城野神社(じょうのじんじゃ)は、鹿児島県姶良市木津志に鎮座する。木津志(きづし)というところは、なかなかの山奥である。鎮座地は「隠れ里」という言葉がしっくりくるような雰囲気だ。
御祭神は浄之御前(じょうのごぜん)。源為朝(みなもとのためとも)の奥方だと伝わっている。
城野神社の由緒
由緒については『木津志百年史』(1966年発行)や『姶良町郷土誌』(1968年発行)に詳しい。こちらの資料を参考にした。
創建年代は不明。浄之御前については源為朝の妻と伝わるのみで、出自はわからない。「オソノ様」とも呼ばれているという。
もともとは現社地の北にある高嶺岡の山上に鎮座していという。ここの神様は白馬を嫌っていて、山上から見える道を往来する白馬がばたばたと死んでいたことから、御神体を山のふもとに下ろした。それが現社地であるという。遷座を執り行ったのは上提(かみさげ)氏とされる。かつては「神提」と書いたとも。上提家は城野神社の代宮司を代々務める。
白馬を嫌った理由については、こんな伝説がある。
浄之御前は武勇にすぐれた女性だったという。夫とともに国分(鹿児島県霧島市国分)の大人弥五郎(おおひとやごろう)を攻めた。弥五郎は熊襲の末裔であるとも。浄之御前は白馬に乗って戦いへ。弥五郎の妖術にかかって金縛りにあい、危うく討たれそうになった。その場所は麻畑であったという。そこには白くなった麻殻があり、自身は白馬に乗っていた。そのため、浄之御前は白いものを嫌うようになったのだという。
なお、木津志では白馬を飼わないことになっている。
島津義弘の腹痛を治す
島津義弘(しまづよしひろ)が木津志を狩りで訪れたときに、急な腹痛に襲われた。そのとき、伊地知主税という者が城野神社に祈ると腹痛はなおった。島津義弘は伊地知主税へ褒美として短刀を与えた。また、木津志に屋敷も与えられたという。
また、慶長12年(1607年)には、島津義弘の命令で社殿が造りなおされた。
ちなみに島津義弘は文禄5年(1595年)に帖佐館(ちょうさやかた、姶良市鍋倉)に入り、慶長12年に加治木館(かじきやかた、姶良市加治木町仮屋町)に居館を移している。
城野神社をお詣り
谷間に田んぼがある。そんな風景の中を通る道路沿いに朱の鳥居が見つかる。そこが城野神社である。鳥居のまえに広めのスペースがあり、車はそこに停めた。
鳥居の向こうには、けっこう長めの参道が続いている。境内はよく手入れされている。
参道横の門守神社と石灯籠。けっこう古いものだ。門守神社には元禄4年(1691年)、石灯籠には寛政元年(1789年)の銘が確認できる。
奥にすすむと拝殿と本殿。『木津志百年史』によると、社殿は昭和15年(1940年)に建てられたものとのこと。
御神体は青銅製の鏡で、11面あるという。また、享保9年(1724年)に奉納された「主馬首一平安代(しゅめのかみいっぺいやすよ)」という銘刀も。こちらは鹿児島県の有形文化財にも指定されていて、現在は鹿児島県歴史・美術センター黎明館に収蔵されている。
また、御神体を安置する場所の下壁にはめ込む壁画は狩野惟信(かのうこれのぶ)の作とされる。こちらは姶良市歴史民俗資料館に収蔵。
社殿の脇のほうには、何やら立派な石碑も。「城野神社仕明地記念碑」というもので、宝暦5年(1755年)の建碑。
記念碑には、こんなことが書かれている。
木津志村の人々が城野神社の社殿の修繕の補助を藩に願い出た。しかし、うまくいかず。そこで自分たちで原野を仕明(しあけ、開墾)し、田畑から出た収益を修繕費にあてることになった。寛延2年(1749年)11月に社殿の修理に取りかかり、翌年正月に完成。2月に遷宮式が行われた。
……と。
城野神社の鳥居の近くにはタノカンサァ(田の神)もいる。
大隅国桑原郡の源為朝伝説
源為朝は保元の乱(保元元年、1156年)に参戦。「鎮西八郎」を称する。『保元物語』に活躍が記され、伝説的な武勇譚も多い。
『保元物語』には、「乱暴がすぎて13歳のときに九州へ追放され、鎮西の総追捕使を勝手に称して九州を荒らしまわった」ということも書かれている。そして、「肥後国阿曽の平四郎忠景(ただかげ)の子である三郎忠国の婿となった」とも。この「肥後国阿曽の平四郎忠景」は「薩摩国阿多(あた)の平四郎忠景」のことだろうというのが通説になっている。また、源為朝が娶ったのは平四郎忠景の娘とも、孫娘ではなくて。
阿多平四郎忠景は12世紀の人で、薩摩国阿多(現在の鹿児島県南さつま市金峰)の郡司。薩摩国に大きな勢力を持っていた薩摩平氏の一族である。阿多忠景は薩摩国の広範囲を押領し、大隅国にまで勢力を広げたとされる。そして、朝廷より追討を受け、鬼界島(鬼界ヶ島、きかいがしま、薩摩硫黄島か)に逐電したという。
この阿多忠景は源為朝と連携して南九州を荒らしまわった、なんてことも言われていたりもする。
『保元物語』に綴られていることの史実性は、なんともわからないところ。ただ、鹿児島県内のあちこちに源為朝の伝説が残っている。若い頃に訪れたという話のほか、伊豆大島に流されたあとに再び九州に入ったとも。由緒のところで触れた大人弥五郎との戦いは、再訪後のほうだろうか。
阿多忠景については、こちらの記事でも。
大隅国桑原郡山田(やまだ、鹿児島県姶良市の山田地区)には「為朝城跡」と呼ばれるものも。源為朝が居城にしたという。
また、大隅国桑原郡吉田(よしだ、鹿児島市の吉田地区)にある「下坊上山の五輪塔」は、源為朝とその妻の墓だと伝わる。
中世の吉田の領主は、吉田氏という。息長姓で、大隅正八幡宮(現在の鹿児島神宮)の社家の一族である。吉田氏初代の息長清道の母は、源為重の娘と伝わる。源為重は源為朝の子であるという。
「下坊上山の五輪塔」についてはこちらの記事にて。
城野神社についても、大隅国桑原郡の源為朝伝説の一つという感じ。そして、浄之御前は阿多忠景の娘だろうか?
城野神社を氏神とする一族に、桑原郡蒲生(かもう、姶良市蒲生)の大脇(おおわき)氏がある。大脇氏は源為朝の末裔を称する。為朝の子の源為清から出た一族なのだという。むかしから大脇家は、城野神社を参詣する際には、片目を潰したフナを持って来て境内の池に放していたとも。この風習にどんな意味があるのかは、よくわからない。
もとは違う神様か?
吉田氏や大脇氏は、源為朝を系図に入れ込んでいる。これは家柄に箔をつけるために、称したものでありそうな印象も受ける。そんな経緯で、城野神社や浄之御前の伝承も作り上げられた可能性がありそうにも思える。
当初は山上に神社があったとされるが、もともとは山を御神体とするまったく別の神様だったのでは? ……という想像もさせられる。
また、大人弥五郎は古代の伝承に登場する人物である。源為朝とは時代があわない。古くからこの地にあった伝説に、源為朝伝説が重なられたのかな? ……と、思ったりもする。
大人弥五郎については、こちらの記事にて。
とはいえ、「伝説がある」という事実が大事だと思っている。そして、南九州の源為朝伝説というのは、やはり興味をそそられるのである。
<参考資料>
『木津志百年史』
発行/木津志百年史編纂委員会 1966年
『姶良町郷土誌』
編/姶良町郷土誌編纂委員会 発行/姶良町 1968年
『姶良町郷土誌』
編/姶良町郷土誌改訂編さん委員会 発行/姶良町 1995年
『三国名勝図会』
編/橋口兼古、五代秀尭、橋口兼柄、五代友古 出版/山本盛秀 1905年
ほか