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薩摩市来の御霊神社、祀るのは八大怨霊、あるいは鎌倉景正か

御霊神社(ごりょうじんじゃ)が鹿児島県いちき串木野市大里に鎮座する。かつての薩摩国日置郡の市来院大里(いちきいんおおさと)のうち。

丹後局(たんごのつぼね)がこの地に移り住んだという伝説がある。丹後局は島津氏初代の島津忠久(しまづただひさ)の母とされる人物だ。市来には丹後局が勧請したと伝わる神社七つあり、御霊神社もそのうちの一つに数えられる。

 

 

八大怨霊、あるいは鎌倉景正

御祭神は早良親王(さわらしんのう、崇道天皇)・伊豫親王(いよしんのう)、藤原大夫人(藤原吉子、ふじわらのきっし)・文室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ)・橘逸勢(たちばなのはやなり)・藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)・吉備大臣(吉備真備、きびのまきび)・火雷神(ほのいかづちのかみ)。「八大怨霊」とされる。御霊信仰と関わりのある神社だ。

御霊信仰は、恨みを残してこの世を去り、怨霊化した者たちを祀る。怨霊が災厄を招くとされ、怨霊を鎮めることで災厄を避けようとするものである。

また、御祭神を鎌倉権五郎影政(鎌倉景正、かまくらかげまさ)ともしている。鎌倉景正(鎌倉景政)は後三年の役(永保3年~寛治元年/1083年~1087年)で片目を射られながらも奮戦した、という伝説を持つ。鎌倉氏は坂東平氏の一つ。相模国鎌倉(神奈川県鎌倉市のあたり)を領したことが名乗りの由来だ。同族には梶原(かじわら)氏・大庭(おおば)氏・村岡(むらおか)氏・長尾(ながお)氏も。

鎌倉市坂ノ下には御霊神社がある。権五郎神社(ごんごろうじんじゃ)とも呼ばれる。当初は「五霊神社」と称していたとも。もともとは鎌倉党五氏(鎌倉氏・梶原氏・大庭氏・村岡氏・長尾氏)の祖霊を祀るものであったようだ。のちに御祭神が鎌倉権五郎影政の一柱にまとめられた。鎌倉のあたりには、御霊神社の分社と思われるものも多い。

市来の御霊神社は鎌倉権五郎影政を祀るものであった、と個人的には推測している。御霊信仰はのちに習合したのではないだろうか。

 

 

丹後局が勧請?

建仁3年(1203年)に丹後局が薩摩国に入国した際に、鎌倉から七社を勧請したとされる。鶴岡八幡宮・御大明神社(御霊神社)・今熊野権現社・産湯稲荷大明神社・包宮大明神社・日吉山王社・安楽権現社がそれであるという。市来大里の鍋ヶ城に丹後局は住んだとされ、七社はその鍋ヶ城の周辺に鎮座する。

この伝説の真偽はなんとも言えないところである。ただ、御大明神社(御霊神社)については、鎌倉から勧請したものである可能性は高いと思う。

 

天文18年(1549年)に島津貴久が再興したとも。それ以前は、御霊神社は荒廃していたのだろうか。丹後局の伝説は後付けのような印象もあるのだが、どうだろうか?

 

市来の鶴岡八幡宮(鶴ヶ岡八幡神社)についても記事あり。

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市来湯田の稲荷神社も丹後局の勧請と伝わる。

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山中にひっそりと

道路沿いに鳥居と「村社御霊神社」の石柱がある。ここから参道が続き、山の中へと石段が続いている。

ただ、この周辺には車を停める場所がない。じつは、境内の北側に境内へと続く山道がある。こちらから入っていくと、境内に直接入れる。境内脇に車を停められるスペースもある。

 

境内に車を停めて、とりあえず参道口のほうへ下りてみる。道路沿いにあるのが一の鳥居か。

 

御霊神社の入口

参道口、たぶん一の鳥居

 

参道を奥へ、石段を登ると二つ目の鳥居が見えてくる。

 

御霊神社の参道

石段が続く

 

こちらの鳥居の前には仁王像。銘から宝暦3年(1753年)に建立されたものであることがわかる。廃仏毀釈の影響は見られず、壊されずにきれいな状態だ。

 

鳥居と仁王像

参道の途中に二つ目の鳥居

 

鳥居の前に

仁王像が守る

 

仁王像も銘

背面の「寶暦三年」とあり

 

石段はさらに上へと続く。三つ目の鳥居も見える。

 

御霊神社の参道

さらに登る

 

最上段は祭壇上になっている。この上に社殿がある。鳥居の額には島津家の「丸に十」の紋。島津家から大事にされていることがうかがえる。

 

御霊神社の境内

三つ目の鳥居をくぐって

 

御霊神社の鳥居

島津家の家紋も

 

御霊神社の社殿

拝殿

 

御霊神社

社殿はなかなか立派、奥に本殿

 

境内は深い森の中にあるような感じ。なかなかの雰囲気である。

 

 

酒匂氏と関わりがあるかも?

丹後局の伝説は信憑性が薄いように思う。御領神社を薩摩に持ち込んだのは、それこそ鎌倉氏の一族なんじゃないか? という気もしている。

じつは、鎌倉氏は薩摩にけっこう入ってきている。島津氏の重臣に酒匂(さこう)氏は鎌倉党の梶原氏の一族である。酒匂氏は相模国足柄郡酒匂(さかわ、神奈川県小田原市酒匂)を本貫とする。酒匂景貞は島津忠久に仕えた。島津忠久は文治2年(1186年)に薩摩国に下向したとされ、酒匂景貞も随行したと伝わる。ただ、島津忠久は薩摩国の守護・地頭に任命されたものの、本人は鎌倉にあって任地の運営は家臣に任せたと考えられる。つまり、前述の薩摩下向は酒匂景貞ら家臣が入国したものだと考えるのが妥当だ。酒匂氏は薩国国の守護代を任されたとも。

 

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建久8年(1197年)の『薩摩国図田帳』によると、市来院の地頭は「右衛門兵衛尉」とある。島津忠久のことである。薩摩国の領国経営を任された酒匂氏が、祖霊を祀る御霊神社を勧請した可能性はあるんじゃないかと思う。

あくまでも、個人的な想像ではあるが。


ちなみに、薩摩国日置郡には鎌倉権五郎景政を祀る神社がもう一つある。吉利(よしとし、鹿児島県日置市日吉町吉利)に鎮座する吉利神社である。こちらも市来の御陵神社と同系統のものなのかもしれない。

 

 

丹後局の伝説残る神社はほかにも。

 

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<参考資料>

『市来町郷土史』
発行/市来町教育会 1941年

『古文書と石塔をたずねて おおさと編』
著/徳永律 1981年

『三国名勝図会』
編/橋口兼古・五代秀尭・橋口兼柄・五代友古 出版/山本盛秀 1905年

ほか