ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

吉松の熊野神社・内小野寺跡、木崎原の戦いの前に島津義弘が戦勝を祈願した

鹿児島県北部の山間に「湧水町」という自治体がある。2005年に吉松町と栗野町の合併により発足したもので、湧水が多い地域であることから新町名もつけられている。このあたりは霧島連山の西麓に位置し、山々が蓄えた水が湧出する。湧水町内では栗野(くりの)の丸池湧水(まるいけゆうすい)、吉松(よしまつ)の竹中池湧水(たけなかいけゆうすい)が知られている。

竹中池湧水の近くにある熊野神社(くまのじんじゃ)は素敵な場所である。境内に湧水が湧き、なんとも心地良い雰囲気なのだ。かつてここには内小野寺(うちおのじ)もあった。島津義弘(しまづよしひろ)も崇敬した場所でもある。

 

内小野寺は明治時代初めの廃仏毀釈で廃寺となり、熊野神社のみが残る。かつての様子は『三国名勝図会』の絵図で確認できる。

寺院の絵図

『三国名勝図会』より内小野寺(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

『三国名勝図会』とは鹿児島藩(薩摩藩)が編纂させた地誌。詳しくはこちらの記事にて。

rekishikomugae.net

 

こちらは熊野神社の鳥居のあるあたり。絵図の橋が架かっているところ(下のほうの中央やや右)かな? 写真左奥の木が茂っているあたりが本堂方面だろうか。

赤い鳥居がある

熊野神社の入口

道路沿いの流水

境内から水が流れ出す

 

境内を散策してみる。

 

 

 

 

 

竹林の小路を抜けて

鳥居をくぐると駐車スペースがあり、内小野寺跡の説明看板などもある。境内の湧水を利用した養魚場もあった。

奥へと進む。竹林の中に参道が伸びる。

竹林の中を歩く

小さな橋を渡って

竹林の中を進んでいく

神聖な雰囲気

森の中の山道

石段をのぼる


ちょっと登ると小さな社殿がある。こちらもよく手入れされている。清浄な空気が満ちている感じだった。

森の中に小さな社殿

熊野神社の社殿

 

参道を戻る。『三国名勝図会』の絵図にある「水天」へも行けるみたい。こっちへも向かってみる。

水天への案内看板が見える

水天への道しるべ

 

かなり草が伸びていてなかなか困難な道のりであった。草をかき分け蜘蛛の巣と格闘しながらなんとか進む。小さな石の祠があった。この中に水天社の御神体が納められているそうだ。

小さな石づくりの祠

水天の祠

 

 

内小野寺と熊野神社の由来

熊野神社はかつて「新熊野権現社(いまくまのごんげんしゃ)」と呼ばれていた。内小野寺の境内に鎮座し、現在は神社だけが残っている。『三国名勝図会』によると祭神は「紀州新熊野宮と同じ」とのこと。

 

内小野寺の創建時期は不明。日向国救仁郷(くにごう、鹿児島県曽於郡大崎町)にあった飯福寺照倍院(いいふくじしょうばいいん)の末寺で、天台修験本山派であったという。本尊は白猪に乗った摩利支天だったとされる。

ちなみに救仁郷の飯福寺照倍院は慶雲5年(708年)の開山と伝わる。役小角の弟子とされる義覚上人が下向して開山するとともに、新熊野三社権現社も勧請したということだ。こちらの伝承をうのみにはできないが、かなり古そうである。

 

内小野寺の住職と、新熊野権現社の社司は愛甲(あいこう)氏が世襲していた。愛甲氏は愛甲賢雄を祖とする。この人物は13世紀初め頃に島津忠久(しまづただひさ、島津氏初代)に従って相模国(現在の神奈川県)から南九州へ移り、吉松の地を賜って土着したとされる。数代を経て山伏となり、内小野寺を管理するようになったのだという。

 

 

島津義弘の領地となる

吉松は、古くは「筒羽野(つつはの)」と呼ばれていた。大隅国桑原郡に含まれるが、かつては日向国真幸院(まさきいん)の内であったとも。国境の地である。

古くから真幸院(現在の宮崎県えびの市・小林市・西諸県郡高原町)や筒羽野・栗野(鹿児島県姶良郡湧水町)を治めていたのは、日下部(くさかべ)氏であった。14世紀半ばまで郡司であったという。南北朝争乱期の混乱の中で日下部氏は没落し、かわりに北原(きたはら)氏が郡司として入る。北原氏は大いに繁栄し、16世紀中頃までこの地の領主であった。北原氏は大隅国に大きな勢力を持っていた肝付(きもつき)氏の支族である。

【関連記事】肝付氏のこととか、高山の歴史とか

 

戦国時代には北原氏は戦国大名として大きな力を持つ。周囲には日向国の伊東(いとう)氏や北郷(ほんごう)氏、肥後国の相良(さがら)氏、薩摩国・大隅国の島津氏や菱刈(ひしかり)氏があり、これらと対立したり協調したりしながら勢力を保っていた。

しかし、当主の北原兼守(きたはらかねもり)の急死にともなって没落する。永禄5年(1562年)、北原氏の家督相続問題に伊東義祐(いとうよしすけ)が介入して、実質的に乗っ取ってしまう。それに対して北原氏の家臣らが島津貴久(しまづたかひさ、島津氏15代当主)に助けを求める。島津貴久は相良義陽(さがらよしひ)とも協力しながら北原氏の旧領をほぼ奪還し、新当主として北原兼親(かねちか)を立てた。

真幸院のうち三山(みつやま、宮崎県小林市)と高原(たかはる、宮崎県西諸県郡高原町)は伊東義祐が保ったままで、さらには相良義陽も伊東氏側につく。北原兼親ではこの地を守れないと判断した島津貴久は、永禄7年(1564年)に次男の島津忠平(ただひら、島津義弘)に真幸院・筒羽野・栗野を任せたのである。

島津忠平(島津義弘)は真幸院の飯野城(宮崎県えびの市原田)を居城として、伊東氏との戦いを繰り広げた。元亀年間(1570年~1573年)には争いがさらに激化する。この頃の内小野寺の住職は愛甲相模坊光久といった。島津忠平(島津義弘)は愛甲相模坊光久に伊東氏降伏の祈祷を行わせた。元亀3年(1572年)、木崎原の戦いに勝利した島津忠平(島津義弘)は祈祷の霊験を賞し、愛甲相模坊光久にも褒美が与えられた。

島津義弘は天正18年(1590年)に飯野城から栗野の松尾城に移った。また、内小野寺には島津義弘の隠居所として建てられた客殿もあったのだという(情報は現地の案内看板より)。

 

関連記事。こちらもあわせてどうぞ。

rekishikomugae.net

rekishikomugae.net

 

 

熊野水源

湧水は参道入口近くにある。「熊野水源」の看板があり、その先に湧水池がある。澄みきった水と、流水の音がなんとも涼しげだ。

森の中の湧水池

熊野水源

湧水池

透明度が高い!

竹林の中の泉

違う角度から

 

駐車スペースには歌碑もあった。これは島津久住が延宝8年(1680年)が参詣した際に詠んだもの。島津久住は島津綱貴(しまづつなたか、島津氏20代当主、3代藩主)の弟にあたる。その歌は、つぎのとおり。

 

又もきて見すやあらなむこの寺の
岩間の水の清きながれを

 

 

 

 

 

『三国名勝図会』は国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能だ。

国立国会図書館デジタルコレクション

 

 

<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『吉松郷土誌(改訂版)』
編/吉松郷土史編集委員会 発行/吉松町 1995年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

ほか