天正3年(1575年)、島津家久(いえひさ)は薩摩から上京する。旅日記が残っている。『中務大輔家久公御上京日記』または『家久君上京日記』と呼ばれるものである。こちらから旅程を追跡してみる。
島津家久は戦国島津氏の四兄弟の末っ子である。兄に島津義久(よしひさ)・島津義弘(よしひろ)・島津歳久(としひさ)がいる。
『中務大輔家久公御上京日記』についてはこちら。
原文は東京大学史料編纂所蔵本の翻刻より引用しました。
『中務大輔家久公御上京日記』(東京大学史料編纂所ホームページ)
出立は2月20日のことだった。2月23日に国境を越えて肥後国に入る。初回は旅の始まりのところを。
なお、日付については当時のもの(旧暦)。縦書きの「くの字点」(音を繰り返す)は「/\」で記す。
天正3年2月7日、上京が決まる
まずは旅の目的や旅支度について記される。
今度中務大輔家久上洛の事、薩隅日弓箭無隙時分、抽忠節、太主三州を治給ふ事、一篇に御神慮の徳無疑故、大神宮・愛宕山其外諸佛諸神為可遂参詣、天正三年貳月七日、屋形様御暇を申、同八日ニ於串木野町門出、自其支度様/\用意、廿日ニ旅行仕候事、(『中務大輔家久公御上京日記』より)
「中務大輔」というのは島津家久の通称。「太守」は兄の島津義久のこと。「薩摩・大隅・日向はずっと戦乱が続いていたけど、太守(島津義久)が三州を治めた」と。それは「神仏の加護があったからこそ」であり「伊勢の大神宮(伊勢神宮、三重県伊勢市)や嵯峨の愛宕山(京都市右京区)をはじめとする神仏に誰かを参詣させよう」となった。その役目が島津家久に命じられたのである。
2月7日に島津家久は屋形様(島津義久)から暇を出され、2月8日に薩摩国の串木野城(鹿児島県いちき串木野市麓)に戻った。串木野城は島津家久の居城である。そして旅支度をして20日に出立することになった。
天正2年(1574年)に島津義久は肝付兼亮を降伏させた。これにより大隅国全域を支配下に置く。また、日向国の伊東義祐は肝付氏と連携して島津氏を攻め立てていたが、伊東氏は元亀3年(1572年)の木崎原の戦いで大敗。この大敗と肝付氏の降伏を以て、伊東氏も勢いを失ってる。伊東氏が攻めてくる気配もなく、しばらくは戦のない時期が続いていた。それで、一族の誰かを上京させる、という余裕が島津氏にも生じていた。
島津義久は島津歳久(としひさ)・島津家久を上京させることにした。まずは島津家久が上京し、遅れて島津歳久が京へ向かう。なお、島津歳久の旅程については史料がなく、よくわかっていない。
島津家久の旅の目的は「神仏参詣」とされている。もちろん、道中は視察・情報収集も兼ねている。また、外交の目的もあったはずである。畿内で実権を握りつつあった織田信長との関係構築を図ろうとしたものであろうか。ちなみに島津家久は織田家臣の明智光秀とも面会したことも、この日記には記されている。
島津家久は先遣として上京。そして、次に上京した島津歳久が政治向きのことを手掛けたのだろうか。あくまでも推測である。
天正3年2月20日、串木野を発つ
廿日、午の剋、串木野を立、麓に柴屋をかまへ、老母妻子なともくたらせたまひ酒肴、それより薩广山の出ロに菱衆柴屋有、又隈城衆の柴屋あり、新納右衛門佐より脇刀あつかり候、それよりかいもんの前、渡口に平佐の衆酒持参、やかて河舟拾艘あまりにて、新田の鳥居之前ニおし渡処に、東郷・中郷衆のすゝ数をしらす、食籠様/\にて酒宴有、それより参宮、於社頭ニ三献、下向ニ於正宮寺ニこつけ参候、酒数遍、又鳥居の前より舟にて、川せうようのことくうたひのゝしり酔亂、おかしき哥なと申けるに、其外あまた有、高江の麓に山田新介濱ひさしのことくに構、湯つけありて酒数遍、又久見崎の津に膳介といへる者の所へ一宿、猶々つとひ来る樽・肴あまりくた/\しけれは、省略、(『中務大輔家久公御上京日記』より)
2月20日の午の刻(正午前後)に串木野を出立する。城下の麓では母と妻子が見送りに出て、酒宴が催された。
ちなみに母は島津貴久の側室で、「橋姫」「少納言」と呼ばれている。本田親安の娘と伝わる。本田親安についてはよくわからず。
妻は樺山善久(かばやまよしひさ)の長女。樺山善久は島津貴久の姉を正室としていて、島津家久は従兄妹どうしでの婚姻であった。樺山氏は島津氏に一貫して協力し、頼りになる同盟者という感じだった。
子は長男の豊寿丸と次男の鎌徳丸であろう。長男はのちに島津豊久(しまづとよひさ)と名乗る。元亀元年(1570年)の生まれで、このときは4歳。また、次男は東郷重虎(とうごうしげとら、島津忠仍、ただなお)。東郷氏の家督を継ぐも、のちに島津に復姓している。こちらは天正2年(1574年)の生まれ。
串木野城を出て薩摩山(いちき串木野薩摩山)を越えたところで、菱刈衆が待ち構えていた。ここで酒宴。「菱刈衆」というのは菱刈重広(ひしかりしげひろ)の家中のものであろう。菱刈氏は島津氏に激しく反抗していたが、永禄12年(1569年)に降伏。本拠地の大隅国菱刈本城・曽木(ほんじょう・そぎ、鹿児島県伊佐市)を安堵されたが、天正2年(1574年)に薩摩国伊集院神殿(こどん、こうどの、鹿児島県日置市上神殿・下神殿)に移封されている。神殿から酒肴を持って見送りに駆けつけたのだろう。
さらに薩摩山の北の隈城(くまのじょう、鹿児島県薩摩川内市隈之城)でも隈城衆が酒宴をもよおす。島津家久は隈城地頭でもあり、こちらは自身の家臣たちだ。そして、ここでは新納右衛門佐から餞別に脇差しが贈られた。「新納右衛門佐」は新納康久(にいろやすひさ)あるいは新納久饒(ひさあつ、康久の次男)であろう。新納康久は島津貴久の家老で、長年にわたって市来(鹿児島県いちき串木野の市来と日置市東市来)を任されている。
そこから開聞(かいもん、薩摩川内市東開聞町)の渡し口に至り、ここでは平佐衆が酒を持参して待ち構えていた。またも酒宴である。ここから川舟に乗り込んで川内川を西へ。船内でも飲みっぱなしだったことだろう。
新田神社(にったじんじゃ、薩摩川内市宮内町)の鳥居前に船をつけると、ここでは東郷衆が酒肴を大量に持ってきていた。また酒宴。なお「東郷衆」というのは、薩摩国東郷(とうごう、薩摩川内市東郷)を領する東郷重尚の衆中だろう。ちなみに、天正5年(1577年)に島津家久は次男を東郷氏へ養子に出している。
そして、新田神社へ参詣。神前で三献。旅の無事を祈願した。参道を戻って正宮寺に立ち寄り、ここでも酒をふるまわれる。
鳥居前から舟に乗り込み、船内でも飲みまくる。ずっと酒宴が続く。日記には「川せうようのことくうたひのゝしり酔亂」と記す。
高江(たかえ、薩摩川内市高江町)では山田新介(山田有信、やまだありのぶ)が待ち構えていた。湯つけと酒をふるまわれる。
余談だが、山田有信はのちに日向国の新納院高城(にいろいんたかじょう、宮崎県児湯郡木城町)の城主となる。天正6年(1578年)の高城川の戦い(耳川の戦い)では、島津家久は新納院高城に救援に入る。山田有信・島津家久は籠城して守り切り、その後の大勝利へとつながるのだ。
その後、川内川河口近くの久見崎(くみさき、薩摩川内市久見崎町)に至り、ここで「膳介といへる者」の家に泊まる。この人物についてはよくわからず。港町の商人だろうか?
この日の日記の最後は「猶々つとひ来る樽・肴あまりくた/\しけれは、省略」と記す。酒肴を持って見送りに訪れる者が後を絶たなかったという。で、「あまりにも多いから、もう省略するね」と。
天正3年2月21日、久見崎から阿久根へ
廿一日、巳の剋ニくミさきを立候ヘハ、玄佐御哥あそはし候、其返哥共申置、舟本にて酒宴様/\にて、儅、其日の未剋に阿久根へ着、市別当の所へ一宿する処ニ。松本長門介子酒持参。亦其頭頭阿久根播广守牧山などいへる人々、すゝをたつさへ立いり候、(『中務大輔家久公御上京日記』より)
巳の刻(午前10時前後)に久見崎を出航。樺山玄佐(かばやまげんざ、樺山善久)より歌が贈られていたので、その返歌を預け置いていく。樺山善久は正室の父で、和歌が上手い人物でもあったと。
海路で北上。船中では飲みっぱなしだ。未の刻(午後2時前後)に阿久根(あくね、鹿児島県阿久根市)に寄港する。阿久根は薩州家の島津義虎(よしとら)の所領である。
阿久根で一泊。ここへ松本長門介の息子が酒を持ってやってきた。また、阿久根の地頭(「頭頭」は書き誤りか)の阿久根播磨守や牧山某なども訪ねてきた。「阿久根播磨守」は島津義虎の家老の阿久根良有であろう。松本氏や牧山氏については、よくわからず。こちらも島津義虎の家臣か?
天正3年2月22日、島津義虎と酌み交わす
廿二日、順風なくて舟出ならす、さていたつらにハいかゝとて、別枝越後守なと談合候て一折仕、その晩に松下長門介の所へ頻に来たるへく申候へは、其分にて酒宴様/\、馬なとをも得させ候、此方よりも馬遣し、それより帰候へは、義虎私宅へ入御候て、夜更迄酒宴、(『中務大輔家久公御上京日記』より)
風待ちで出航できず。その晩に松下長門介(前出の「松本長門介」と同一人物か、いずれかが誤記だろう)の招きもあって酒宴。餞別に馬をもらったので、お返しにこちらからも馬を贈る。宿に戻ったあと、今度は島津義虎の屋敷に招かれる。そして、夜更けまで酒宴。
一行は薩州家の島津義虎の歓待を受ける。島津義虎は同盟関係にある。島津義久の長女を正室に迎えて、良好な関係を築いていた。ただ、この前年の天正2年(1574年)に謀反の噂が流れている。島津義虎はすぐに釈明して疑いを晴らした。じつは、この噂を流したのは島津家久だったとも。薩州家の所領を削って弱体化を狙ったものか? とはいえ、真相はよくわからない。
島津義虎が酒宴に招いたのには、「見送り」以外にも何かしらの意図があったのかも。関係の良化をはかるとか、あるいは「島津家久の腹の内を探りたい」とか。
天正3年2月23日、肥後に入る
廿三日、義虎へ馬進候、それゟ巳剋に舟出候へハ、義虎も舟めされ、酒宴様/\にて、脇刀・とうふくあつかり候、それよりくろの渡といへる所迄同舟候、其夜ハ田の浦といへる所に船かゝり、(『中務大輔家久公御上京日記』より)
島津義虎に馬を贈る。そして巳の刻(午前10時前後)に阿久根を出航。島津義虎が船を出して、「くろの渡(黒之瀬戸)」まで同行した。船内では引き続き酒宴。島津義虎からは脇差と道服が餞別に贈られた。黒之瀬戸は、長島と脇本の間の海峡である。現在は黒之瀬戸大橋がかかっている。
黒之瀬戸で島津義虎に見送られて、北へ。夜に肥後国の田ノ浦(たのうら、熊本県葦北郡田浦町)に入港した。
領内を出るまでは酒宴ばかり。「大丈夫なのか?」ってくらい飲みすぎなのである。当時、国外へ旅へ出る際には盛大な酒宴で送り出すのが当たり前だったのかな、と思わせる。
2月23日に薩摩を出る。領外へ出ると、ちょっと緊張感が出てくる。
つづく。
<参考資料>
『中務大輔家久公上京日記』
翻刻/村井祐樹 発行/東京大学史料編纂所 2006年
※『東京大学史料編纂所研究紀要第16号』に収録
鹿児島県史料『旧記雑録 後編一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1981年
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年
鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年
鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 諸氏系譜 一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 出版/鹿児島県 1989年
鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 諸氏系譜二』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 1990年
鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 諸氏系譜三』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 1992年
ほか