする。
朝鮮派兵では山田有栄(やまだありなが)の船に乗り合わせて渡海。島津義弘に従って転戦する。
朝鮮ではこんな逸話も。島津義弘が鷹狩りをしているとき、加藤清正(かとうきよまさ)の陣から刀を手にした者たちが走り出た。加藤家の追手が「その科人を討ってくれ」というと、押川公近がこれを引き受ける。左手に持った鉄砲で刀を受け止め、右手で刀を抜いて切り伏せた。その後。加藤家からは御礼の品が贈られた。
また、鷹狩りの際に朝鮮兵に囲まれたこともある。撃ち落としたシラサギが木の枝に引っかかったため、押川公近は木に登った。すると、15人ばかりの朝鮮兵に見つかって攻撃された。木の上で、敵の矢をよけつつ鉄砲で応戦。二人ばかりを射殺すると、敵兵は逃げていったという。
慶長3年(1598年)の泗川の戦いでは、物見として敵軍の奥深くまで潜入して情報持ち帰る。決戦においても数十人を討ち取ったという。露梁海戦でも鉄砲を手に奮戦し、戦功を挙げた。
慶長5年(1600年)に反徳川派が挙兵すると、こちらについた島津義弘のもとで行動する。伏見城攻めでは島津義弘に命じられて城内に潜入。物見の役割を果たした。
美濃国墨俣(岐阜県大垣市墨俣町)でも物見に出る。川を泳いで敵陣を偵察し、首級を持ち帰った。騎馬兵と遭遇したために馬から引きずり落として討ち果たしたという。この働きを石田三成が喜んだ。「大垣の太刀初め」として褒美に大判1枚が贈られた。
また、敵兵が遠路の行軍で疲れて寝入っていることを島津義弘に報告。島津義弘は夜襲を軍議で提案するが、採用されなかった。
関ヶ原の戦場から離脱したあと、押川公近は山中をさまよっているところを追手に捕縛された。このとき、3枚の感状を破り捨て、大判を泥の中に埋めて隠した。処刑されそうなところを、たまたま山口直友(やまぐちなおとも)が見つけて助けられる。山口直友は徳川家康の側近で、島津氏との取次役をしていた人物だ。面識があったのだろう。
押川公近は山口直友の預かりとなり、衣服と刀の大小も与えられた。その後、拝領した大小を置いて山口直友のもとから逃亡。埋めていた大判も回収している。
入京すると近衛信尹の屋敷に逃げ込んで、近衛家の支援で国許へ帰還する。帰国後は50石が加増され、「強兵衛」の名も与えられた。
押川強兵衛(押川公近)は、帰国してすぐに国許を出る。虚空蔵参りの名目で3年にわたって諸国を行脚した。何かを探りに行っていたのだろう。関ヶ原で戦死した島津豊久(とよひさ)の安否を調べるためであった、とも。
慶長15年(1610年)、密命を受けた押川公近は平田増宗(ひらたますむね)を暗殺する。平田増宗は島津義久(よしひさ)の家老だった。暗殺を命じたのは島津家久(島津忠恒から改名)だと見られる。
押川公近は、島津義弘に殉死することを希望していた。だが、島津義弘はこれを禁じ、自身の死後も島津家久(島津忠恒)を助けるよう命じる。そして、押川公近は鹿児島に移った。
寛永6年(1629年)に押川公近は没する。死因は腫れ物によるものだったという。
久保之盛
久保之盛は通称を「平八郎」といった。のちに「七兵衛」「七兵衛尉」を称する。生年は不明。16歳で朝鮮に渡海して島津忠恒のもとで従軍したという情報から逆算すると、天正7年(1579年)頃の生まれだろうか。
久保氏は紀姓だという。島津義弘が飯野に移る際に連れていった60人の家臣の中に久保行久という人物がいる。これが久保之盛の祖父である。久保行久は島津忠良に仕えた古参の家臣で、島津義弘のもとでは「御軍談役」を務めた。軍務に関わる役目であろう。
久保行久の長男の久保行経は朝鮮で戦死。次男の久保行政が家督を継ぐ。久保行政は島津忠恒の傅役につけられた。また、島津忠恒が朝鮮に渡海する際には兵糧運送の奉行を務めたという。この久保行政の子が久保之盛である。
久保之盛は16歳(数え年か)のときに、弾薬輸送の船に乗って朝鮮へ渡海。そのまま島津忠恒の陣に加わった。まだ若いながらも朝鮮での戦いでは多くの敵を討ち取ったという。その働きは、剛勇で鳴らす押川六兵衛(押川公近)にも勝るものだったということで、「七兵衛」の名を拝領する。島津義弘からも軍扇・鉄砲・短刀などを褒美として与えられている。
慶長4年(1599年)、島津忠恒は伏見で家老の伊集院忠棟を殺害する。その際に、久保之盛を使者に出して、国許の島津義久に事の次第を報告している。その後、伊集院忠真(ただざね、忠棟の嫡男)が日向国庄内で反乱を起こす。この鎮圧のための戦いでも、久保之盛は活躍したという。
久保之盛は島津忠恒の配下だが、その後、島津義弘に従って関ヶ原で戦うことになる。撤退戦では太刀初めも務めた。
関ヶ原から生還した久保之盛は、島津忠恒から褒美として太刀(波平安房の作という)を拝領した。引き続き島津家久(島津忠恒)に仕え、慶長7年(1602年)の稲津の乱にも出征している。
島津家久(島津忠恒)の没後は殉死を望んでいたが、遺言に後継者の島津光久(みつひさ)に仕えることが命じられていいたので、久保之盛はこれに従った。
正保4年(1647年)、久保之盛は没する。
5人は強かったのか?
「島津の退き口」は壮絶なものであった。絶望的な状況で活路をこじ開けて、島津義弘は生還した。
これを成し得ることができたのは、兵のひとりひとりが強かったことも理由のひとつかな、と。国許から派兵はなく、島津隊のかなりの数が志願兵である。遠くからわざわざ馳せ参じたのは、腕に覚えのある者たちばかりだったことだろう。
そして、「小返しの五本鑓」についても猛者揃いである。伝わっている情報を読むと、どうやらこの5人はめちゃめちゃ強かったらしい。
もう一つ、泗川の戦いの経験者が多かったというのも突破を可能にした要因のようにも思う。大軍勢に囲まれて、寡兵でどう立ちまわるのか……。経験がモノを言った、と。
<参考資料>
鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年
鹿児島県史料集50『西藩烈士干城録(二)』
発行/鹿児島県立図書館 2011年
鹿児島県史料集51『西藩烈士干城録(三)』
発行/鹿児島県立図書館 2012年
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年
『新薩藩叢書 第1巻』(『薩藩旧伝集』を収録)
発行/歴史図書社 1971年
『新薩藩叢書 第2巻』(『西藩野史』を収録)
発行/歴史図書社 1971年
『旧記雑録 後編三』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1983年
『旧記雑録拾遺 諸氏系譜二』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 1990年
『「不屈の両殿」島津義久・義弘 関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』
著/新名一仁 発行/株式会社KADOKAWA 2021年
『島津義弘の賭け』(文庫版)
著/山本博文 発行/中央公論新社 2001年
『関ヶ原 島津退き口 義弘と家康 知られざる秘史』
著/桐野作人 発行/株式会社ワニブックス 2022年
ほか