鹿児島県日置市吹上町中原・湯之浦のあたりは、かつての薩摩国伊作(いざく)のうち。この地は島津一族の伊作氏が領していた。そして、戦国島津氏の源流は伊作氏にあったりもする。
伊作城の麓の湯之浦には、如意山願成就寺海蔵院(にょいざんがんじょうじゅじかいぞういん)という大きな寺院があった。島津忠良(しまづひさなが)は幼少期にここで学んだ。海蔵院は明治の初めに廃寺となる。現在は石塔類が残る。
如意山願成就寺海蔵院
応永5年(1398年)に伊作久義が創建したと伝わる。伊作久義は伊作氏の4代目にあたる。真言宗で、鹿児島の経圍山宝成就寺大乗院(鹿児島市稲荷町)の末。本尊は阿弥陀如来。
『三国名勝図会』によると、同書が編纂された19世紀には坊舎が二つ残るだけだったが、当初は12の坊舎があったという。吹上中原の大汝牟遅神社(おおなむちじんじゃ)の別当寺とも。また、絵図も掲載されている。

『三国名勝図会』についてはこちらの記事にて。
廃仏毀釈により、寺院の建物はことごとく破壊されている。現在は、仁王門の痕跡や参道の地形を見ることができる。伽藍跡はほとんど残っていない。寺院併設の諏方社は南方神社と社号を変えて残る。
島津忠良と海蔵院
弘安4年(1281年)、島津久経(しまづひさつね、島津氏3代)は次男の薬寿丸に薩摩国伊作荘を譲る。薬寿丸は元服して島津久長(ひさなが)と名乗る。この人物が伊作氏の祖となる。島津久長は兄の島津忠宗(ただむね、島津氏4代)を助け、元寇の頃の海岸防備の任に当主の代理であたったりもしている。島津氏の次男家とも言える位置づけで、一族の中でもでも大きな影響力を持っていた。
しかし、15世紀に内紛もあって没落する。一時は所領をすべて失ったりもしている。そして、伊作氏7代当主の伊作犬安丸は長禄2年12月(1459年1月)に早世。跡継ぎが不在となり、島津忠国(ただくに、島津氏9代)の三男の亀房丸が家督をついだ。亀房丸は長じて伊作久逸(いざくひさやす)と名乗る。
伊作久逸は島津立久(たつひさ、島津氏10代)の同母弟(母は新納忠臣の娘)でもあり、重用された。しかし、島津忠昌(ただまさ、島津氏11代)に代替わりすると反乱を起こしたりと、混乱を招く存在でもあった。島津忠良はこの伊作久逸の孫である。
島津忠良は幼名を菊三郎といった。父は伊作善久(よしひさ)。母は新納是久の娘で、「常盤」という名も伝わっている。伊作氏では不幸が続く。明応3年(1494年)に伊作善久が馬丁に殺害される。さらに、明応9年(1500年)に伊作久逸が戦死。菊三郎はまだ幼い。その後、菊三郎の母(新納是久の娘)は相州家の島津運久(ゆきひさ)と再婚。のちに菊三郎はその後継者となり、相州家と伊作氏をあわせて相続することになる。伊作氏は相州家に吸収された。
相州家は島津忠国の長男の島津友久(ともひさ)にはじまる。伊作の隣りの阿多・高橋・田布施(いずれも南九州市金峰町)を領する。島津友久の母は伊作氏の出身。また、伊作久逸の異母兄でもある。島津友久の子が島津運久で、菊三郎は島津運久にとっては従兄弟甥にあたる。
菊三郎は、明応7年(1498年)2月15日に海蔵院に預けられた。ここで少年時代を過ごし、住持の頼増和尚より学問を授けられたという。
その後、相州家の当主となった島津忠良は、本家筋の奥州家より惣領の座を奪い、嫡男の島津貴久が島津氏15代当主に数えられる。戦国大名としての島津氏へとつながる。
伊作氏や伊作城の詳細はこちら。
仁王像と森の中の石塔群と
海蔵院跡は伊作城跡の南側に位置する。鹿児島県道22号沿いに案内の看板が出ているので、そこから筋へ入っていく。それほど迷わずにたどり着ける。
一対の仁王像が出迎える。鳥居は南方神社のもの。『三国名勝図会』の絵図に書かれている「仁王門」にあたる。



参道を奥へ行くと、「海蔵院之跡」碑がある。広場があって、駐車もできる。

記念碑のあるところから森の中へ。石塔がたくさんある。海蔵院の歴代住持の墓塔などが並ぶ。

手前は法印頼安の墓。元禄11年(1698年)寂。その隣りに月輪塔。

正保4年(1647年)の十三仏供養碑と、天文17年(1548年)の八万四千本読誦碑。

石塔群。現地看板では逆修供養塔と説明されている。


南方神社(諏訪神社)
参道は森の奥へと続き、ここに南方神社が鎮座する。旧称を諏訪神社という。神社のほうは廃仏毀釈の影響をあまり受けていない。昔の風景が残っている。

『三国名勝図会』によると、島津忠良が勧請したとされる。出典元は『海蔵院由来記』とのこと。「加世田城を攻め給ふ時、誓願の故事として、正祭には流鏑馬ありしが、今はなし、農民金鼓を鳴らして踊りをなす」とあり。正祭は7月28日。なお、現在も8月に「伊作太鼓踊り」が奉納されている。
天文7年12月18日(1539年1月)島津忠良(相州家)は益山諏訪原(南さつま市加世田益山)に陣取って加世田城を攻める。不意を突かれて敗走し島津忠良は諏訪大明神の祠の中に隠れて難を逃れた。「加世田城を攻め給ふ時」というのはこの戦いのこと。
また、鹿児島神社庁の情報によると、伊作氏初代の島津久長の頃からあったとも。創建については諸説あり。
境内には大きなイチョウの木がある。紅葉の季節はすごくきれいだ。

社殿も立派な造りだ。

社殿の向かって左側には稲荷神社もある。もともとは伊作城の西城にあったもので、島津貴久の時代にこちらへ移したという。

御祭神は事代主命(コトシロヌシノミコト)・建御名方命(タケミナカタノミコト)など。ほか合祀の神々。明治41年(1908年)に菅原神社を、明治42年に鎮守神社・新宮神社、明治43年に住吉神社・大山積神社が合祀されている。
<参考資料>
『三国名勝図会』
編/橋口兼古・五代秀尭・橋口兼柄・五代友古 出版/山本盛秀 1905年
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年
鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 諸氏系譜三』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 1992年
ほか