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『関ヶ原 島津退き口 敵中突破三〇〇里』(著/桐野作人)、島津義弘の撤退戦の実像

関ヶ原から長い長い道のり

慶長5年9月15日(1600年10月21日)、美濃国関ヶ原(せきがはら、現在の岐阜県不破郡関ケ原町)で徳川家康が率いる「東軍」と、石田三成らを中心に結成された「西軍」がぶつかった。双方あわせて20万もの兵がひしめき合う大合戦となった。関ヶ原の戦いである。島津義弘(しまづよしひろ)は1500ほどの兵を率いて西軍に参加していた。

戦いはあっけなく終わる。勝敗はわずか半日で決した。西軍は総崩れとなり、本隊の石田三成をはじめ各隊は撤退をはじめる。

そんな状況の中で、島津義弘の部隊は戦場に取り残される。そして、退路に選んだのは前方だった。寡兵の島津隊が、数万の敵に向かって撤退を敢行。大きな被害を出しながらも戦場離脱に成功する。

この前方への撤退戦は「島津の退き口(しまづののきぐち)」と呼ばれたりする。島津義弘の勇猛さを物語る場面として知られている。

 

そんな「島津の退き口」を題材にした一冊がこちら。

 

著者の桐野作人氏は、膨大な史料をもとに丁寧に検証している。この頃の島津義弘を取り巻く政治的な背景、国許の薩摩国・大隅国(現在の鹿児島県)の事情、関ヶ原の戦いに至る過程、決戦当日のこと、そして撤退戦の実情について……などなど、かなり詳細に描き出しているのだ。

さらに、戦場離脱後に伊勢路から大坂へ、大坂城に置いていた人質(自身の妻と息子の妻)を奪還し、海路で九州に向かい、豊後(現在の大分県)沖で黒田如水(くろだじょすい、黒田孝高、よしたか)の船団との海戦もあったりしつつ、日向国細島(宮崎県日向市細島)に上陸し、そして国許に帰還する。10月3日(旧暦)に大隅国の富隈城(とみくまじょう、鹿児島県霧島市隼人町住吉)に至って、兄の島津義久(よしひさ、島津家当主)と対面。その後、島津義弘は自身の居館のある大隅国帖佐(ちょうさ、鹿児島県姶良市)に帰還した。関ヶ原を脱出してから19日間の旅路だった。本書ではそのルートについても詳しく解き明かしている。

 

本書ではとくに『薩藩旧記雑録(旧記雑録)』に注目して実情を探っている。『旧記雑録』というのは、薩摩藩の記録奉行である伊地知季安(いじちすやす)・伊地知季道(すえみち、季安の子)が、幕末期から明治はじめにかけて編纂したもの。島津家が持つ膨大な史料を編年や家ごとにまとめた史料集である。古文書類を書写したものであり、一次資料として扱ってもいい内容である。

ちなみに『旧記雑録』には、東京大学史料編纂所所蔵の「島津家本」、国立公文書館所蔵の内閣文庫のもの、鹿児島県立図書館所蔵のものがある。このうち、内閣文庫のものは国立公文書館デジタルアーカイブで閲覧可能だ。鹿児島県立図書館所蔵のものについては鹿児島県が活字化し、出版している。

『旧記雑録』には、関ケ原の戦い前後の史料もたっぷりと収録。配下武将の山田有栄(やまだありなが)が記した「山田晏斎覚書」のほか、「神戸久五郎覚書」「帖佐彦左衛門宗辰覚書」「大重平六覚書」「黒木左近兵衛申分」「井上主膳覚書」といった郎党や兵士の手記もある。その現場に居合わせて、島津義弘のかたわらで戦った者たちの記録である。戦闘の様子が臨場感をもって伝えられているのだ。

本書ではこれら手記が随所に引用されている。例えば、こんな感じで。

押し出すことに決まると、義弘は「敵は何方(いずかた)が猛勢か」と尋ねた。馬廻が「東よりの敵が以(もっ)ての外の猛勢でござる」と答えると、「では、その猛勢の中へ掛かり入れよ」と命じたのである(「神戸久五郎覚書」)。

家老の長寿院盛淳(ちょうじゅいんもりあつ)が島津義弘の身代わりとして本陣に残って討ち死にしたこと、井伊直政(いいなおまさ)が狙撃されたこと、徳川家康の本陣の近くを通ったこと、などもこれら手記から知ることができる。

 

小説だったり、映画やドラマだったり、戦国時代の出来事は創作物で作られたイメージというものがある。後世に作られた軍記物も影響していたりもする。そこには脚色もあるし、事実とは異なることも多々ある。

本書『関ヶ原島津退き口 敵中突破三〇〇里』で書かれていることは、かなり史実に近いのではないかと思われる。

 

関ヶ原 島津退き口 (学研新書)