ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

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島津歳久、竜ヶ水に散る ~平松神社(心岳寺跡)を『三国名勝図会』より~

平松神社(ひらまつじんじゃ)は鹿児島市吉野町の竜ヶ水(りゅうがみず)に鎮座する。御祭神は碧空巌岳彦命(あおぞらいずたけひこのみこと)。島津歳久(しまづとしひさ)のことである。前身を心岳寺(しんがくじ)といい、島津歳久の菩提寺であった。

島津歳久は、島津貴久(たかひさ、島津氏15代当主)の三男。島津義久(よしひさ、16代当主)・島津義弘(よしひろ)の弟にあたる。父や兄を支えて戦国島津氏の発展に尽くした。天正20年(1592年)、島津歳久は豊臣秀吉から謀反の疑いをかけられる。島津家には島津歳久の処分が命じられ、島津義久は泣く泣く弟を討つ。島津歳久は竜ヶ水で散った。慶長4年(1599年)、島津義久(よしひさ)は竜ヶ水に心岳寺を建立させた。非業の死をとげた弟を供養するために。

 

以前にも記事にしているが、その後も何度かお詣りしている。近くを通る際に、なんだか立ち寄りたくなるのだ。記事をまた作ってみた。

平松神社(心岳寺跡)の詳細、島津歳久についてはこちらの記事にて。

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『三国名勝図会』の心岳寺

『三国名勝図会』は鹿児島藩(薩摩藩)が編纂した地誌で、天保14年12月(1844年1月)に完成したもの。この中には、心岳寺の絵図が掲載されている。昔の姿と見比べつつ、境内の様子を紹介してみる。

なお、かつては「滝ヶ水」「瀧ヶ水」と書かれたようだ。江戸時代の資料では、こちらの表記になっている。また、大隅国の始羅郡(しらぐん、しらのこおり)の帖佐郷(ちょうさごう)に属していた。

 

『三国名勝図会』についてはこちらの記事にて。

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絵図を見ると、当時の姿をかなりよく残していることがわかる。山門は現在の鳥居があるあたり。山門前は船着場だろう。現在は国道10号が神社前を通っているが、昔はすぐ目の前が海だった。

寺院の絵図

心岳寺、『三国名勝図会』巻之三十八より(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

写真は2022年5月に訪問したときのもの。ちょうど宮司さんが境内の手入れをされているところだった。鳥居の近くで刈り草などを燃やしていて、煙るところに陽が差し込んでいた。

線路と鳥居と崖上の境内

線路を渡って参拝する

石造りの鳥居と記念碑

鳥居から参道へ


また、絵図には島津歳久を追悼する歌も記されている。慶長13年(1608年)11月(旧暦、以下同)に、島津義久・島津義弘が心岳寺を訪れた際に詠んだものだ。


岩木までかげふる寺を来て見れば
雪の深山ぞおもひやらるる
       龍伯(島津義久)

 

夕波に月と雪とを待とらば
いつくはありし磯の山寺
       惟新(島津義弘)

 


参道の横には水が流れている。現在も地形はほぼそのままで、水量は多い。参道から橋をわたって登っていく。また、石段は海側をまわり込むルートと、参道のやや奥から登るルートがある。野面積みの石垣は良好な状態で残っている。

石垣と石段

海側の参道口

 

しっかりと石垣が残る

参道やや奥から

 

階段横の石垣

野面積みの石垣


石垣の上には平坦な空間がある。かつてここに寺院の建物が並んでいた。現在は神社の拝殿がある。宮司さんの話によると、心岳寺の建物の一部を利用したものとのこと。

緑の中の社殿

海側の入口から見た拝殿

苔むした石造りの手水鉢

面白い雰囲気の手水鉢もある

 

拝殿の背後にはもう一段高くなった場所がある。ここには稲荷神社が鎮座し、島津歳久の墓塔もある。これらも絵図で確認できる。

階段を登ると稲荷神社と石塔

鳥居の横に見えるのが島津歳久の墓塔



 

もともとは砦があった?

地形は砦を思わせる。石垣もかなりいかつい感じがするのである。

元亀2年(1571年)11月20日に大隅国の有力国人である肝付(きもつき)・禰寝(ねじめ)・伊地知(いじち)の水軍が鹿児島に侵攻し、帖佐瀧水(竜ヶ水)を攻めた。と、『島津国史』に書かれている。

この戦いの場所は、もしかしたら平松神社があるここなのでは? という気もする。ただ、資料を探してみたが、確証を得られるものは見つからず。

 

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平松神社(心岳寺)のある場所は断崖が続き、なかなか秘境感がある。鹿児島湾北部は姶良カルデラに由来する地形で、断崖はカルデラ壁にあたる。今でこそ海沿いに国道10号とJR日豊本線は通っているが、昔は人が行き来できるような道はなかった。船を着けられる場所も、かなり限られていたと思われる。

 

こちらの写真は、寺山公園展望台から桜島と鹿児島湾をのぞむ。標高は約400m。カルデラ壁の上からの眺めだ。この崖下に平松神社は位置する。

眼下に鹿児島湾、前には桜島

寺山公園展望台から

 

島津氏の本拠地があった薩摩国鹿児島(現在の鹿児島市上町地区)から西大隅(現在の姶良市や霧島市)への間は船で移動することが多かった。兵や物資も船で運ぶ。鹿児島湾北部の制海権を敵に奪われると、航路が分断されてしまう。竜ヶ水が重要な軍事拠点であったことは容易に想像できる。

 

島津歳久は鹿児島から船に乗って所領の祁答院(けどういん、鹿児島県薩摩郡さつま町のあたり)に戻ろうとした。しかし、通り道は兵で塞がれていて、行き場をなくす。そして、竜ヶ水に上陸して籠城。追討軍と一戦交えた。

 

 

島津歳久の最期については、これらの本にも書かれている。

 

 

 

 

<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

鹿児島県史料集49『西藩烈士干城録(一)』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 2010年

ほか