ムカシノコト、ホリコムヨ。

おもに鹿児島あたりの歴史を掘りこみます

戦国時代の九州戦線、島津四兄弟の進撃(1)木崎原の戦い

元亀元年(1570年)、島津貴久(しまづたかひさ)は薩摩国(鹿児島県の西側)を平定する。このほか、大隅国の西部(現在の鹿児島県霧島市・姶良市・姶良郡湧水町・伊佐市菱刈のあたり)、日向国真幸院(まさきいん、宮崎県えびの市のあたり)にも勢力を広げていた。

 

rekishikomugae.net

rekishikomugae.net

 

島津貴久には4人の息子がいる。嫡男は島津義久(よしひさ)、次男は島津忠平(ただひら、島津義弘、よしひろ)、三男は島津歳久(としひさ)、四男は島津家久(いえひさ)である。戦国島津氏の戦いは次世代へ引き継がれる。

島津義久の代に、島津氏は全盛期を迎えることになる。島津四兄弟の進撃が始まる。

なお、日付については旧暦で記す。

 

 

島津貴久、死す

元亀2年(1571年)6月23日、島津貴久が没する。享年58。

南九州では14世紀の南北朝争乱期からずっと戦乱が続いていた。島津氏は支配力を強化するために支族を各地に配置。また、分家を立てて要地を任せたりもした。しかし、15世紀後半には分家・支族が島津本宗家に対してたびたび反乱を起こす。国人衆も反抗する。島津氏の歴代当主はその対応に追われてきたのである。

 

rekishikomugae.net

 

そんな中で島津忠良(ただよし、島津日新斎、じっしんさい)が登場する。相州家(そうしゅうけ、分家のひとつ)の3代当主である。島津忠良は嫡男の虎寿丸を島津本宗家の後継者に擁立する。それが島津貴久である。いったんは薩州家(さっしゅうけ、こちらも分家)に状況をひっくり返されるも、島津忠良・島津貴久は薩州家との抗争を勝ち抜いて覇権を手にするのである。さらには、反抗勢力との激闘をつぎつぎと制していく。

200年以上続いた領内の混乱をおさめ、安定的な支配権を確立する。しかも、分家からの成り上がりからである。島津貴久は傑物であった。

永禄11年(1568年)には島津忠良(島津日新斎)も没しており、島津氏は下剋上を成し遂げた大黒柱2本を続けざまに失った。

島津貴久の死を好機ととらえ、敵は動き出す。

 

 

 


島津の四兄弟

元亀2年(1571年)の時点で島津義久は38歳、島津忠平(島津義弘)は36歳、島津歳久は34歳、島津家久は24歳であった。義久・忠平・歳久の3人は天文23年(1554)年の岩剣城の戦いで初陣を飾る。数々の戦いに参加してすでにかなりの経験を積んでいる。

 

島津義久は若い頃より次期当主としてあつかわれ、戦場では島津貴久とともに本陣にあることが多かった。また、大将としての出撃もある。永禄9年(1566年)には家督を相続。隠居した父の補佐を受けつつも、当主としてすでに十分な実力を備えていたと思われる。

 

島津忠平(島津義久)は、戦場で島津氏の主力を担う。永禄3年(1560年)には日向国飫肥(おび、宮崎県日南市)の守りを任され、永禄7年(1564年)には日向国真幸院の飯野城(いいのじょう、宮崎県えびの市飯野)に入った。伊東氏への備えとして最前線を任されている。

緑に覆われた山城跡

飯野城跡

 

rekishikomugae.net

 

 

島津歳久は、永禄6年(1563年)に大隅国吉田(よしだ、鹿児島市吉田)を任される。薩摩国北部の敵対勢力(菱刈氏や渋谷一族、のちに降伏)に対する要地であった。島津歳久もおもだった戦いで一軍を率いた。

 

島津家久は兄たちとは母が違い、側室の子である。年齢もやや離れている。永禄4年(1561年)の廻城の戦いでは、初陣ながら敵将を討ち取る。大口城攻めでも大きな戦果を挙げ、若いながらも見事な戦いぶりを見せている。元亀元年(1570年)から薩摩国の隈城(くまのじょう、鹿児島県薩摩川内市隈之城町)や串木野(くしきの、いちき串木野市)などを任される。

 

島津氏の世代交代はうまくいっていた。

 

 


日向の伊東氏

この頃、日向国の伊東義祐(いとうよしすけ)は、那珂郡・児湯郡・宮崎郡・諸県郡・臼杵郡に勢力を広げていた。その範囲は現在の宮崎県の大部分にあたり、支配域は「伊東四十八城」とも呼ばれていた。そのうちの都於郡城(とのこおりじょう、宮崎県西都市)と佐土原城(佐土原城、宮崎市佐土原町上田島)を拠点とする。

もともとは島津氏が日向国守護なのだが、島津氏領内が混乱する中で伊東氏はその支配を脱して日向国中部の支配者となっていく。そして、長年にわたって島津氏と抗争を繰り返し、日向国南部の飫肥・櫛間(おび・くしま宮崎県日南市・串間市)や庄内(しょうない、宮崎県都城市のあたり)を奪い合ってきた。永禄5年から元亀年間にかけて(1562年~1573年)は、日向国真幸院をめぐって島津氏と激しく勢力争いを展開する。

 

伊東義祐は永禄9年(1566年)の真幸院三山(みつやま、宮崎県小林市)の戦いで島津義久・忠平(義弘)・歳久らを撃破している。また、永禄3年(1560年)には飫肥で島津忠平(島津義弘)と戦い、こちらでも負けていない。

「息子たちはたいしたことがない」と伊東義祐は考えていたのかもしれない。

 

 

大隅の肝付氏

肝付(きもつき)氏は大隅国肝属郡の高山城(こうやまじょう、鹿児島県肝属郡肝付町高山)を拠点とし、10世紀頃から土着した古い一族である。島津氏とは対立したり、協調したりしながら、この地の領主の地位を保ってきた。16代当主の肝付兼続(きもつきかねつぐ)は一族の全盛期を築いた。肝付兼続は島津貴久の姉(御南、おみなみ)を正室としていて、島津氏と協調路線をとりつつ大隅半島に制圧。大隅国禰寝(ねじめ、鹿児島県肝属郡南大隅町・錦江町)禰寝重長(ねじめしげたけ)、大隅国下大隅(鹿児島県垂水市・鹿屋市)の伊地知重興(いじちしげおき)も肝付氏に従っていた。しかし、島津氏と肝付氏がともに勢力を広げていくと、両者は敵対することになる。肝付氏は伊東氏と連携をとり、島津氏に対抗した。

肝付兼続は永禄9年(1566年)に没するが、あとをついだ肝付良兼(よしかね、兼続の嫡男)も勢いを保っていた。

ちなみに、肝付良兼は母(御南)が島津貴久の姉なので、島津義久らとは従兄弟どうしである。一方で、正室には伊東義祐の娘を迎えている。

 

rekishikomugae.net

 


大隅勢が鹿児島湾に侵攻

元亀2年(1571年)11月、肝付氏・禰寝氏・伊地知氏が、100艘以上(300艘以上とする資料もある)の軍船を出して鹿児島湾に侵攻する。大隅国の竜ヶ水(りゅうがみず、鹿児島市竜ヶ水)を襲うが、帖佐(ちょうさ、鹿児島県姶良市)にあった平田歳宗(ひらたとしむね、家老)が兵をまわして敵襲を退けた。元亀3年1月には肝付勢が大隅国末吉に進軍し、北郷時久がこれを迎え撃った。また、大隅国の小村(こむら、鹿児島県霧島市国分広瀬のあたり)を大隅勢が襲う。島津方は応戦して撃退し、肝付氏配下の岸良将監ら24人を討ち取った。2月になって島津方と肝付方は大隅国の廻(めぐり、霧島市福山)・市成(いちなり、鹿児島県鹿屋市輝北町市成)の境で戦い、島津方が勝利する。肝付越前守らが討ち取られた。

晴天の下の桜島

鹿児島湾と桜島

 

また、元亀2年2月に禰寝重長が薩摩国揖宿(いぶすき、鹿児島県指宿市)を攻撃したという記録もある。こちらは島津義久が撃退したのだという。

 

鹿児島湾の侵攻については、肝付氏の当主が資料によって異なる。肝付兼続だったり、あるいは肝付良兼だったりする。ちなみに、肝付氏の系図によると肝付兼続は元亀2年時点では亡くなっている。そして、肝付良兼も元亀2年7月に没したのだという。系図が伝えるとおりであれば、この頃は肝付兼亮(かねすけ、かねあき、良兼の弟)が当主ということになる

鹿児島湾侵攻の時点では、肝付良兼がまだ生きていた可能性もある。ちなみに、『本藩人物誌』では肝付良兼は天正2年(1574年)の没したとし、異説で元亀2年としている。

 

 

木崎原の戦い

元亀3年(1572年)、伊東義祐は日向国真幸院飯野・加久藤(宮崎県えびの市)へ侵攻する。この頃の島津氏は大隅勢との戦いで手一杯であった。真幸院の守りは薄い。伊東義祐としては、そこを一気に攻める算段だったのだろう。

飯野城は島津忠平(島津義弘)が守る。兵力はわずかに200~300ほど。また、飯野城の東にある加久藤城(かくとうじょう、えびの市小田)には島津忠平(島津義弘)の妻(継室の広瀬夫人)が入り、川上忠智(かわかみただとも、島津忠平の家老)が守る。こちらの兵力はわずかに50ほどだった。

 

『木崎原御合戦傳記』(『明赫記』に掲載)によると、この年の正月に伊東義祐は飯野攻めの評定を行ったのだという。まずは加久藤城を攻め取ることを決めたほか、肥後国球磨(くま、現在の熊本県人吉市のあたり)の相良義陽(さがらよしひ)にも援兵を要請した。

一方で、島津氏側も伊東氏の動きを予測していたはず。状況から考えても、わかりやすいのだから。島津忠平(島津義弘)は寡兵で戦うための作戦を練りに練ったことがうかがえる。幟旗を要所に立てて兵がいるように見せかけるなど襲来に備えた。加久藤城の「搦手の鑰掛口(かぎかけくち)が弱点」という嘘情報を流したとも。鑰掛口は、実際には断崖になっていて攻めにくい。

 

5月3日、伊東方は伊東祐安(すけやす、伊東加賀守、伊東義祐の従兄弟にあたる)・伊東祐信(すけのぶ、伊東新次郎、義祐の娘婿)・伊東又次郎・伊東祐青(すけはる、伊東修理亮、こちらも義祐の娘婿、伊東マンショの父)らを大将として飯野に向けて出兵する。ほかにも多くの有力武将が従軍する。兵力は3000余。

伊東方は軍を二手に分ける。3日夜に伊東祐安の部隊が飯野城の南に布陣。そしてもう一つの部隊は、5月4日未明に加久藤城に攻めかかった。

山城への登り口

加久藤城跡、こちらは大手口

 

rekishikomugae.net

 

敵襲を知った島津忠平(島津義弘)はすぐに動く。遠矢良賢(とおやよしかた)に50余の兵をあずけて加久藤城の救援に向かわせる。有川貞真(ありかわさだざね)に城の守りを任せて、自身も出撃する。また、狼煙を上げて大口・菱刈(おおくち・ひしかり、とにもに鹿児島県伊佐市)、吉松(よしまつ、鹿児島県姶良郡湧水町)などにも援軍を要請した。領民や寺者にも知らせて、擬兵の協力も得る(幟旗の近くで音を出して、兵がいるように見せかける)。

島津忠平(島津義弘)はさらに軍を分け、五代友喜(ごだいともよし)隊40余人を白鳥山のふもとの野間門(池島川の近くか)に、村尾重侯(むらおしげあり)隊50余人を本地原(もとじばる、えびの市原田のあたり)に伏せさせた。島津忠平(島津義弘)本隊130余人は二八坂(にはちさか、えびの市大明司)に陣取った。

 

伊東勢は加久藤城を鑰掛口から攻め登ろうとする。この地には樺山浄慶という山伏が住んでいた。伊東軍は樺山屋敷を城と勘違いして攻める。樺山父子3人は奮戦して討ち死に。「者ども続け!」といったことを叫びつつ戦い、ほかに兵がいるふりをして敵をひるませたとも伝わる。島津方も険しい地形を活かしつつよく戦い、伊東方は城を落とせなかった。

相良義陽も500の兵を率いて加久藤城を目指していた。だが、幟旗が立つ様子(擬兵)を見て引き返す。こちらは戦いに参加することはなかった。

伊東勢は加久藤城からいったん退いて南下。池島川沿いの木崎原(きざきばる、えびの市池島)に軍を動かす。伊東祐安の部隊もここに合流した。伊東勢は島津方の幟旗が連なるのを見て敵が多いと判断し、撤退を決める。白鳥山を登って高原(たかはる、宮崎県西諸県郡高原町)へと抜ける退路を選んだ。しかし、白鳥神社座主の光厳上人(こうげんしょうにん)が領民や僧侶を300余人集め、鉦鼓を鳴らして鬨の声を挙げる。擬兵であった。伊東勢は伏兵があることをおそれて引き返し、木崎原の鳥越城跡に布陣する。

田んぼの中の山城

鳥越城跡

 

島津忠平(島津義弘)が率いる本隊は二八坂から木崎原の伊東勢に向けて突撃する。遠矢良賢が率いる別動隊も合流した。島津忠平(島津義弘)は敵陣深くまで攻め込んだために隊伍が乱れる。遠矢良賢など多くの旗本が主君をかばって討ち死にするなど奮戦し、その間に島津忠平(島津義弘)の部隊はなんとか態勢を立て直した。

島津勢は再度攻めかかり、木崎原の三角田(みすみだ)のあたりで乱戦となった。五代友喜が率いる伏兵や、鎌田政年が率いる別動隊も背後を突いた。大口や吉松などからの援軍も加勢し、伊東勢は総崩れとなった。

古戦場の史跡

激戦地の三角田

 

伊東勢は木崎原から東へ敗走。島津勢は追撃する。本地原に差しかかると、伏兵の村尾隊が飛び出して、伊東勢の被害はさらに大きくなった。

この戦いで伊東方は大将の伊東祐安・伊東祐信・伊東又次郎・伊東祐青らをはじめ、有力武将の多くが討ち取られた。島津方は500余の首級を挙げたとされる。一方で、勝者の島津方も260人が戦死した。

石造りに記念碑

木崎原古戦場跡碑

 

rekishikomugae.net

 

木崎原の戦いにより、南九州のパワーバランスは大きく変わる。勝った島津氏は勢いに乗り、大敗した伊東氏は没落へと向かっていくのである。また、その余波は伊東氏とともに戦う肝付氏らにも及んだ。

南九州の情勢は、ここから急激に動いていく。つづく……。

 


<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

鹿児島県史料集37『島津世禄記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1996年

鹿児島県史料集37『島津世家』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1997年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

鹿児島県史料集27『明赫記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1986年

『島津義弘の軍功記』増補改訂版
著/島津修久 発行/島津顕彰会 2000年
※『惟新公御自記』(島津義弘による自伝)を収録・解説

『鹿児島県史料 旧記雑録 後編 第1巻』
編/鹿児島県維新史料編さん所 出版/鹿児島県 1981年

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『日向纂記』
著/平部嶠南 1885年

『鹿児島県の中世城館跡』
編・発行/鹿児島県教育委員会 1987年

『島津貴久 戦国大名島津氏の誕生』
著/新名一仁 発行/戒光祥出版 2017年

『「不屈の両殿」島津義久・義弘 関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』
著/新名一仁 発行/株式会社KADOKAWA 2021年

ほか