ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

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川田神社(大川寺跡)、御祭神は川田義朗、島津家を勝利に導く軍配者

渓流沿いに川田神社(かわだじんじゃ)はある。場所は鹿児島市川田町。かつての薩摩国満家院(みつえいん)のうち。

 

御祭神は川田義朗(かわだよしあき)である。16世紀の人物で、島津貴久(しまづたかひさ)・島津義久(よしひさ)に仕えた。川田義朗は島津家の数々の戦いで軍配者を務めた。軍配者といのうは、軍事における儀式や祈祷を執行する役回りである。天気・方角・日時などの吉凶も占った。

川田神社の前身は大川寺(おおかわじ)という。川田氏の菩提寺だ。ここには勝軍地蔵なる像が安置されていた。この像は川田義朗をかたどったものである。大川寺は明治の初めに廃される。その跡地に川田神社が創建され、勝軍地蔵を御神体として祀るようになった。

 

 

 

 

 

川田義朗の人物像

島津家では戦いの際に軍配者を置いた。16世紀半ばまでは伊集院忠朗(いじゅういんただあき)がその任にあたった。『本藩人物誌』によると、天文8年(1539年)の市来城(いちきじょう、鹿児島県日置市東市来)攻め、天文23年(1554年)の岩剣城(いわつるぎじょう、鹿児島県姶良市平松)攻めの際に、軍配者として伊集院忠朗の働きが記されている。

川田義朗は伊集院忠朗を師とし、兵法と軍配者としての奥義を習得した。さらなる霊力を得るために、25歳のときに不犯の誓いをたてたという。そして伊集院忠朗から島津家の軍配者の任を引き継いだ。

永禄10年(1567年)に島津貴久は大隅国菱刈(ひしかり、鹿児島県伊佐市菱刈)に侵攻。その緒戦の馬越城(まごしじょう)を攻め落とした際に、川田義朗が「血祭」の儀式を行った。これが、川田義朗の軍配者としての最初の記録と思われる。勝利の勝吐気(勝鬨)とともに、戦没者を供養して祟らぬよう祓った。

 

その後の軍配者としてのおもな働きはつぎのとおり。

天正4年(1576年)/日向国高原(たかはる)攻め
天正6年(1578年)/高城川の戦い(耳川の戦い)
天正9年(1581年)/肥後国水俣(みなまた)攻め
天正12年(1584年)/沖田畷の戦い
天正13年(1585年)/阿蘇合戦
天正14年~15年/豊後侵攻、豊臣軍との戦い

 

沖田畷の戦いでは「今日ノ兵気ハ大将軍ヲ得ルノ気アリ」と味方を鼓舞(『本藩人物誌』より)。数倍もの兵力で押し寄せてくる龍造寺軍を迎え撃ち、島津軍は勝利。当主の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)も討ち取った。

 

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天正15年(1587年)に島津義久は、関白の豊臣秀吉に降伏する。その直後に、病を得た豊臣秀吉のために川田義朗が病気平癒の祈祷を行ったとも(『本藩人物誌』より)。快復ののち、関白から太刀などの褒美を拝領したという。

また、全国の大社をめぐり、66部の妙典を奉納。島津家の長久を祈願した。

 

文禄4年(1595年)に川田義朗は没する。墓は大川寺に置かれた。

 

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川田神社(大川寺跡)

鹿児島県道211号から川田橋を渡って左折、または川田轟橋を渡って右折。山中の道に入っていく。川田橋方面から川田轟橋方面に道は抜ける。その中間地点のあたりに川田神社の参道口がある。神社横に車を停められるスペースもあった。

冬枯れの神社境内

参道口、石垣は大川寺のものか

 

参道をのぼるとすぐに鳥居。その先には社殿が見える。

質素な鳥居

川田神社の鳥居

古びた神社の建物

社殿

 

社殿には勝軍地蔵が納められているとのこと。実物を見ることはできなかった。

『郡山郷土史』に写真が掲載されていた。これによると、川田義朗が甲冑を身に着けて白馬にまたがっている。右手に錫杖を、左手に如意宝珠を持つ。毘沙門天と不動明王を従えた三尊像となっている。

 

社殿の前にあった石灯籠には文政7年(1824年)の紀年銘。大川寺にあったものだろう。

古い石灯籠

拝所脇にある

 

社殿に向かって境内の左側は墓地となっている。その墓地の奥のほうに、大川寺跡の遺構がある。仏塔や墓石が並ぶ。川田氏累代の墓や歴代住職の墓塔もある。

古い石塔や墓が並ぶ

大川寺の墓地

 

川田義朗の墓もここにある。

古い墓石

川田義明の墓



 

 

南方神社

川田神社と向いあわせにもう一社。南方神社である。川田神社は空がよく見えて開けていたが、こちらは鬱葱とした森の中。対照的な感じである。

森の中の参道

南方神社は陰が多い

木立の中に神社

南方神社の境内

 

もともとは諏訪大明神と呼ばれていた。場所も少し違っていた。川の対岸に川田城があり、かつてはその麓に鎮座していたという。

御祭神は積羽八重事代主神(ツミハヤエコトシロヌシノカミ)・建御名方富神(タケミナカタトミノカミ)・猿田彦神(サルタヒコノカミ)・底津綿津見神(ソコツワタツミノカミ)。

諏訪神社に大王神社・住吉神社が合祀され、現在の南方神社になったとのこと。

 

 

 

川田城跡

川田神社から川田川を渡った県道沿いに川田城跡がある。別名に馬越城とも。川田川が天然の水堀になっているような感じだ。

渓流のある風景

川田川

山城跡

川田城跡、県道沿いから

 

築城時期は不明。川田氏が代々居城にしたとされる。ちなみに初代の川田盛佐は13世頃の人物である。12代目となる川田義朗も、城を改修してここを本拠地とした。のちに川田義朗は大隅国垂水(たるみず、鹿児島県垂水市)の地頭に任じられ、川田の地を離れている。

 

山城跡の風景

ちょとのぼるとこんな感じ

 

文明17年(1485年)に川田城の戦いの記録がある。この前年に日向国櫛間(くしま、宮崎県串間市)領主の伊作久逸(いざくひさやす)が挙兵し、日向国飫肥(おび、宮崎県日南市)に侵攻した。この反乱に呼応する者は多く、薩摩国や大隅国でも大乱となる。

そん中で、豊州家(ほうしゅうけ、島津氏の分家)の島津忠廉(しまづただかど)が本宗家から離反する。豊州家は大隅国帖佐(ちょうさ、鹿児島県姶良市)を領する。島津忠廉は満家院(現在の鹿児島市郡山・川田・皆与志のあたり)に侵攻し、満家院領主の村田経安(むらたつねやす)を敗走させる。川田城にも攻めかかかるが、こちらは川田立昌(川田氏8代)がよく守る。落ちなかった。


16世紀前半には、守護の島津勝久(かつひさ)、薩州家(さっしゅうけ)の島津実久、相州家(そうしゅうけ)の島津貴久が覇権を争う。その中で満家院でもたびたび戦いがあった。この争いは島津貴久が制する。川田氏は早くから相州家に従っていたようである。

 

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比志島一族

川田氏は比志島(ひしじま)氏の一族である。

比志島氏は志田義広(しだよしひろ、源義広)の後裔を称する。名は義範(よしのり)とも、義憲とも。志田義広は源為義(みなもとのためよし)の三男。源義朝(よしとも)は兄、源頼朝は甥にあたる。

治承4年(1180年)に源頼朝が伊豆国(静岡県)で挙兵する。志田義広も常陸国信太荘(しだのしょう、現在の茨城県土浦市・牛久市・稲敷市のあたり)で兵を挙げる。のちに木曽義仲(源義仲)に合流した。元暦元年(1184年)、木曽義仲は源義経の軍勢と戦って敗死。志田義弘は逃亡するも、追討された。

 

信濃国(長野県)に志田義広の子があったという。名を志田頼重(村上頼重)といった。こちらは薩摩国に流されることになった。志田頼重は島津忠久(しまづただひさ、島津氏初代)の庇護のもと、満家院の比志島(鹿児島市皆与志)に住むことになった。

余談だが、信濃国には源姓の村上氏がある。志田頼重(村上頼重)はこちらと関わりがあったのだろうか? 

 

満家院の院司は大蔵(おおくら)氏であった。志田頼重は大蔵永平(名は「業平」とも「長平」とも「資宗」とも)の娘を妻にむかえ、子をもうける。

のちに、頼重は罪を許されて信濃国(現在の長野県)へ戻る。大蔵氏娘との子を満家院に残していった。その子は満家重賢と名乗り、母である大蔵氏娘から満家院のうち比志島・西俣・城前田・上原園を継承する。さらに川田も得た。

 

その後、満家重賢は長男に比志島の地を任せ、こちらが比志島祐範(ひしじますけのり)と名乗った。比志島祐範には弟があり、それぞれ支配地から西俣氏・川田氏・前田氏・辺牟木氏を称した。ほか、小山田氏も同族である。

比志島氏の一族は、一貫して島津氏に従う。モンゴル軍との戦いに従軍し、南北朝争乱期でも名が見える。15世紀以降の歴史にも比志島一族はよく出てくる。島津本宗家の家老を務める者もあった。

 

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根っこは大蔵氏

志田頼重を祖とするなら、比志島一族は13世紀頃に始まるということになる。伝わっている系図が本当ならば、源氏の有力者の血を取り込んだ形になる。ただ、前述のとおり、もともとは大蔵氏である。

大蔵氏は東漢(やまとのあや)氏の後裔を称する。いつ頃から南九州にあるのかは不明だが、ものすごく古そうなのである。比志島氏も、その庶流の川田氏も根はかなり深いということに。

 

大蔵一族は大隅国桑原郡(くわはら、現在の鹿児島県姶良市のあたり)・薩摩国日置郡(ひおき、鹿児島県日置市・いちき串木野市・鹿児島市郡山のあたり)・薩摩国祁答院(けどういん、鹿児島県薩摩郡さつま町のあたり)の郡司として名が出てくる。ちなみに満家院は日置郡のうちにある。領地にちなんで加治木(かじき)・市来(いちき)を名乗る者もあった。

ちなみに市来氏の祖は宝亀年間(770年~781年)に下向したと伝わる、真偽のほどはわからないけど。

加治木氏については、寛弘三年(1006年)に藤原経平(関白の息子とされる)が加治木に配流されてきたのが始まりしている。大蔵氏の女性が藤原経平の世話をし、やがて夫婦となり、子を設けた。その子が加治木氏の祖と伝わるのだが、それ以前から大蔵氏が土着していたこともうかがえる。なお、満家院の大蔵氏は加治木氏から分かれた。

市来氏も加治木氏も比志島氏も本姓を変えているのも興味深い。市来氏は惟宗姓。加治木氏は藤原姓。そして、比志島氏は源姓である。

 

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<参考資料>
鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1973年

鹿児島県史料集50『西藩烈士干城録 二』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 2011年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『郡山郷土史』
編/郡山郷土誌編纂委員会 発行/鹿児島市教育委員会 2006年

ほか