ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

串木野城(亀ヶ城)は名将と縁あり、島津家久とか島津豊久とか山田有信とか川上久朗とか

串木野城(くしきのじょう)跡は鹿児島県いちき串木野市麓にある。別名に亀ヶ城とも。かつての薩摩国日置郡串木野(櫛木野)のうち。13世紀初め頃に串木野忠道(くしきのただみち)により築かれたとされる。その後、南北朝争乱期に島津氏の支配下となる。

永禄13年(1570年)には島津家久(しまづいえひさ)が城主となり、その嫡男の島津豊久(とよひさ)もこの城で誕生した。ほかにも、川上久朗(かわかみひさあき)・川上忠智(ただとも)・山田有信(やまだありのぶ)なども串木野城と縁があったりもする。

なお、日付は旧暦にて記す。

 

 

 

串木野麓から串木野城跡へ

江戸時代の島津氏の領内にはあちこちに「外城(とじょう)」というものが設けられた。外城は「麓(ふもと)」とも呼ばれる。これは武士団の集落である。山城跡の麓に武家町が形成され、地方統治の拠点とした。外城(麓)は戦争に備えたつくりにもなっている。戦時には山城跡にたてこもることが想定されている。

串木野城跡のまわりにも外城(麓)が形成された。「串木野麓」という。現在は宅地開発がすすんではいるものの、麓の痕跡がいくらか残っている。

 

串木野麓には観光用の駐車場がある。車をここに停めて串木野城の散策に向かう。駐車場近くの辻に「串木野城跡」の標柱も。ここは長谷場純孝の誕生地でもある。

 

串木野城の標柱

ここから坂をのぼる

 

標柱のあるところからちょっと登っていくと、石塀がある。ここが串木野城の外曲輪の壁にあたる。江戸時代に地頭仮屋(地方の役所)が置かれた場所でもある。ちなみに、こちらの石垣は明治30年(1897年)頃のもの。

 

古い石垣

石塀のあるところが外曲輪

 

串木野城の登山口は、石塀を正面に見て右側のほうになる。ちょっと登っていくと白い標柱がある。

 

串木野城跡

見上げたところも曲輪跡

 

串木野城跡

道路沿いに登城口

 

登山口から踏み入る。山城らしい雰囲気がよく残っている。

串木野城跡

きれいに整備されているぞ

 

串木野城跡

空堀跡

 

串木野城跡

曲輪跡に登る

 

串木野城跡

土塁

 

串木野城跡

虎口の形状が残る

 

城域の一部が散策できる。奥のほうに空堀や曲輪が見えたが、倒れた竹が折り重なって入っていけなさそうな雰囲気だった。無理をせず、きれいに整備されているところのみを回った。

 

 

南方神社、島津義久が歌を奉納

登山口のほうに戻る。こちらの道路は空堀を通っている。道路を挟んで南方神社(みなかたじんじゃ)がある。こちらも串木野城跡の曲輪である。

 

串木野城跡

ここも空堀跡


南方神社は、旧称を諏方上下大明神社という。創建年代は不詳。神社の御由緒書きによると、御祭神は建御名方命(タケミナカタノミコト)と八坂刀売命(ヤサカトメノミコト)。なお、『三国名勝図会』ではすこしちがっていて、上宮を建御名方命(タケミナカタノミコト)、下宮を事代主命(コトシロヌシノミコト)としている。

 

南方神社

参道口

 

南方神社

石段の上から

 

曲輪の上は平坦の地形に。ここに社殿がある。

 

南方神社

曲輪の上に

 

天正20年(1592年)5月23日に島津義久(しまづよしひさ)が参詣して、歌を奉納したという。

 

夕涼み御山おろしにさそはれて

繋ぎし船の出るみなとに

 

島津義久は、豊臣秀吉の命令で肥前国名護屋に参陣する。その際に串木野に立ち寄った。こちらの歌は船出のための順風を祈願してのものである。

 

 

串木野氏

『頂峯院文書』に承久2年(1220年)の串木野領主として平忠道が確認できる(史料は『旧記雑録 前編一』に収録)。この平忠道は「串木野三郎忠道」と称した。この串木野忠道が串木野城を築いたとされる。

 

串木野忠道は薩摩平氏の一族である。薩摩平氏は平良道(伊作良道)が薩摩国に下向したのが始まりとされ、その子や孫が薩摩国中南部の広範囲に所領を持った。具体的には河邊(かわなべ)・阿多(あた)・加世田別府(かせだべっぷ)・知覧(ちらん)。頴娃(えい)・給黎(きいれ)・揖宿(いぶすき)・谷山(たにやま)・鹿児島(かごしま)・薩摩(さつま)・串木野(くしきの)・多禰(たね)など。各地の領主となった一族のものが、その土地を名乗りとしている。

串木野氏の系譜は、伊作良道→頴娃忠永→薩摩忠直→串木野忠道。頴娃氏からわかれた薩摩氏からさらにわかれて串木野氏に、という感じである。

 

14世紀半ばの南北朝争乱期に突入した頃の領主は串木野七郎忠秋であった。薩摩平氏はこぞって南朝方についた。串木野忠秋もそうであった。薩摩国守護の島津貞久(しまづさだひさ、島津氏5代)は足利尊氏から薩摩国の平定を任される(こっちは北朝方に)。薩摩平氏は島津氏と激しく争うことになる。

当初、島津貞久は山門院の木牟礼城(きのむれじょう、鹿児島県出水市高尾野)を拠点としていた。暦応2年・延元4年(1339年)頃には薩摩郡平佐の碇山城(いかりやまじょう、鹿児島県薩摩川内市天辰町)に拠点を移している。薩摩国の南朝方の攻略のためであろう。串木野は碇山城から10kmほど南に位置する。対島津氏の南朝方の最前線であった。串木野は激戦地となった。

暦応3年・興国元年(1340年)8月に島津貞久は市来院(いちきいん)の市来城(鹿児島県日置市東市来)を攻め、市来氏を降伏させる。また伊集院(日置市伊集院)や加世田別府(鹿児島県南さつま市加世田)なども攻略する。康永元年・興国3年(1342年)頃に串木野も島津氏に攻略されたと推測されている。串木野忠秋は知覧(ちらん、鹿児島県南九州市知覧)に逃れたという、知覧氏(こちらも薩摩平氏)を頼って。

串木野氏は領主の地位を失い、串木野は島津氏の支配下に入る。


串木野麓の大堂庵墓地(寺院跡)には「串木野氏の墓」とされる大きな五輪塔がある。寺院跡から続く畑の一角に五輪塔の破片があったという。この破片は串木野氏歴代の墓塔のものとされる。この「串木野氏の墓」は、これらの破片から組み上げられたもの。

 

串木野氏

「串木野氏の墓」

 

串木野氏

五輪塔

 

 

川上氏支族(川上忠塞の一族)

15世紀後半に川上忠塞が島津立久(たつひさ、島津氏10代)から串木野を拝領し、串木野城に入ったとされる。名前は「ちゅうさい」と呼ばれたりもする。ただ、正確な読みはわからない。おそらくは「ただ〇〇」だろう。「塞」の字から推測すると、「ただたか」とか「ただなり」とか「ただもり」とか「ただもと」とか……そんなような感じかな? と。

川上氏は、島津貞久の庶長子の島津頼久(よりひさ)を祖とする。2代目にあたる島津親久が薩摩郡の川上(鹿児島市川上町)を拝領し、「川上」を家号としたとされる。また、『川上氏正統系図』には6代目の川上行久が川上は拝領して「川上」を称したとも。川上忠塞は5代目の川上兼久の三男。川上行久の弟にあたる。

ちなみに島津頼久(川上頼久)は、南北朝争乱期の薩摩での戦いで島津方の指揮をとった。延元2年・建武4年(1337年)に市来城を攻めた際に、串木野の薩摩山に軍勢を出したという記録もある。

 

 

川上忠克

16世紀に入り、川上忠克(ただかつ)が串木野を領した。この人物は川上忠塞の曾孫にあたる。この頃の島津氏は、守護を世襲する惣領家の奥州家(おうしゅうけ)と、分家の薩州家(さっしゅうけ)と相州家(そうしゅうけ)が覇権を争っていた。そんななかで、川上忠克は薩州家につく。

大永7年(1527年)に相州家の島津忠良(ただよし)が実権を握る。奥州家の島津忠兼(ただかね、のちに島津勝久に改名)を隠居させ(追放し)、島津貴久(たかひさ、忠良の子)が惣領の座につく。しかし、薩州家が鹿児島を急襲してこれ覆す。薩州家は前当主の島津忠兼に使者を送って復帰の説得をする。その使者にたったのが川上忠克だった。島津忠兼は鹿児島に戻り、薩州家の支援を受けながら政権運営をすすめた。

川上忠克はその後も薩州家の島津実久(さねひさ)与党として活動する。天文4年(1535年)に島津勝久は島津実久との関係が悪化。このときに島津勝久が国家老の川上昌久(まさひさ、こちらは川上氏嫡流)を自害に追い込む事件があった。川上忠克も命を狙われるが、島津実久が助けたという。

天文8年(1539年)、島津貴久(相州家)は串木野城を攻める。川上忠克はよく守るも、降伏勧告を受け入れて開城した。その後、川上忠克は島津貴久に降る。甑島へ流されたあとに3年で戻され、島津貴久の家老になる。所領は薩摩国谷山(たにやま、鹿児島市の谷山地区)を拝領したと思われる。没年は不明。

 

 

川上久朗

川上忠克のあとは次男の川上久朗(ひさあき)が継ぐ。天文22年(1553年)に16歳(数えで18歳)の若さで谷山地頭に任じられ、また、島津義久(よしひさ、貴久の嫡男)の家老にも抜擢される。この頃、島津義久は20歳くらいで、すでに島津貴久の後継者として扱われている。川上久朗は若き次期当主の腹心としての役割が期待されていたことがうかがえる。

川上久朗は島津家の「看経所四名臣」の一人にも数えられている。その顔ぶれは川上久朗・新納忠元(にいろただもと)・鎌田政年(かまだまさとし)・肝付兼盛(きもつきかねもり)である。島津忠良が「島津家不可無此四人(島津家になくてはならない4人)」として看経所の壁に名前を貼っていたという。

天文23年(1554年)からの大隅合戦、永禄4年(1561年)の廻城の戦いなどに従軍。七尺三寸(2m以上!?)の大太刀を振って活躍したとも。

永禄11年(1568年)、川上久朗は若くして没することになる。島津氏は薩摩国大口・大隅国菱刈(鹿児島県伊佐市)で、菱刈氏・相良氏と交戦していた。この年の1月20日、島津忠平(ただひら、島津義弘、島津貴久の次男)が大口羽月に寡兵で攻めかかるが、大軍に囲まれて敗走する。このときに川上久朗は羽月川の飛田瀬に踏みとどまって奮戦。島津忠平(島津義弘)は窮地を脱した。この戦いで川上久朗は重傷を負い、2月3日に馬越城で亡くなった。

 

 

川上久辰

菱刈で没した川上久朗は9歳の嫡男を残す。長じて川上久辰(ひさとき)と名乗り、川上家は引き続き谷山地頭を務めた。

天正元年(1573年)、川上久辰は大隅の戦いで初陣を飾る。天正4年(1576年)の日向の伊東氏攻め、天正6年(1578)の日向国新納院石城の戦いや高城川の戦い(耳川の戦い)などに従軍。天正8年(1580)には肥後国にも出陣していて、このときには家老になっている。

天正20年(1592年)より島津義弘に従って朝鮮に出陣。慶長3年(1598年)の泗川の戦いでは島津義弘の近くで奮戦し、「むかし菱刈で久朗に助けられた、そして今は久辰がここにいる」と賞されたとも。その後、露梁海戦でも奮戦。頭に投石が命中して重傷を負うが、島津義弘の治療で一命をとりとめたという。

寛永5年12月28日(1629年1月)没。享年70。

この一族はその後も家老を出すなど、江戸時代に藩の重職を担った。

 

 

川上忠智

川上忠塞三男の川上忠興(ただおき)から続く家系も戦国時代に活躍する。川上忠興の嫡男は川上忠智(ただとも)という。

川上忠智は島津忠平(島津義弘)の家老を務めた。元亀3年(1572年)5月、伊東氏の軍勢が日向国真幸院の島津氏領内に進攻する。このとき川上忠智は加久藤城(かくとうじょう、宮崎県えびの市小田)の守りを任されていた。夜襲を受けるもわずかな城兵で守り切り、敵軍を撤退させる。そして、そのことが木崎原の戦いの勝利へとつながった。

おもに島津忠平(島津義弘)に従って各地を転戦する。また、天正12年(1584年)の島原合戦(沖田畷の戦い)には息子たちとともに出陣。川上親子は勝利に貢献する。

慶長12年(1607年)没。

 

 

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川上忠堅

川上忠堅(ただかた)は川上忠智の嫡男。

天正12年(1584年)の島原合戦(沖田畷の戦い)に父とともに出陣する。島津氏は有馬氏の支援要請に応えて、島津家久(いえひさ、島津貴久の四男)を総大将として派遣していた。

龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)は大軍勢を率いて押し寄せた。これに対して島津家久は突撃を敢行し、乱戦の中で龍造寺隆信を討ち取る。大将を失った龍造寺軍は総崩れとなった。この戦いで龍造寺隆信を討ったのが川上忠堅だった。

天正14年(1586年)、島津氏は肥前国の鷹取城(たかとりじょう、佐賀県鳥栖市)を攻めた。この戦いで川上忠堅は戦死した。

 

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川上忠兄

川上忠兄(ただえ)は川上忠智の次男である。当初は愛甲(あいこう)氏に養子に入っていたが、兄が戦死したために川上忠智のあとを継ぐ。

父・兄とともに天正12年(1584年)の島原合戦(沖田畷の戦い)に従軍する。

島津氏が豊臣秀吉に降伏したあと、島津義弘は飯野城(いいのじょう、宮崎県えびの市原田)で抗戦の構えを見せた。このときに川上忠兄は三山城(みつやまじょう、宮崎県小林市)の守りについた。島津義弘が降伏に応じると、川上忠兄も従った。

島津義弘に従って朝鮮にも出陣。泗川の戦いや露領海線で活躍した。帰国後の慶長4年(1599年)には島津義弘の家老になる。

慶長5年(1600年)、島津義弘の檄に応じて国許から手勢を率いて上京する。そして、関ヶ原で戦うことになる。撤退戦(島津の退き口)では、使者として徳川家康の本陣へ。帰国後に申し開きをすることを伝えて退却した。

撤退戦では踏みとどまって戦い、時間を稼いだとされる。「小返しの五本鑓」の一人に数えられている。川上忠兄は戦場を離脱したあと本隊とはぐれるも、生還を果たしている。

元和8年(1622年)没。

 

 

川上久智

川上久智(ひさとも)は川上忠智の三男。叔父の川上忠里の養子となり、こちらの家督を継ぐ。

天正14年(1586年)の戸次川の戦いに従軍。朝鮮にも出陣し、兄の川上忠兄とともに奮戦した。

慶長4年(1599年)より、島津義弘のお供として京の伏見に滞在した。そして、翌年の関ヶ原の戦いに従軍する。撤退戦(島津の退き口)で奮戦し、「小返しの五本鑓」に数えられている。

没年は不明。病死であったという。

 

 

川上久林

川上久林(ひさしげ)は川上忠堅の嫡男。島津義弘に従って朝鮮に出陣。これが初陣だろうか。関ヶ原の戦いに従軍。二人の叔父とともに、こちらも「小返しの五本鑓」の一人だ。

 

川上忠兄・川上久智・川上久林については、こちらの記事でも

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山田氏(平姓)

島津氏の配下の山田氏には二つの系統がある。一つは島津一族の山田氏、もう一つは平姓の山田氏だ。串木野城と関わりがあるのは平姓山田氏のほうだ。こちらは「有」を通字とする。

山田氏は関東武士の武蔵有国を祖とする。武蔵氏は島津忠久に仕えて、薩摩国に下向する。日置郡山田(鹿児島県日吉町山田)を拝領したことから「山田」を名乗りとした。

16世紀に相州家と薩州家が争うようになると、山田有親(やまだありちか)は薩州家方についていたが、天文2年(1533年)に島津忠良(相州家)に降る。その後、二心ありと山田有親は疑われ、切腹を命じられた。このことを島津忠良は後悔し、山田有親の遺児に改めて山田の地を与えた。この遺児は長じて、山田有徳(ありのり)と名乗る。

山田有徳は天文23年(1554年)からの大隅合戦などで活躍。その功からく串木野や市来の地頭を任された。串木野城に入り、薩摩中北部の渋谷一族に睨みをきかせた。

 

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山田有信

山田有徳のあとは嫡男の山田有信(やまだありのぶ)が継いだ。本領の山田のほか、串木野や隈之城などの地頭を父から引き継いだ。

山田有信は若い頃から島津貴久・島津義久の側近くに仕えた。将来を期待されていたっぽい。天正4年(1576年)の日向高原攻めでは、島津義久本隊と行動を共にする。伊東氏が日向国から逃亡すると、新納院高城(にいろいんたかじょう、宮崎県児湯郡木城町)の守りを任された。

天正6年(1578年)、豊後国の大友義鎮(おおともよししげ、大友宗麟、そうりん)・大友義統(よしむね、義鎮の嫡男)が日向国に侵攻する。同年秋に大友軍は大軍で新納院高城を囲んだ。山田有信の守る城には島津家久も入城。合計3000ほどの兵で抗戦し、落とさせなかった。

その後、島津義久が国許より軍勢を発し、城下の高城川原で決戦となる。山田有信らが城を死守したことが、高城川の戦い(耳川の戦い)の大勝利につながった。

その後も、山田有信は新納院高城の城主を務めた。島津氏の九州攻略戦を転戦する。豊後攻めでは島津家久に従って活躍する。

天正15年(1587年)、豊臣秀吉が九州に大軍勢を送り込む。豊後まで侵攻していた島津方は敗走する。同年4月6日、豊臣秀長が率いる10万余の軍勢が新納院高城を包囲した。山田有信か寡兵ながらも落とさせなかった。4月17日に島津方は根白坂で決戦に挑むも大敗する。その後、島津義久は降伏した。

それでも山田有信は降伏せず。島津義久の説得にようやく折れて開城した。このときに嫡男(のちの山田有栄)を人質に出している。

豊臣秀吉は山田有信の戦いぶりを高く評価し、天草に所領を与えて大名に取り立てたい、と言ってくる。山田有信をこれを断る。その後、所領を召し上げられ、3年間にわたって蟄居した。

天正18年頃に山田有信は家老に任じられる。また、大隅国福山(ふくやま、鹿児島県霧島市福山町)の地頭を務めた。その後も島津義久の側近くに仕えた。慶長4年(1599年)の庄内の乱にも出陣している。

慶長14年(1609年)6月14日に没。

 

 

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山田有栄

山田有栄(ありなが)は山田有信の嫡男。法号の「昌巌(しょうがん)」もよく知られている。

新納院高城の開城にともない、人質に出される。桑山重晴の預かりとなる。文禄4年(1595年)に朝鮮へ出征し、島津忠恒(ただつね、島津義弘の子)の陣に加わる。慶長4年(1599年)の庄内の乱にも従軍した。

慶長5年(1600年)に上方に争乱の気配があり、伏見にあった島津義弘が国許に援兵を募った。山田有栄はこれに応じて手勢を率いて上京。9月13日に美濃国大垣(岐阜県大垣市)にて島津義弘に合流した。そして、9月15日に関ヶ原へ。

関ヶ原の撤退戦(島津の退き口)で奮戦し、国許までの長い長い逃避行に付き従い、島津義弘ともに生還した。

寛永6年(1629年)に薩摩国北辺の出水(いずみ、鹿児島県出水市)の地頭職を任された。また、寛永13年(1636年)に島津家久(島津忠恒から改名)より家老に任じられた。寛永14年の島原の乱には、藩主の名代として参陣した。

関ヶ原の戦いから68年後の寛文8年(1668年)に没。享年91。

 

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島津家久

永禄13年(1570年)、島津家久が串木野・隈之城の地頭に任じられた。島津家久は島津貴久の四男。通称は「中務大輔」。前年までの菱刈・大口の戦いで大活躍し、その功もあって所領が与えられたのだ。

島津家久は天正3年(1575年)に上京していて、『中務大輔家久公御上京日記』では串木野城を居城としていたことがわかる。

 

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串木野城下には「大中公廟」という石塔もある。大中公とは島津貴久のこと。かつて良福寺という寺院があり、島津家久が父の供養のために建立したものだ。もともとは別の場所にあったが、高速道路の整備にともなって現在地へ移設されている。

 

島津貴久の供養塔

大中公廟

 

大中公廟の前から串木野城跡をのぞむ。見えているところは神社のある曲輪の側面にあたる。

 

大中公廟の前から

串木野城跡を遠くから

 

島津家久は島津氏の勢力拡大において主力となる。元亀2年(1571年)からの大隅攻略戦、天正4年(1576年)の日向攻め、天正6年(1578年)の大友氏との戦い(高城川の戦い)での活躍は目覚ましい。

新納院高城が大友氏の大軍勢に囲まれると、手勢を率いて入城。城主の山田有信らとともに籠城戦を展開し、城を守り切った。そして、高城川の戦い(耳川の戦い)の大勝利を呼び込んだ。

島津氏が日向国を支配下に入れると、島津家久は佐土原(さどわら、宮崎市佐土原町)に入る。日向方面の司令官という立場になった。なお、串木野地頭には島津家久の後任として宮原景晴が入っている。

島津家久は島津氏の軍事の中核を担った。天正9年(1581年)の肥後水俣城(熊本県水俣市)攻めで先陣の大将を務めたり、天正12年(1584年)の島原合戦(沖田畷の戦い)では大将として渡海している。

島原合戦(沖田畷の戦い)においては、数倍もの大軍勢で攻めてきた龍造寺軍を撃破し、さらには龍造寺隆信も討ち取っている。この戦いで龍造寺氏は一気に勢いを失い、島津氏に従属している。

天正14年(1586年)からの豊後侵攻では日向方の大将を務める。戸次川の戦いでは豊臣軍の先鋒を相手に大勝している。

その後、島津家久は大友氏領内の攻略をすすめるが、そこに豊臣軍の本隊が襲来する。島津氏は敗走を余儀なくされた。島津家久は豊臣秀長の大軍勢に攻められ、独自に和睦交渉をまとめた。結果的には豊臣家直参の大名に取り立てられる。

しかし、天正15年(1587年)6月5日に島津家久は急死した。島津家久の所領はそのまま嫡男の島津忠豊(ただとよ、島津豊久、とよひさ)に安堵された。

 

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島津忠豊(島津豊久)

島津忠豊(島津豊久)は島津家久の嫡男。元亀元年(1570年)6月の生まれで、この年に父は串木野地頭になっている。串木野城は島津忠豊(島津豊久)が生まれ育った城でもあるのだ。

島津豊久のほうの名乗りがよく知られているが、じつは生涯のほとんどを島津忠豊と名乗っている。

初陣は天正12年(1584年)の島原合戦(沖田畷の戦い)。まだ元服前だった。島津家久は「息子に戦を見せておこうか」という感じで連れていったのだが、とんでもない戦いになってしまったのである。そして、この戦いのあとに元服する。

天正15年(1587年)に父が急死により家督を継承。日向国佐土原を領する大名となる。天正18年(1590年)には相模国小田原(神奈川県小田原市)に出陣した。

天正20年(1592年)、豊臣秀吉の命令で朝鮮に渡海する。同年11月には島津忠豊(島津豊久)が守る春川城(チョンチュンじょう、韓国チョンチュン市)が囲まれた。敵勢は6万、城兵はわずかに500ほどである。なんと、この戦いで大勝している。その後も、朝鮮で転戦して戦功を重ねていく。

慶長4年(1599年)2月、島津忠豊は朝鮮での功により「中務大輔」に任じられ、「侍従」に叙せられて公家成りした。

慶長4年(1599年)に庄内の乱に出陣。乱の終結のあと、慶長5年(1600年)5月に上京する。伏見で参勤のあとに大阪で帰国の準備をしていた……そのときに石田三成が挙兵する。島津豊久は伏見に戻って伯父の島津義弘と合流した。


慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原で決戦となる。撤退戦(島津の退き口)にて島津豊久は戦死する。

 

 

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<参考資料>
『串木野郷土史』
編/串木野市郷土史編集委員会 発行/串木野市教育委員会 1962年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

鹿児島県史料集50『西藩烈士干城録(一)』
編・発行/鹿児島県立図書館 2010年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 諸氏系譜二』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 1990年

鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 諸氏系譜三』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 1992年

鹿児島県史料『旧記雑録 前編一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1979年

鹿児島県史料『旧記雑録 前編二』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1980年

鹿児島県史料『旧記雑録 後編一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1981年

鹿児島県史料『旧記雑録 後編二』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1982年

鹿児島県史料『旧記雑録 後編三』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1983年

『島津史料集』 ※『征韓録』収録
校注/北川鐵三 発行/人物往来社 1966年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『中務大輔家久公上京日記』
翻刻/村井祐樹 発行/東京大学史料編纂所 2006年
※『東京大学史料編纂所研究紀要第16号』に収録

『関ヶ原 島津退き口 義弘と家康 知られざる秘史』
著/桐野作人 発行/株式会社ワニブックス 2022年

『島津家久・豊久父子と日向国』
著/新名一仁 発行/宮崎県立図書館 2017年

『戦国武将列伝11 九州編』
編/新名一仁 発行/戎光祥出版株式会社 2023年

『図説 中世島津氏 九州を席捲した名族のクロニクル』
編著/新名一仁 発行/戎光祥出版 2023年

『島津貴久 戦国大名島津氏の誕生』
著/新名一仁 発行/戒光祥出版 2017年

『「不屈の両殿」島津義久・義弘 関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』
著/新名一仁 発行/株式会社KADOKAWA 2021年

ほか