島津義久(しまづよしひさ)は島津氏の16代当主である。天文2年(1533年)の生まれで、慶長16年(1611年)に没する。その生涯は戦国時代後期から徳川幕府成立期にあたる。『島津義久 九州全土を席巻した智将』は歴史作家の桐野作人(きりのさくじん)氏による小説だ。島津義久の目線で戦国時代が描れる。
戦国時代の島津氏というと、島津義弘(よしひろ)がよく知られている。島津義久はその兄である。当主も兄のほうなのだが、弟ばかりがやたらと目立っている感じがする。そして、島津氏の歴史も、島津義弘を軸に書かれることがほとんどなのである。
島津義弘ではなく、島津義久を主役にした本作は面白い! そして、島津氏の歴史のまた違った一面も見えてくるのだ。
島津氏の戦いをつづる
16世紀の南九州は島津本宗家の力が弱く、国人衆や島津氏一門衆が入り乱れて争っていた。そんな中で、島津氏分家のひとつの相州家(そうしゅうけ)が覇権を握る。相州家出身のの島津貴久(たかひさ)が当主の座につき、反抗勢力をつぎつぎと降し、戦国大名としての足場を固めていく。
島津貴久には4人の息子がいた。島津義久はその嫡男であり、家督をつぐ。次男の島津義弘・三男の島津歳久(としひさ)・四男の島津家久(いえひさ)も揃って優れた武将だった。四兄弟が力を合わせて、島津氏は九州制圧一歩手前まで勢力を広げるのである。
物語は天文16年(1547年)から始まる。そして、天文23年(1554年)の岩剣城の戦いで島津義久は初陣を飾る。
その後、大隅合戦・廻城の戦い・菱刈攻めなどを経験。元亀2年(1571年)に島津貴久が没したあと、島津義久は当主として堂々たる戦いぶりを見せる。大隅国の肝付(きもつき)氏・日向国の伊東(いとう)氏を倒して島津氏の悲願だった三州統一(薩摩・大隅・日向の掌握)を成し遂げた。さらには高城合戦(耳川の戦い)で大友(おおとも)氏を、沖田畷の戦いで龍造寺(りゅうぞうじ)氏を破り、島津氏の勢力は一気に拡大していく。
しかし、豊臣秀吉が九州の戦いに介入。征討軍を送られて島津氏は降る。その後は豊臣政権から突きつけられる無理難題に苦心する。そして、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、島津義弘が反徳川方の西軍に与してしまう。島津義久は粘り強い交渉を重ねて本領安堵を勝ち取った。
大名どうしが争う時代から豊臣政権下へ、さらには徳川政権へと移り変わる。そんな時代の変わり目の中で、島津家は生き残ったのである。
史料にもとづくリアリティ
作者は資料の読み込みが半端ない! 読んでいてそう感じる。巻末を見ると、参考文献がかなり多い。その中には一次史料も含まれている。裏付けがしっかりしているからこそ出来事のあらましがよくわかる。そして、臨場感もあるのだ。
また、説明がすごく丁寧である。例えば、こんな感じ。
鹿児島は六代氏久以来、島津氏歴代の拠点だった。氏久ははじめ東福寺城を居城としていたが、手狭になったので、七代元久が元中四年(一三八七)、近くに清水城を築いて移った。以来、百五十数年にわたり清水城が守護屋形となっていた。 (『島津義久 九州全土を席巻した智将』より)
こちらは島津貴久が鹿児島に居城を移した場面での解説である。背景まで説明してくれるので、読み手もすっと理解できる感じがする。
小説という読みやすい体裁をとりながらも、歴史を知る資料としても役立つと思う。
弟ばかりが目立つけど、兄もすごいぞ
関ヶ原の戦いにおける島津義弘の壮絶な撤退戦は「島津の退き口」と呼ばれ、後世まで語り草となっている。島津家のイメージは、島津義弘の武勇にかなり引っ張られている印象を受ける。
ちなみに、鹿児島藩(薩摩藩)では島津義弘の武勇憚が語り継がれ、英雄として顕彰されてきた。現在も、鹿児島県ではものすごく人気がある。
島津義久も人気がないわけではない。だが、弟に比べるとどうしても地味な印象だ。あまり語られず、あまり知られていない。
島津義久の功績は、島津義弘にけしてヒケをとらないと思う。その一例としては、関ヶ原の戦いのあとのこと。島津義久は徳川家康とガチンコ勝負を展開する。和睦交渉で一歩も引くことなく、本領安堵を勝ち取った。敗れた西軍についた大名はことごとく改易されている。大幅に所領を削られ、あるいは取り潰された。島津家は敗軍についたにもかかわらず、自領に手を出させなかった。
『島津義久 九州全土を席巻した智将』は文庫本で500ページほどと、なかなかのボリュームだ。島津義久の人物像を、功績を、そして何を考えていたのかを丁寧に掘り込んである。
桐野作人氏の著書では、「島津の退き口」の実像を検証したこちらも面白い。