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島津家久の上京日記【11】 連歌興行と酒と/天正3年5月6日~5月13日

天正3年(1575年)5月の島津家久(しまづいえひさ)の日記から。連歌師の里村紹巴(さとむらじょうは)の世話を受けて、京の滞在を続けている。

ちなみに、里村紹巴は地方の戦国大名とも親交がある。島津氏もその一つだった。島津家久の正室は樺山善久(かばやまよしひさ)の長女。舅の樺山善久は和歌にすぐれ、都の文化人との人脈を持つ。里村紹巴が島津家久の世話を焼いているのには、そんな事情もあるのだ。

『中務大輔家久公上京日記』によると、5月7日から連歌興行が続く。

 

前回の記事はこちら。

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『中務大輔家久公御上京日記』の解説はこちら。

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史料は東京大学史料編纂所の翻刻より引用。

『中務大輔家久公御上京日記』(東京大学史料編纂所ホームページ)

 

島津家久は島津貴久(しまづたかひさ)の四男。当主である兄の島津義久(よしひさ)のもとで活躍した。島津家久についてはこちらの記事にて。

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なお日付は旧暦となっている。

 

島津家久が都で連歌興行


天正3年5月6日、時雨亭とか北野天満宮とか鹿苑寺とか

六日、紹巴同心にて、先時雨のちん一見、其木はけや木といへる木也、二本有、其前ニ歓喜天の御堂有、其より前ニ定家卿の居住所有、今昌也、其邊ニ式子内親王の御はかありといへ共今ハなし、さて観喜寺是もなし、さて千本の釈迦堂ニゆいきやう有、さて老松とて有、又紅梅殿とて有、さて行て北野本宮へ参候へハ、脇に會所有、又一切経堂有、其外行て末社いつれも拝申候、猶行て鹿薗寺ニ参ミれハ、金客三かい作也、上ハ三間也、板敷ハ黒漆也、さて大師の御作石不動へ参帰、右方ニ平野とて杉有、松は亂に迷切終したるといへり、さて行て十王堂有、是ハおのゝ篁の作といへり、其脇に千本の桜とて有、さて帰にふうきゃう院御所一見、


里村紹巴の案内で都の名所めぐりに出かける。まず時雨亭(しぐれのちん)を見る。時雨亭は藤原定家が住んだところで、『小倉百人一首』を選んだのもここだという。その場所は嵯峨野小倉(京都西京区)のあたりだとされる。

ただ、島津家久が訪れた「時雨のちん(時雨亭)」は嵯峨野じゃなさそうな感じがする。この日の訪問先の多くが嵯峨野からはちょっと遠いところなのである。嵯峨野に行ってから移動したとも考えられなくもないが、それならば移動したことが書かれていてもよさそうなものだ。時雨亭のあとに訪れる千本釈迦堂(京都府京都市上京区溝前町)からそう遠くない場所なのでは? ……と思ったりもしている。

島津家久の見た時雨亭の様子は、ケヤキの木が二本あったとのこと。そして、その前には「歓喜天の御堂」があったという。千本釈迦堂の東へ600mくらいのところ(上京区の聖天町)に北向山雨宝院大聖歓喜寺という歓喜天を納めた寺院がある。「西陣聖天」の通称もあり。もしかしたらこのあたりなのかも?

「歓喜天の御堂」の近くには藤原定家の邸宅があったらしいが、「今昌也」とする。「昌」は「畠」の誤字とされ、「今は畠なり」と。また、式子内親王の墓もこの辺にあったらしいが、これも「今はなし」と。ここにあったとされる観喜寺ももうない、とも。式子内親王は後白河天皇の皇女で、藤原定家はその家司であった。式子内親王の歌も残っている。「玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることのよわりもぞする」の歌が小倉百人一首に選ばれている。

 

そして千本釈迦堂へ。瑞応山大報恩寺のことである。こちらの本堂は安貞元年(1227年)に建てられたもの。応仁の乱でも燃えることなく、現在は国宝に指定されている。

つづいて北野天満宮(京都市上京区馬喰町)へ。老松社と紅梅殿を見て、本宮のほうをお詣りする。老松社と紅梅殿は北野天満宮の境内摂社。ともに菅原道真の伝説にちなむものである。本殿の脇には「会所」があるとのこと。かつてあった連歌会所のことだろうか。また、一切経堂もかつてあった仏堂。足利義満が応永8年(1401年)に建てさせ経王堂のことだ。経王堂はのちに再興、さらに大報恩寺い移されている。北野天満宮にはかなりの数の末社があり、島津家久はこちらもまわったようだ。

 

次に北山鹿苑寺(京都市北区金閣寺町)へ。金閣は三層、上は三間、板敷は黒漆、と記す。また、弘法大師の作ともされる石不動を参拝。鹿苑寺内の不動堂のことだ。

鹿苑寺をあとにして、帰路で「平野の杉」を見る。平野神社(京都市北区平野宮本町)のあたりだろうか。杉はよくわからず。また、松が戦乱で切られてしまっているとのこと。さらに行くと小野篁(おののたかむら)が造ったとされる「十王堂」。光明山引接寺(いんじょうじ、京都市上京区閻魔前町)だと思われる。通称は「千本閻魔堂」で、閻魔大王を本尊とする。桜もある、と記す。ここは普賢象桜(ふげんぞうさくら)の名所だ。

帰りには「ふうきゃう院御所」も見る。西山宝鏡寺(京都市上京区百々町)のことか。

 

 

 

天正3年5月7日、連歌興行と月見

七日、字土殿・蒙丹連歌興行、連歌終候て月見ニとて昌叱・心前門外に指出、酒肴、宇土殿兩人も来り候、扨、紹巴当座、五月雨の晴まの月や天の戸をひらきて出し光りなりけん、

 

宇土殿と蒙丹が主催で連歌興行。宇土殿は肥後国宇土(熊本県宇土市)領主の名和顕孝。蒙丹はよくわからず。号っぽい感じではあるが、連歌師か?

夜は月見酒。里村昌叱と心前(ともに里村紹巴の弟子)、宇土殿と蒙丹も一緒に。そして、里村紹巴は月を見ながらこう詠んだ。

五月雨の晴まの月や天の戸をひらきて出し光りなりけん

 

 

天正3年5月8日、一巡

八日、一順仕候

 

前日からの連歌が一巡した。この時代は「百韻」で行われることが多かった。「一巡」は100句をつなげて完成したということだろう。

 

 

天正3年5月9日、また連歌興行

九日、字土殿・行豊連歌興行

 

宇土殿(名和顕孝)と行豊(連歌師か? 人物詳細不明)の主催で連歌興行。

 

 

 

天正3年5月10日、一巡

十日、一順、

 

前日からの連歌が一巡。

 

 

 

天正3年5月11日、十斗入りほどの引盃で二杯

十一日、拙者連歌興行、執筆文閑、儅、連哥過て酒、数返めくりて後、十斗入ほとの引盃にて二ツのミ、拙者ニさ々れ候、

 

この日は島津家久が主催で連歌興行。文閑は連歌師っぽい。興行を手伝ってもらったのだろう。

連歌興行が終わったあとは酒宴。十斗も入りそうなバカでかい引盃で酒を飲む。二杯。十斗(約180リットル)というのはさすがに大袈裟だけど、とにかく大きかったのだろう。

 

 

天正3年5月12日、『源氏物語』の写しのすごいやつ

十ニ日、召烈たる順礼卅人計、前ニ罷下候、紹巴きひしき人にて候間、門外にて各々へ暇乞候、儅、心前の源氏見申候、
筆者 後法成寺殿近衛 妙法院覚胤 四条隆重卿 周桂 宗鑑 富小路資直卿 曼殊院宮慈運 下冷泉 宗清 菊亭公彦公 稱名院 無量寿院應社 宗牧 宗碩 鷲隆康卿 柏木栄雅 大津荘厳寺 中御門定秀卿 永閑 牡丹花 西室公碩 持連院宮尊鎮 壽慶 岩山道堅 近江宗仲 北野宮司純祐 中山蛻脱軒 刑部卿入道宗成 姉小路基綱 伊治宿祢 二楽軒空世 岩屋民部大輔烏養近江 宣泉坊 逍遥院尭空

 

島津家久のお供のうち30人くらいが先に国に帰ることになった。何か役目があって、それを終えたのだろうか。人数が多すぎるとお金もかかるので、そういう理由からなのかもしれないが。里村紹巴への暇乞いの挨拶は門外から。「きびしき人にて」はそのまま「厳格な人なので」ともとれるが、「屋敷にあげてもらうのは申し訳ないから」くらいの意味合いか?

 

そのあと、心前が持っている『源氏物語』を見せてもらう。写本は大勢の合作。筆をとっているのは和歌や書にすぐれる公家や連歌師などで、14世紀後半から15世紀前半にかけての文化人の大物ばかりだ。たぶん、島津家久は興奮気味に名前を書き留めたことだろう。その顔ぶれは次のとおり。

後法成寺殿近衛/近衛尚通。関白、太政大臣。

妙法院覚胤/覚胤法親王。伏見宮貞常親王の子。天台座主。

四条隆重/権大納言。

周桂/連歌師。里村紹巴の師匠にあたる。

宗鑑/山崎宗鑑。連歌師。

富小路資直/公家。官位は弾正少弼や石見守など。

曼殊院宮慈運/慈運法親王。伏見宮貞常親王の子。曼殊院門跡

下冷泉宗清/上冷泉家当主の冷泉為広か。法号は宗清。権大納言。

菊亭公彦/今出川公彦。左大臣。

稱名院/三条西公条。右大臣。

無量寿院應社/不明。

宗牧/連歌師。宗碩の弟子。

宗碩/連歌師。宗祇の弟子。

鷲隆康/鷲尾隆康か。『ニ水記』の著者として知られる。

柏木栄雅/飛鳥井雅親。権大納言。飛鳥井家は蹴鞠・和歌・書の名家として知られる。

大津荘厳寺/詳細不明。

中御門定秀/中御門宣秀か。権大納言。

永閑/能登永閑。連歌師。

牡丹花/肖柏。連歌師。宗祇の弟子。

西室公碩/不明。西園寺家庶流の室町家(四辻家)の人物か。

持連院宮尊鎮/尊鎮法親王。後柏原天皇の皇子。青蓮院門跡。天台座主。

壽慶/連歌師。宗祇の弟子。

岩山道堅/足利義尚の家臣。

近江宗仲/不明。

北野宮司純祐/北野天満宮の宮司だろう。

中山蛻脱軒/詳細不明。中山家の人物か。

刑部卿入道宗成/和気親就らしい。人物の詳細不明。

姉小路基綱/古川基綱とも。権中納言・参議。足利義政にも重用される。飛騨に下向して戦国大名になる。

官務伊治宿祢/大宮伊治か。官務の職にあり。

二楽軒空世/飛鳥井雅康。飛鳥井雅親の弟で、猶子となる。中納言。法名は「宗世」の書き間違いと思われる。

岩屋民部大輔烏養近江/不明。

宣泉坊/不明。

逍遥院尭空/三条西実隆。内大臣。

 

※これらの人物についてはインターネット検索で情報を集めました。

 

 

天正3年5月13日、渋屋太夫が酒席で歌う

十三日、河上拾郎三郎連歌興行、連衆常衆、其中に但馬衆八木殿の捨弟隠岐守といへる人連座候、儅、連歌過候て、澁屋大夫来り候而うたひ承候、其より但馬衆帰るさに馬場末にて追酒、大夫あまたうたハれ候、

 

川上十郎三郎が主宰で連歌興行。島津家久に同行してきた島津家の者だろう。川上氏は島津氏の庶流。一族には家老を務める者もいる。この十郎三郎の詳細はわからず。通称の感じからは川上氏の支流だと思われる。もしかしたら島津家久の家臣の可能性もありそう。

 

また、但馬衆の八木殿の舎弟の隠岐守という人物も同席した、と。但馬衆の八木殿とは、但馬国八木(兵庫県養父市八鹿町八木)領主の八木豊信(やぎとよのぶ)のことか。隠岐守はその弟である。八木氏は但馬国の山名(やまな)氏の家臣。ちょっと前の時代になるが八木氏当主に八木宗頼(やぎむねより)という人物がいる。この人が和歌や連歌の上手で、京の文化人とも交流があったという。そんなつながりから、こちらの連歌興行にも顔を出しているのだろう。

 

そのあと酒宴。ここでは渋屋太夫の謡(うたい)を楽しんでいる、5月1日の日記でも、賀茂社の催しで渋屋太夫の謡が出てきている。一流の芸能だ。里村紹巴のつながりなのか、誰かのつてで座に呼ばれたのだろう。

但馬の者たち(八木氏)が帰ったあとも、酒宴が続く。渋屋太夫の謡をたっぷりと聞くことができた、と。

 

 

つづく、5月14日には明智光秀と会う……。

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<参考資料>
『中務大輔家久公上京日記』
翻刻/村井祐樹 発行/東京大学史料編纂所 2006年
※『東京大学史料編纂所研究紀要第16号』に収録

鹿児島県史料『旧記雑録 後編一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1981年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 諸氏系譜三』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 1992年

『ある連歌師の生涯 里村紹巴の知られざる生活』
著/小高敏郎 発行/至文堂 1967年

『史跡八木城跡 国指定文化財記念』
編/八鹿町教育委員会 1994年

ほか

寺院のホームページなども参考にしました。