ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

伊敷の東帰庵跡(桂庵玄樹の墓)、薩摩に招聘された朱子学の大家

鹿児島市の伊敷に「桂庵墓」という史跡がある。国史跡にも指定されている。ここは東帰庵の跡で、桂庵玄樹(けいあんげんじゅ)の墓がある。桂庵玄樹は臨済宗の僧で、朱子学(宋学)の大家であった。晩年は伊敷の東帰庵に住み、この地で没した。

 

 

 

 

 

桂庵玄樹とは

伊地知季安(いじちすえよし、すえやす)の著書『漢学紀源』で、桂庵玄樹について説明がある。そちらから情報を拾ってみる。また、現地説明看板や『鹿児島縣史 第1巻』も参考にした。

 

応永34年(1427年)に周防国山口(現在の山口県山口市)の生まれとされる。姓氏は不詳。永享7年(1435年)に上洛して南禅寺(なんぜんじ、京都市左京区)に入り、嘉吉2年(1442年)に剃髪して僧になったという。この頃に朱子学を学ぶ。学を修めたのち、長門国赤間関(あかまがせき、山口県下関市)の永福寺の住持となる。

桂庵玄樹は応仁元年(1467年)に明国に渡る。遊学して7年後に帰国するが、京は戦乱(応仁の乱)で荒れていた。京を避けて石見国(島根県)に入り、その後は周防国や長門国へ。文明8年(1476年)に豊後国、さらに筑後国と移る。翌年には肥後国へ入り、守護の菊池重朝(きくちしげとも)の厚遇を受けた。

 

この頃、薩摩国市来の龍雲寺(りゅううんじ、鹿児島県日置市東市来町)の僧らの献言もあって、島津忠昌(しまづただまさ、島津氏11代)が桂庵玄樹の招聘を決める。文明10年(1478年)、桂庵玄樹は薩摩国の龍雲寺に入った。そして、鹿児島で島津忠昌に謁見する。

大隅国や日向国をまわって鹿児島に戻ると、島津忠昌は桂庵玄樹のための寺を建立。「桂樹院」と号した。また、別名に「島陰寺」とも号し、これは「向島(桜島)の陰」という意から。桂庵玄樹は「島陰」の別号も用いた。

文明13年(1481年)には島津家国老の伊知地重貞とともに、朱熹(しゅき、朱子)の『大学章句』の新註本を刊行した。これが日本最初の朱子学新註本とされる。

 

その後は日向国飫肥(おび、宮崎県日南市)の龍源寺や安国寺に入る。明応7年(1498年)には入京して、建仁寺(京都市東山区)や南禅寺に入った。

文亀元年(1501年)に薩摩国に戻り、大隅国の正興寺(しょうこうじ、鹿児島県霧島市隼人町内)の住職となった。翌年、薩摩国伊敷に東帰庵を結んで隠棲。永世5年(1508年)にこの地で没した。

 

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南九州に根づいた朱子学

桂庵玄樹は朱子学を講じ、多くの者が師事した。その学識は門人たちが引き継ぎ、南九州に根づいた。「薩南学派」と呼ばれる。

 

15世紀の南九州は内乱状態が続いていて、島津忠昌は領内の統制がとれずに苦労していた。君臣の秩序を重んじる朱子学の思想を取り入れて、領内の安定につなげようという意図があったのかも。

だが、混乱は続いた。16世紀半ばには島津勝久(かつひさ、忠昌の三男)が守護の座を追われ、相州家(そうしゅうけ、分家のひとつ)の島津貴久(たかひさ)が覇権を握った。島津貴久は反抗勢力を抑え込んで勢力を広げ、戦国大名へと発展していく。

島津貴久や島津義久(よしひさ、貴久の嫡男)も「薩南学派」の僧を重用する。朱子学は領内統治にも都合が良かった。

 

これには、島津忠良(ただよし、貴久の父)が朱子学を重んじたことも影響している。隠居地の薩摩国加世田(かせだ、鹿児島県南さつま市加世田)の常潤院(じょうじゅんいん)で儒学の研究も行っている。島津忠良は武士の教育を目的とした『いろは歌』を作成しているが、この中にも朱子学の思想がかなり入り込んでいる。

 

『いろは歌』の教えは、その後の島津家の家風へとつながっていく。桂庵玄樹の存在は、島津氏の歴史にかなり影響を与えているのである。

 

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墓参する

ちょっと前置きが長くなってしまった……。

 

国道3号沿いに「桂庵墓」の看板がある。そこから細い道を入っていく。

なお、入った先には車を停めるスペースはない。さらに、道が細くて行き止まり。Uターンもままならない。車で入ってしまうと大変なことになる。徒歩で向かうべし。

 

近隣に駐車場はなく、1㎞ほど離れたコインパーキングに駐車してここまで歩く。国道から細い道に入るとすぐに公園がある。ここが目的地だ。東帰庵跡は「桂庵公園」として整備されている。

公園の入口

桂庵公園

 

公園の奥に玉垣が見える。その内側に墓塔類がある。

 

墓塔類がある

公園の隅に

 

玉垣に囲まれている

桂庵玄樹の墓がある

 

玉垣の内側の向かってやや左のあたりにあるのが、桂庵玄樹の墓だ。

 

墓塔

桂庵玄樹の墓

墓碑正面にはこう刻まれている。

 

永正五代辰丑六月十五日、示寂
正興寺三十九世、前南禅桂菴玄樹大和尚禅師墓
世寿八十二、東帰菴開山也

 

この墓石は享保7年(1722年)に大龍寺(だいりゅうじ、鹿児島市大竜町)住持の宗玉らが建てたものとのこと。


墓碑の向かって左側に手水鉢と石灯籠。高いほうの石灯籠が明治41年(1908年)の「桂庵禅師400年祭」(没後400年)にちなんで、当時の鹿児島県知事の阪本釤之助(さかもとさんのすけ)が建てたもの。

写真右側の壊れているほうは、寛延元年(1748年)に寄進されたもの。

 

石灯籠と手水鉢

真ん中が明治時代のもの

 

墓の向かって右側にも石灯籠。こちらは天保9年(1838年)に奉納。造士館(薩摩藩の藩校)の教授の市来敬正らが建てたもの。

 

古い石灯籠

石灯籠がもう一つ

 

墓石と並んで石碑がある。ここには桂庵玄樹の来歴が記されている。天保14年(1843年)に伊地知季安が建てさせたもの。撰文は江戸の昌平坂学問所の教官の佐藤一斎(さとういっさい)が手がけている。

 

大きな石碑

桂庵玄樹の碑

墓の周りはきれいに手入れされている。この地域ですごく大事にされているようだ。

 

 

伊地知季安と『漢学紀源』

伊地知季安は在野の史学者であった。

文化5年(1808年)に薩摩藩では「近思録崩れ」というお家騒動があり、これに連座して伊地知季安も処罰された。喜界島に流され、流刑が解かれて戻ってきたあとも自宅謹慎。謹慎が解かれても無役の状態が続いた。そんな境遇の中で、伊地知季安は史学研究に打ち込み、かなりの数の著書を手掛ける。『漢学紀源』もその中のひとつだ。

 

『漢学紀源』は、日本における儒学の歴史をまとめたものである。鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集九』にて翻刻が収録。鹿児島県のホームぺージで閲覧が可能だ。本書は桂庵玄樹をはじめとする薩南学派の人物について詳しい。

なお、『漢学紀源』は未完である。天保14年(1843年)に伊地知季安は全著作の提出を藩から命じられた。没収されたのである。そのため、『漢学紀源』は校訂の途中で止まっている。

 

著作の没収は、伊地知季安の評判が藩の記録所の妬みを買ってのことだったという。

その後、没収された著作は藩主の島津斉興(なりおき)の目に留まった。伊地知季安の学識の高さが認められ、弘化4年(1847年)に藩への出仕を命じられた。要職を歴任し、島津斉彬(なりあきら)のもとでは記録奉行も務めた。

 

伊地知季安は『旧記雑録』の編纂でも知られる。これは膨大な情報量の史料集で、後世の島津氏の研究に貢献しまくっている。

 

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<参考資料>
『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集九』(『漢学紀源』収録)
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 2011年

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

ほか