ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

伊作の妙見神社、巨石群に伊作氏の軍神がまします

鹿児島県日置市吹上町中之里に妙見神社(みょうけんじんじゃ)が鎮座する。ここには巨石群があり、「落ちそうで落ちない岩」も人気だ。この地はかつての薩摩国伊作(いざく)の内で、島津一族の伊作氏が崇敬した神様でもある。

 

 

 

由緒

弘安3年(1280年)に伊作領主の島津久長(しまづひさなが、伊作久長)により勧請されと伝わる。島津久長は、島津氏3代当主の島津久経(ひさつね)の次男。伊作荘の地頭を任され、伊作氏の祖とされる。

御祭神は天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)。もともとは神仏習合の信仰で、妙見菩薩(みょうけんぼさつ)を祭る。明治時代の廃仏毀釈・神仏分離により、妙見菩薩をアメノミナカヌシノカミに見立てた。

 

明治43年(1910年)に大汝牟遅神社(おおなむちじんじゃ、日置市吹上町中原)に合祀されるも、昭和25年(1950年)に元の場所に戻された。

 

 

巨石群のある境内

妙見神社は国道270号沿い。場所はとてもわかりやすい。看板もよく目立つので、そこから道路脇のほうに入っていく。参道口のまえに車が数台停められる広いスペースもあり。

 

伊作の妙見神社

この看板が目印

 

駐車スペースにはこんな看板も。「落ちない岩、滑らない岩」とある。受験生には縁起が良い。芸人なんかにも御利益がありそうだ。

 

伊作の妙見神社

縁起が良さそう

 

車を置いたところから坂道がある。そこが参道口だ。

 

伊作の妙見神社

上のほうに鳥居が見える

 

鳥居をくぐると、鬱葱とした参道がのびる。ここを奥へ。

 

鳥居から参道へ

聖域っぽい雰囲気だ

 

妙見神社の境内へ

参道を抜けて

 

伊作の妙見神社

参道を振り返ると、こんな感じ

 

ずっと進んでいくと、鳥居がもう一つ。その先に社殿が見える。社殿はコンクリート造り。その背後のほうには巨石群が見える。

 

伊作の妙見神社

二つ目の鳥居

 

伊作の妙見神社

社殿は巨石群を背負うような配置

 

社殿の裏手には巨石群。かつて「役行者の腰掛の岩」とも呼ばれていた。

 

伊作の妙見神社

巨石群

 

斜めに割れた大きな岩がある。不思議なことに、この岩は滑り落ちない。

 

伊作の妙見神社

落ちない

 

巨石群の上のほうへ登っていける。「通り抜け可」と書かれているところがある。ここを抜けられるということだが、この先はだいぶ狭そう。私は怖かったので、くぐらなかった。

 

妙見神社の巨石群

行けるのか!?

 

妙見神社の巨石群

狭いよね

 

妙見神社の巨石群

てっぺんまで登る、眺めよし

 

妙見神社は面白い雰囲気の場所だった。巨石群も見応えあり!

 

 

伊作氏の軍神

妙見は北極星や北斗七星を神格化したもので、軍神として崇敬された。平良文が妙見菩薩を信仰したとされ、平良文を祖とする坂東平氏が守護神とした。

坂東平氏には千葉氏や秩父氏などがあり、薩摩との関わりは深い。千葉氏や秩父氏は鎌倉の幕府から薩摩の地の地頭職を与えられたりしている。秩父一族には畠山氏・本田氏・伊地知氏・渋谷氏などがある。

そして、島津氏初代の島津忠久(ただひさ)は畠山氏と関係を持っていた。真偽のほどはちょっとあやしいが、畠山重忠(はたけやましげただ)の加冠で元服したと伝わる。また、畠山重忠の娘を妻としたとも。そして、畠山氏の一族の本田氏は島津氏に仕える。島津忠久にかわって本田氏が代官として薩摩に入っている。

薩摩に妙見信仰が持ち込まれたのは坂東平氏が絡んでいると思われる。また、島津氏も関東で活動していたので、その影響を受けていても不思議ではない。

 

島津忠久についてはこちらの記事にて。

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伊作の妙見社は、弘安3年(1280年)に島津久長(伊作久長)が勧請したとされる。持ち込まれた時期から考えると、元寇がきっかけだったのではないだろうか。戦勝のために軍神である妙見を守護神とした、というところか。

元軍との戦いは文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)のこと。この対応のために、幕府は九州に所領を持つ武士を守りにつかせた。その中には島津氏も含まれる。島津久経は筑前国で元軍と戦った。

島津久経の長男の島津忠宗(ただむね、島津氏4代)と次男の島津久長も父といっしょに九州入りしている。で、このときに島津久長は薩摩国伊作荘を任されている。また、島津久経の死後は兄の代理で筑前の警固の任にもついている。

 

伊作氏の詳細はこちらの記事にて。

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妙見社はその後も伊作氏から大事にされる。宝徳3年(1451年)には伊作犬安丸(伊作氏7代)が大檀那として鐘を奉納したという。

そして、島津忠良(しまづただよし)が社殿を再興。また、天文7年(1538年)の加世田攻めの際に戦勝を祈願。このときに鳥居の横で火柱が立ち、これが瑞兆とされた。その後、加世田を落とすこともできている。

なお、島津忠良は伊作氏の10代目にあたるが、あわせて島津氏分家の相州家の家督を継承している。嫡男の島津貴久(たかひさ)は惣領の座を奪い、相州家の血筋が島津氏の本流となった。

天文10年(1541年)には島津貴久が妙見社の本殿を改修。合戦を前に戦勝を祈願してのことだったという。この頃に島津貴久は、大隅国清水の本田氏や加治木の肝付氏などと交戦している。

 

 

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その後も、島津氏から大事にされた。16世紀後半の頃に島津光久(みつひさ、島津氏19代)が宝殿・拝殿を改修。享保15年(1731年)には島津吉貴(よしたか、21代)・島津継豊(つぐとよ、22代)が社殿や石段の改修を行っている。

 

 

古い祭祀の場か?

もともとは巨石群を御神体とする祭祀の場であったのではないのか? という気もさせられる。古代の祭祀の匂いもするのである。古くから聖地とされたところに妙見信仰が重ねられた、という感じもするのである。

鹿児島県内の神社には、古代に巨石を信仰していたっぽいところがけっこうある。伊作の妙見神社もそうであったのかも?

 

 

 

<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 発行/山本盛秀 1905年

『吹上郷土史 上巻』
発行/吹上町教育委員会 1966年

ほか

現地にあった説明書きも参考にしました。