戦国時代の島津氏の配下には、伊集院(いじゅういん)氏が多い。
島津貴久(しまづたかひさ)が分家から覇権をとって薩摩国を平定する。子の島津義久の代になると大隅国・日向国を制圧し、さらに九州全域へと勢力を広げていく。そして、島津氏は豊臣政権下に入り、関ヶ原の戦いのあとも生き残る。
その過程の中で、伊集院氏の存在感は大きい。戦国期の伊集院一族について、まとめてみた。
- 伊集院氏とは
- 全盛期から没落へ
- 伊集院氏の支族
- 相州家に仕えた伊集院氏
- 伊集院忠朗
- 伊集院忠倉
- 春成久正
- 春成久辰
- 飛松久友(富松久友)
- 伊集院久宣
- 伊集院忠次(又七郎)
- 伊集院久道(伊集院久通)
- 伊集院久治
- 伊集院久実
- 伊集院久信(伊集院久春)
- 伊集院久族
- 伊集院忠次(彦三郎)
- 伊集院竹友(肝付竹友)
- 伊集院三河守久光
- 大重平六(大重忠修)
- 伊集院忠棟
- 伊集院忠真
- 伊集院三郎五郎(肝付兼三)
- 伊集院忠之
- 千鶴(松平定行の後室)
なお、日付については旧暦にて記す。
伊集院氏とは
伊集院氏は島津氏の支族である。名乗りは薩摩国の伊集院(鹿児島県日置市伊集院)にちなむ。
島津氏は惟宗忠久(これむねのただひさ)に始まる。12世紀末に源頼朝から薩摩国・大隅国・日向国(現在の鹿児島県と宮崎県)の守護に任じられ、3ヶ国にまたがる島津荘(しまづのしょう)の地頭職に任じられた。そして「島津」を名乗りとした。
島津氏初代の島津忠久や島津忠時(ただとき)は鎌倉に住み、領国は代官に統治させていた。それは3代当主の島津久経(ひさつね)の時代まで続く。島津久経が薩摩に住むようになったのは、モンゴル軍との戦い(1274年の文永の役など)に備えて領国在任が命じられて以降のことである。
伊集院氏の祖は島津俊忠(としただ)とされる。島津忠時の七男に島津忠経があり、その四男が島津俊忠だという。血統的には本家に対して庶流の庶流である。この一族は伊集院の地頭代を任された。
伊集院氏は本家よりもさきに薩摩に根を下ろした。そして在地領主化した。島津氏の一族ながらも、半独立的な存在へとなっていく。
じつは、島津氏の南九州支配が本格的になるのは14世紀の南北朝争乱期からである。このときに伊集院忠国(ただくに)は南朝方につき、島津貞久(さだひさ、島津氏5代当主)と敵対する。
南北朝争乱期の南九州は混沌とした展開が続く。島津氏も南朝に転じたり、北朝に戻ったり、また南朝に転じたり……。そんな中で伊集院氏と島津氏本家との関係は、対立から共闘へ。
島津氏久(うじひさ、貞久の子で大隅国守護を継承)は伊集院氏との関係を重視した。島津氏久は伊集院忠国の娘を正室とし、生まれた子が後継者となる島津元久(もとひさ)だ。また、島津氏久の娘は伊集院頼久(よりひさ、忠国の孫)の正室となる。伊集院頼久は、島津氏久・島津元久の覇業を支えた。
島津氏の本家筋は総州家(そうしゅうけ)と奥州家(おうしゅうけ)に分裂していたが、奥州家の島津元久が両家の争いを制して、薩摩国・大隅国・日向国の守護職をすべて手にする。これ以降、奥州家が島津氏の本宗家となる。
伊集院氏は貿易により財力もあり、大きな力を持っていた。島津元久にも頼りにされた。伊集院頼久は島津家中における政治の中枢にあって権勢を誇った。いつからなのか時期は不明だが、伊集院の一宇治城(いちうじじょう)を本拠地とした。
一宇治城跡についてはこちら。中世の伊集院氏についてもこちらの記事にて。
全盛期から没落へ
伊集院頼久は嫡男の初犬千代丸を、島津元久の後継者に擁立する。ちなみに島津元久には男子が一人あったのだが、なぜか出家している。
応永18年(1411年)に島津元久が没すると、伊集院頼久は初犬千代丸に家督を継がせようと動く。初犬千代丸は「島津為久」と名乗り、喪主として島津元久の葬儀を執り行うことになった。
島津元久には弟がいた。島津久豊(ひさとよ)という。こちらは母が佐多氏の出身で、兄とは違って伊集院氏の血は入っていない。
島津久豊は日向国の穆佐城(むかさじょう、宮崎市高岡町)にあった。家老たちから知らせを受けると鹿児島に急行。そして、葬儀に乱入する。島津為久(初犬千代丸)の手から位牌を奪って、みずからが葬儀を執行。そして強引に家督を継承した。伊集院頼久・島津為久の親子は鹿児島を出て、伊集院の一宇治城に戻った。
伊集院頼久は島津久豊に対して挙兵。総州家や伊作氏など島津久豊に反発する者たちも味方につけた。伊集院頼久と島津久豊の抗争は長期化する。「伊集院頼久の乱」とも呼ばれている。
応永24年(1417年)に薩摩国河邊(かわなべ、南九州市川辺)で決戦となる。伊集院頼久が大勝し、島津久豊はいったんは降伏する。しかし、島津久豊が反撃に出て、今度は伊集院頼久を降伏させた。島津久豊は伊集院頼久の娘を継室に迎え、両氏は和睦した。
伊集院頼久のあとは伊集院煕久(ひろひさ、島津為久から改名)が継ぐ。島津忠国(ただくに、久豊の子、島津氏9代)の娘を正室としていて、引き続き融和策をとった。
だが、宝徳元年(1449年)に事件が起こる。伊集院煕久は町田高久と土地の領有権をめぐって揉めて、ついには殺害してしまう。この事件のあと、島津忠国は大軍を率いて一宇治城を囲んだ。宝徳2年に伊集院煕久は城を棄てて肥後国(現在の熊本県)へ逃亡した。伊集院は島津氏の直轄領となった。
のちに伊集院煕久の孫が薩摩に呼び戻される。伊集院久雄という。かつてのような大きな力は持たないものの、家名を存続させた。
伊集院氏の支族
伊集院氏の嫡流は歴史の表舞台から退くが、庶流から歴史に名を残す者がたくさん出てくる。
一族の歴史が長いこともあり、伊集院氏には支族がかなり多い。『旧記雑録拾遺 諸氏系譜一」に掲載された系図によると、伊集院忠国の子は男子だけでも16人が確認できる。この中から猪鹿倉(いがくら)・日置(ひおき)・麦生田(むぎうだ)・大重(おおしげ)・黒葛原(つづらばら)・今給黎(いまきいれ)・東(ひがし)・吉俊(よしとし)・土橋(つちばし)・飛松(とびまつ、富松、とみまつ)を名乗る家がおこる。名乗りの由来は伊集院とその周辺の地名からと思われる。
ほかにも入佐(いりさ)・大田(おおた)・南郷(なんごう)・松下(まつした)・丸田(まるた)・福山(ふくやま)・春成(はるなり)・古垣(ふるがき)などの支族もある。
余談だが、伊集院忠国の十一男に石屋眞梁(せきおくしんりょう)という僧がいる。石屋眞梁は伊集院の法智山妙圓寺や鹿児島の玉龍山福昌寺などを開山した。福昌寺は島津元久の命で創建され、島津氏の菩提寺となった。妙圓寺はのちに島津義弘(しまづよしひろ)の菩提寺になったことでも知られている。
伊集院氏の一族の者たちは、おそらくは伊集院氏嫡流の家臣であった者が多いと思われる。伊集院煕久が国外へ逃亡したのちは、島津氏本宗家(奥州家)に仕えたり、あるいは他の有力領主に仕えたことが想像される。
相州家に仕えた伊集院氏
戦国時代の島津氏は分家の相州家(そうしゅうけ)が覇権を握る。相州家の島津忠良(しまづただよし)・島津貴久は、奥州家(島津氏本宗家)の島津勝久や薩州家(さっしゅうけ)の島津実久(さねひさ)と長年にわたって抗争。一族の争いを制して島津氏の覇権を確立した。
相州家の家臣には伊集院一族の名が多く出てくるが、とくに二つの系統が活躍している。
一つは伊集院倍久(伊集院陪久とも)の系統だ。伊集院倍久は伊集院頼久の四男で、「大和守」を称した。伊集院倍久には伊集院忠公・伊集院忠胤という二人の子の名が確認できる。伊集院忠公の後裔には伊集院忠朗(ただあき)・伊集院忠倉(ただあお)・伊集院忠棟(ただむね)など。伊集院忠胤の子には伊集院久宣(ひさのぶ)などがいる。
もう一つは今給黎氏の系統だ。伊集院忠国の九男の今給黎久俊(いまきいれひさとし)から始まる一族である。こちらは伊集院久治(ひさはる)・伊集院久信(ひさのぶ)などがいる。
伊集院忠朗
伊集院忠朗(ただあき)は、島津忠良(ただよし)・島津貴久(たかひさ)の家老を務めた。大将として派遣されることもしばしば。信頼されていたことがうかがえる。戦場においては軍配者(軍師)の役割も担う。戦における儀式、祈祷や占いなどを執り行った。
通称は「大和守」。法号は「孤舟」。生没年不明。父は伊集院忠公。『本藩人物誌』には「永禄六年七十余ノ入道ナリ」とある。この情報のとおり永禄6年(1563年)で70歳過ぎだったら、明応元年(1492年)生まれの島津忠良とはほぼ同年代、あるいはちょっと年上ということになる。
どういった経緯で島津忠良に仕えたのかはよくわからない。伊集院忠朗の名前が確認できるのは天文5年(1536年)の伊集院攻めから。ここで大将を務めていて、この時点ですでに家老であったのだろう。父や祖父の代から相州家に仕えていた可能性は高そうだ。
また、島津忠良は島津支族の伊作氏から相州家の養子に入ったという事情もある。もしかしたら伊作氏の家臣だった可能性もあるかも。
伊集院忠朗の戦歴はつぎのとおり。
◆天文5年(1536年)9月23日、大将として薩摩国伊集院の大田原城を攻め取る。
◆天文6年(1537年)、薩摩国鹿児島の上山城(うえやまじょう、鹿児島市城山町)を攻め取る。その後、上山城の地頭を任される。
◆天文8年(1539年)3月、島津貴久が上山城に本陣を置き、薩州家と戦う。薩州家方が押さえていた谷山(たにやま、鹿児島市の南部の谷山地区)に侵攻し、伊集院忠朗も従軍する。
◆天文8年(1539年)6月、薩摩国の市来城(いちきじょう、鹿児島県日置市東市来町)・串木野城(くしきのじょう、鹿児島県いちき串木野市麓)攻めに従軍。8月に勝利し、伊集院忠朗が勝吐気(勝鬨)を挙げる(軍配者としての役目)。
◆天文10年(1541年)12月、大隅国の生別府城(おいのびゅうじょう、鹿児島県霧島市隼人町小浜)の救援のために伊集院忠朗が大将として派兵される。ここは樺山善久(かばやまよしひさ)の居城で、本田薫親(ほんだただちか)らの軍勢に囲まれていた。島津方は大敗し、救援に失敗。生別府城を本田氏に割譲することで和睦する。
◆天文17年(1548年)3月、大隅国の大隅正八幡宮(現在の鹿児島神宮、鹿児島県霧島市隼人町内)に大将として出陣。この頃、本田氏に内訌があり、それにともなって周囲の諸勢力も出兵してきていた。戦乱の中で、正八幡宮の社家は島津氏に救援を求めていた。正八幡宮近くの笑隈城(咲隈城、えみくまじょう)を伊集院忠朗が攻め取り、ここを拠点に周囲を攻略。また、樺山善久とともに生別府城を奪い返す。さらに日当山城(ひなたやまじょう、霧島市隼人町西光寺)を攻め取り、姫木城(ひめきじょう、霧島市国分姫城)の調略に成功する。5月に本田薫親は和睦に応じて清水城(きよみずじょう。霧島市国分清水)を開城した。清水城は本田氏に安堵される。
◆天文17年8月、本田氏が再び叛く。伊集院忠朗が大将として派遣され、8月30日に日当山城を、9月6日に姫木城を落とす。10月に島津方は清水城に総攻撃をかけ、本田氏は棄城逃亡する。戦勝後、伊集院忠朗は姫木の地頭を任される。
◆天文18年(1549年)4月、島津貴久が加治木(かじき、鹿児島県姶良市加治木)に出兵。伊集院忠朗を大将として派遣し、加治木城主の肝付兼演(きもつきかねひろ)と戦う。黒川崎で敵勢と対峙。戦線は膠着するが、11月に島津方が勝利。肝付兼演・肝付兼盛(かねもり)父子を降伏させる。加治木の肝付氏と連携していた蒲生氏・祁答院氏・入来院氏も帰順する。
◆天文23年(1554年)9月、蒲生範清(かもうのりきよ)・祁答院良重(けどういんよししげ)らが挙兵。島津方の加治木城を囲んだ。加治木の肝付兼盛は防戦。伊集院忠朗は姫木より救援に動いた。島津貴久は鹿児島から進軍し、平松の岩剣城(いわつるぎじょう、姶良市平松)を囲んだ。敵勢は加治木の囲みを解いて、平松に軍勢を動かした。本陣の島津貴久は、嫡男の島津義辰(島津義久、よしひさ)を大将とし、そして軍配者として伊集院忠朗をつけている。10月2日、島津方は岩剣城を陥落させた。ここでも伊集院忠朗が勝吐気(勝鬨)を挙げた。
岩剣城の戦いのあと、伊集院忠朗の名は戦場では出てこなくなる。高齢のため、一線を引いたのだろうか?
また、軍配者の川田義朗(かわだよしあき)は、伊集院忠朗に師事。島津家の軍配者としての役目を引き継いでいる。
伊集院忠倉
伊集院忠朗の嫡男で、父と同じく「大和守」を称する。「掃部助」とも称する。生没年不詳。島津貴久の家老を務めた。
天文18年(1549年)の加治木の戦いでは、父とともに黒川崎に陣取った。戦線が膠着するなかで、11月24日に伊集院忠倉が火矢を射かけせたことで戦況が動いた。風が強く、一気に敵陣営が焼けたという。
弘治2年(1556年)の大隅国蒲生(かもう、鹿児島県姶良市蒲生)の戦いにも従軍。
伊集院忠倉の情報は少なめ。
春成久正
「兵庫助」を称する。春成久正(はるなりひさまさ)は島津忠良の側近だった。家老か? 春成氏は伊集院支族の日置氏から分かれた一族だ。日置氏は伊集院忠国の三男の久影を祖とする。さらに久影の三男から分かれた家が春成氏となる。
大永7年(1527年)7月23日に島津忠良は薩摩国の伊作城(いざくじょう、鹿児島県日置市吹上町中原)を奪還。このときに、春成久正は甲冑と軍配を与えられ、先鋒を務めた。
「島津日新公いろは歌」にも関わっているという。春成久正は島津忠良の47首を持って京へ行き、当時の歌道の大家であった花本宗養の評を得ている。
天文7年12月18日(1539年1月)、島津忠良は薩州家方の加世田城を攻めた。この戦いでは春成久正の献策が採用されたとも。
加世田城に近づくと鳥が騒ぐ。兵を動かすと感づかれるのである。そこで、夜毎に人をやって鳥をざわつかせた。城兵が飛び出すも敵はなし。これを繰り返したうえで警戒を緩めさせたという。
永禄2年(1559年)6月、春成久正は日向国飫肥(おび、宮崎県日南市)で戦死する。伊東義祐に攻められた豊州家の島津忠親の救援のために、島津貴久は島津尚久(なおひさ、島津忠良の三男)を派遣。その補佐役として島津忠良は春成久正を出陣させた。伊東方との戦いで大敗し、春成久正の助けがあって島津尚久は危機を脱したという。
ちなみに春成久正の娘は、川上忠智(かわかみたたとも)に嫁いだ。この娘の産んだ川上忠堅(ただかた)・川上忠兄(ただえ)・川上久智(ひさとも)の三兄弟はのちに大活躍する。
春成久辰
春成久正の嫡男。永禄4年(1561年)の大隅国廻(めぐり、鹿児島県霧島市福山町)で戦死している。
飛松久友(富松久友)
飛松氏は伊集院忠国の十五男の伊集院久義を祖とする。「富松」とも。
飛松久友は「左京亮」を称し、これは一族で代々の名乗りとしている。島津忠良の家臣として「飛松左京亮」「富松左京亮」の名が確認できる。
天文8年12月29日(1539年1月)、加世田城攻めの際に戦死。飛松久友の墓は加世田の日新寺跡(竹田神社)にある。
伊集院久宣
『本藩人物誌』によると、伊集院久宣(ひさのぶ)は享禄3年(1531年)の生まれとのこと。「美作守」を称する。伊集院忠胤の三男。父の忠胤は伊集院忠倍の次男で、伊集院忠朗とは従兄弟の間柄である。
勇猛な人物であったという。おもな戦歴はつぎのとおり。
◆天文17年(1548年)の大隅国姫木城の戦いに従軍。初陣か? 大将の伊集院忠朗のもとで軍功をあげたという。
◆弘治2年(1556年)3月25日の大隅国蒲生城(かもうじょう、鹿児島県姶良市蒲生町)攻めで活躍。
◆永禄10年(1567年)11月23日の大隅国菱刈の馬越城(まごしじょう、鹿児島県伊佐市菱刈前目)攻めに従軍。
◆天正4年(1576年)の日向国の高原城(たかはるじょう、宮崎県西諸県郡高原町)攻めに従軍。島津氏が伊東氏から日向国を奪ったあと、清武(きよたけ、宮崎市清武町)の地頭を任された。
◆天正6年(1578年)の日向国での高城合戦(耳川の戦い、決戦の場は現在の宮崎県児湯郡木城町)に参加。
◆天正8年12月(1581年1月)の肥後国比良之城攻めに従軍。
◆天正9年(1581年)の水俣城攻めに従軍。
◆天正10年(1582年)には新納忠元(にいろただもと)とともに肥後国隈元(くまもと、現在の熊本市)に在番。翌年の阿蘇氏攻めにも出陣する。
◆天正14年(1586年)の筑前国の岩屋城(いわやじょう、福岡県太宰府市)攻めに従軍。そのあと豊後国(現在の大分県)の大友氏攻めにおいては島津家久(いえひさ、島津貴久の四男)に従って日向口で戦う。
豊後で転戦するも、天正15年(1587年)3月15日に鶴崎(つるさき、大分市鶴崎)で戦死する。島津氏が豊臣秀吉に降伏したあとは、所領の清武も没収される。
伊集院久宣の家系は、その後も島津氏の家臣として続いた。
伊集院忠次(又七郎)
通称は「又七郎」。伊集院忠胤の嫡男。伊集院久宣の兄である。天文6年(1537年)の薩摩国伊集院竹山の戦いで戦死。享年22。
伊集院久道(伊集院久通)
「下野守」を称する。法号は「魯笑」。生年不詳。伊集院忠国の九男の今給黎久俊の流れを汲む。今給黎久俊の次男に伊集院久昌があり、その後裔であるという。
天文23年(1554年)からの大隅合戦、天正4年(1576年)の高原合戦などを転戦。大隅国の牛根(うしね、鹿児島県垂水市牛根)や踊(おどり、鹿児島県霧島市牧園町)の地頭を務めた。
天正15年(1587年)没。
伊集院久治
伊集院久治(いじゅういんひさはる)は伊集院久道の子。次男か。父と同じ「下野守」を称する。「三郎兵衛」とも称する。法号は「抱節」。天文3年(1534年)生まれ。母は新納忠祐の娘。ちなみに新納忠祐は新納忠元の祖父にあたる。
日向国の福島(ふくしま、宮崎県日南市)、大隅国の向島(むこうじま、桜島)・高山(こうやま、鹿児島県肝属郡肝付町の高山)、薩摩国の市来(いちき、鹿児島県いちき串木野市の市来、日置市東市来)・出水(いずみ、鹿児島県出水市)などの地頭を任された。島津義久の家老も務めた。
おもな戦歴はつぎのとおり。
◆弘治2年(1556年)10月、大隅国蒲生において島津忠将・島津忠平(島津義弘)が菱刈陣(敵方援軍の菱刈重豊が陣取る)に攻め入る。伊集院久治もこの戦いに参加した。
◆薩摩国大口(鹿児島県伊佐市大口)で島津氏は菱刈氏・相良氏と戦っていた。永禄11年(1568年)1月20日に島津忠平(島津義弘)が羽月堂崎で戦うも、大軍に囲まれて苦戦する。伊集院久治は島津歳久とともに救援に動き、島津忠平は窮地を脱した。
◆天正元年(1573年)、大隅国禰寝(ねじめ、鹿児島県南大隅町根占)に新納忠元とともに入る。同年3月18日に大隅国西俣(にしまた、鹿児島県鹿屋市飯隈町のあたり)で肝付勢を破る。肝付氏・伊地知氏の降伏後の天正2年(1574年)に大隅国牛根の地頭を任された。
◆天正6年(1578年)10月、高城合戦(耳川の戦い)では先陣として敵軍を切り崩したという。
◆天正8年(1580年)10月、新納忠元・鎌田政年(かまだまさとし)らとともに肥後国へ派遣される。阿蘇氏方の矢崎城(やざきじょう、熊本県宇城市)・綱田城(おうだじょう、熊本県宇土市)を攻め落とす。
◆天正8年(1580年)11月、肥後国隈本(くまもと、熊本市)に佐多久政・新納忠元らとともに在番。そして、竹迫城(たかばじょう、合志城、熊本県合志市)を攻める。伊集院久治の部隊は大津山源左衛門の軍勢に突入。敵方は総崩れとなり、竹迫城(合志城)も陥落させた。この戦いで、伊集院久治は顔に傷を負ったという。
◆天正9年(1581年)9月、肥後国水俣攻めに従軍。
◆天正10年(1582年)から肥後国の八代(やつしろ、熊本県八代市)や隈本に在陣。阿蘇氏との戦いに参加する。
◆天正14年(1586年)、筑紫攻めで副将を務める。7月11日に肥前国の勝尾城(かつのおじょう、佐賀県鳥栖市牛原町)を落とす。7月14日には筑前国の岩屋城(いわやじょう、福岡県太宰府市浦城)を落とす。
◆天正14年(1586年)9月、島津氏は豊後国へ侵攻する。島津家久を大将とする日向口の軍勢で伊集院久治は活躍した。島津方は破竹の勢いで進軍し、12月12日の戸次川の戦いで大勝。大友氏の本拠地の府内城(ふないじょう、大分市荷揚町)も奪う。
◆天正20年(1592年)より朝鮮に出陣。また、この年より島津義久の家老に任じられる。慶長3年(1598年)の泗川の戦いでも奮戦した。
慶長12年(1607年)に70余歳で没。島津家久(島津忠恒、ただつね、島津義久の次男)が挙げる「忠義の老人五人」のうちの一人に数えられている。
伊集院久治には子がなく、甥の伊集院久元に家督を継がせた。久元にも子がなく、北郷三久(ほんごうみつひさ)の子を養子に迎えて後継に。こちらは伊集院忠栄と名乗る。その後も当主の早世が続き、島津本宗家の血縁から養子を迎える。江戸時代は一所持格の家柄として続いた。
伊集院久実
伊集院久道の弟で、「伊賀守」を称する。生年不詳。
天文10年(1541年)、島津忠良に命じられて島津忠将(忠良の次男)の家臣となる。文禄3年(1594年)没とあり、島津以久(忠将の嫡男)にも仕えたと考えられる。
伊集院久実の子孫は、島津以久から続く垂水島津家・佐土原島津家に仕えた。家老など重職を務めた。
伊集院久信(伊集院久春)
伊集院久信(ひさのぶ)は天文12年(1543年)生まれ。生年は天文14年とも。初め「久春(ひさはる)」と名乗る。「肥前守」を称する。入道名は「元巣(げんそう)」。今給黎久俊の三男に伊集院久綱があり、その後裔。久綱→久安→久敏→久宗→久次→久信、という系譜。父の伊集院久次は21歳で戦死しているという。島津貴久に仕えた経緯はよくわからない。
日向国の蓬原(ふつはら、鹿児島県志布志市有明町蓬原)、大隅国の清水(きよみず、鹿児島県霧島市国分清水)・横川(よこがわ、霧島市横川)などの地頭を任された。のちに島津義弘の家老となり、日向国の飯野(いいの、宮崎県えびの市の飯野地区)の地頭を任された。飯野は島津義弘の拠点でもあった。
おもな戦歴はつぎのとおり。
◆永禄2年(1559年)8月に初陣。新納忠元が軍船で大隅国牛根を攻めたときに従軍したという。
◆永禄5年(1562年)6月、大隅国横川城(よこがわじょう、鹿児島県霧島市横川)攻めに従軍。こちらが初陣とも。この戦いで負傷。
◆永禄10年(1567年)11月、大隅国菱刈馬越城攻めに従軍。肩に矢を受けながら奮戦し、島津貴久から恩賞として肩当を与えられた。
◆永禄10年から12年にかけての菱刈氏・相良氏と交戦しているときに、伊集院久信は大隅国敷根(しきね、鹿児島県霧島市国分敷根)に覇権された、敷根城主の敷根氏とともに奮戦し、肝付氏の軍勢を撃退した。
◆永禄12年(1569年)5月25日、長野城(ながのじょう、鹿児島県薩摩郡さつま町永野)攻めに参加。落城させる。この戦いで負傷。
◆元亀3年(1572年)、下大隅の荒平(鹿児島県鹿屋市高須町のあたりか)で戦った際には槍傷を負う。このあと、島津義久が自宅まで来て槍が贈られた。同年11月の下大隅の小沢城攻めでも奮戦。城は落ちる。伊集院久信はまたも負傷。
◆大隅への侵攻で、島津歳久を大将として廻(めぐり、鹿児島県霧島市福山町)・牛根境(うしねさかい、鹿児島県垂水市牛根境)に軍勢が派遣された。伊集院久信も出陣した。この戦いにおいて、伊集院久信は大将の命令を守らずに突出した。これを咎められて100日間の謹慎処分となった。
◆天正6年(1578年)7月、日向国新納院の石城(いしじょう、宮崎県児湯郡木城町石河内)攻めに参戦。太刀初めを務めた。この戦いでも負傷。同年10月の高城合戦(耳川の戦い)にも従軍。
◆天正12年(1584年)5月、有馬氏の加勢のために肥前国の安徳(あんとく、長崎県島原市)に派遣。
◆天正10年(1582年)頃から島津氏と阿蘇氏は交戦。伊集院久信は肥後国にあって、この戦いにあたる。天正13年(1585年)、甲佐・堅志田(こうさ・かたしだ、熊本県の上益城郡・下益城郡のあたり)攻めにも従軍。
◆天正13年(1585年)9月、島津忠平(島津義弘)の命で伊集院久信は筑後国三池(福岡県大牟田市のあたり)に出陣。山田有信(やまだありのぶ)・猿渡信光(さるわたりのぶみつ)とともの軍勢を率いた。堀切城を攻め落とす。
◆天正14年(1586年)7月、筑紫攻めで副将を務める。筑前国の岩屋城の戦いは熾烈で、伊集院久信は負傷する。
◆天正14年(1586年)から翌年にかけての豊後侵攻では、島津義珍(島津義弘)の指揮下で戦う。島津方は大友氏領内の奥まで侵攻するが、豊臣秀吉の征討軍が襲来する。島津方は敗走する。撤退戦において、伊集院久信は新納忠元とともに肥後国を突破して帰国した。
◆天正20年(1592年)からの朝鮮の戦いでは、7年間にわたって異国に在陣。
◆慶長4年(1599年)の庄内の乱では、飯野から派兵した。
やたらと負傷した記録がある。伊集院久信は勇猛な人物だったとされる。いつも前線に立って奮闘したことがうかがえる。
元和2年(1616年)没。家督は次男の伊集院久望がつぐ。
伊集院久族
伊集院久信の長男である。永禄6年(1563年)生まれ。名は「久時」「久洪」とも。「源助」「源左衛門尉」「遠江守」を称する。
天正13年(1585年)頃の肥後国での戦いから父とともに転戦。豊後国へも父とともに出陣している。朝鮮にも渡海し、慶長3年(1598年)の泗川の戦いにも従軍した。
寛永5年(1628年)、伊集院氏嫡流の家督を継ぐ。しかし、伊集院久族に子がなく、島津氏本家から後継が立てられる。
伊集院忠次(彦三郎)
通称は「彦三郎」「右衛門」。生没年不詳。伊集院頼久五男の伊集院忠俊の子。伊集院忠朗の父の忠公とは従兄弟の間柄。
大永7年(1527年)頃に島津忠良は長女(名は「御南」という)を、大隅国の肝付兼続(きもつきかねつぐ)に嫁がせた。そのお供を命じられたのが伊集院忠次だった。伊集院忠次は肝付家に入り、その家臣となった。
子は伊集院忠包、孫は伊集院忠利の名が伝わっている。その子孫は出家している。
伊集院竹友(肝付竹友)
肝付氏の家臣に「伊集院三河入道竹友」という人物がいる。生年不詳。出自不詳。「竹友」は入道名だろう。「ちくゆう」と読むのかな?
「肝付三河入道竹友」という名も確認でき、どうやら同一人物っぽい。「肝付」の名乗りを許された、肝付氏一門として遇された可能性もありそう。
『新編伴姓肝付氏系譜』によると、肝付兼続の子に肝付兼勝という人物がいる。そこには「出為伊集院三河入道竹友嗣子」と書かれている。これにより、伊集院三河入道竹友は肝付家の一門衆になったということだろうか。
また、肝付氏の家臣に「伊集院三河守」という名も確認できる。伊集院三河守は肝付兼顕(肝付兼連の子、次男か)の娘を妻としたとも。天文23年(1554年)の岩剣城の戦いにおいて、肝付兼続は島津貴久に協力。援軍として伊集院三河守を派遣している。この「伊集院三河守」と「伊集院三河入道竹友」は親族(親子とか)あるいは同一人物なのかも。
『本藩人物誌』には「伊集院三河入道竹圃」なる人物も確認できる。こちらも関係者か? あるいは同一人物か?
また、御南のお供として肝付家に入った伊集院忠次とも関わりがあるかも、という気もする。こちらと同一人物という可能性も……?
永禄3年12月20日(1560年1月)には、肝付兼続が日向国志布志(しぶし、鹿児島県志布志市志布志町)を攻める。伊集院三河入道竹友が派遣され、島津忠親(豊州家)の軍勢と戦った。
肝付氏が志布志を奪取すると、伊集院竹友(肝付竹友)は大崎(おおさき、鹿児島県肝属郡大崎町)や志布志の地頭を任された。
元亀4年(1573年)1月6日、肝付兼亮(かねすけ、兼続の子)は大隅国末吉に軍勢を派遣。北郷時久(ほんごうときひさ)を攻める。肝付竹友(伊集院竹友)は大将を務めたようだ。住吉原(すみよしばる、鹿児島県曽於市末吉町二之方・南之郷)で合戦となり(住吉原の戦い)、肝付方は大敗する。肝付竹友は戦死した。また、猶子の肝付兼勝も戦死。
住吉原の近くには、肝付竹友の墓もある。
伊集院三河守久光
「参河神社」というのが鹿児島県鹿屋市大姶良にある。御祭神は伊集院三河守久光。
天正20年(1592年)6月、肥後国佐敷(さしき、熊本県葦北郡芦北町)で島津氏家臣の梅北国兼(うめきたくにかね)が反乱を起こす。「梅北国兼の乱」「梅北一揆」と呼ばれる事件である。反乱軍に参加した者の中に大姶良地頭の伊集院三河守の家臣も多くいたのだという。反乱の鎮圧後に、関係者はことごとく処分される。大姶良にいた伊集院三河守とその一族は誅殺された。
天正15年(1587年)の豊後国の戦いにも島津義珍(島津義弘)の配下に「伊集院三河守」の名が見える。たぶん同一人物だろう。
人物像や出自などはわからず。叛逆者とされたこともあり、記録はないようだ。ただ、大姶良の地頭を任されていたことから、島津家中で活躍した人物なのだろう。
大重平六(大重忠修)
大重氏は、伊集院忠国の五男の伊集院忠秀を祖とする。この一族の庶流に大重平六(大重忠修)がいる。
大重平六は島津義弘に仕えた。若い頃に朝鮮での戦いや関ヶ原の戦いを経験している。天正12年(1584)生まれ、「平六」「大炊兵衛」「五郎右衛門」を称する。没年は寛文6年(1666年)。享年83。なかなかの長命だ。
この人物は『大重平六覚書』という史料を残した。『旧記雑録』に収録されている。朝鮮での様子や、関ヶ原の戦いについて、その詳細を後世に伝えている。
伊集院忠棟
伊集院忠棟(ただむね)は伊集院忠倉の嫡男である。生年不詳。初名は「忠金」。通称は「源太」「掃部助」「右衛門大夫」。入道名は「幸侃(こうかん)」。
祖父の伊集院忠朗は島津忠良・島津貴久の覇業の立役者の一人でもある。祖父と父に続きいて国老に任じられた。当初は父から受け継いだ大隅国姫木(ひめき、鹿児島県霧島市国分姫城のあたり)の地頭。のちに大隅国の高山・鹿屋など、肝付氏の旧領の地頭も任された。
伊集院忠棟もまた仕事のできる人物だった。島津氏の勢力拡大に貢献していく。だが、島津氏の歴史では叛逆者として扱われることになる。『本藩人物誌』では「国賊伝」に名がある。
伊集院忠金(伊集院忠棟)の活躍が目立つようになるのは天文年間に入ってから(1573年以降)。おもな戦歴はつぎのとおり。
◆天正6年(1578年)7月6日、島津義久は日向国の新納院石城(宮崎県児湯郡木城町石河内)を攻める。島津忠長・伊集院忠棟を大将として派兵した。石城は急流がぐるりと囲む要害である。島津方は苦戦し、城を落とせず。9月に石城を再び攻める(再戦では、伊集院忠棟は副将)。伊集院忠棟は木を伐採して川に落とし込んだだうえで攻撃を仕掛けた。今度は落城させた。
◆天正6年(1578年)11月12日、日向国の高城川原(宮崎県児湯郡木城町高城)で島津氏と大友氏がぶつかる。「高城合戦」「高城川の戦い」「耳川の戦い」と呼ばれるものである。決戦前日の11月11日、島津忠平(島津義弘)が仕掛ける。大友方が布陣する松山陣(児湯郡川南町)を攻めた。島津方は兵を伏せたうえで、伊集院忠棟が率いる兵300ばかりを松山陣へ向かわせた。囮部隊であった。敵勢は撃って出てくる。伊集院隊は退却し、追撃してくる敵軍を伏兵のあるところまで釣り出した。作戦は決まる。島津方は夜のうちに高城川原の南の台地上に布陣。島津義久は根白坂に本陣を置く。伊集院忠棟の部隊はその坂下に陣取った。11月12日朝、大友方が撃って出てくる。決戦は島津方の大勝であった。
◆天正9年(1581年)8月の水俣城攻めに従軍。
◆天正10年(1582年)より肥後国八代に島津忠平(島津義弘)・上井覚兼(うわいかくけん)らとともに在番。阿蘇氏の攻略にあたる。
◆天正12年(1584年)、島原への出兵(島原合戦、沖田畷の戦い)の際に島津義久が肥後国佐敷に入る。伊集院忠棟も参陣。「渡海した」とする資料もある。
◆天正13年(1585年)8月からの阿蘇合戦に従軍。
◆天正14年(1586年)7月の筑紫出兵では島津忠長とともに大将を務めた。勝尾城や岩屋城を落とすも筑前・筑後を制圧することはできず、島津軍は撤退する。
◆天正14年(1586年)10月からの豊後侵攻では、島津義珍(島津義弘)の軍勢に加わる。
◆天正15年(1587年)4月17日、日向国根白坂で島津軍は豊臣秀長の軍勢と戦って大敗する。4月22日に伊集院忠棟は豊臣秀長のもとに出向いて降伏と島津義久の助命を願い出た。このときに剃髪し、自らを人質とした。
大名に取り立てられる
島津義久は豊臣秀吉に降伏する。このときに伊集院忠棟は豊臣家の大名に取り立てられた。所領は大隅国の高山・内之浦・鹿屋・大姶良・姶良・百引(現在の鹿児島県鹿屋市・肝属郡肝付町のあたり)など。降伏させた大名の有力家臣を直参に取り立てる。という策を豊臣秀吉はよく用いた。伊集院忠棟の場合もそうであった。
伊集院忠棟は豊臣政権と島津家をつなぐ役割を担った。豊臣政権の意向のもとに島津氏領内の検地が行われるが、これを実行したのも伊集院忠棟だった。文禄4年(1595年)、検地のあとに島津氏領内では大規模な領地替えが行われた。これには多くの者が不満を抱く。一方で伊集院忠棟は日向国庄内(しょうない、宮崎県都城市のあたり)を得て、石高は8万石に増加する。
伊集院忠棟は島津家中の恨みを買うことに。そして、豊臣政権下で伊集院忠棟の権限が強くなっていくことを、島津氏も危険視するようになったと思われる。
伏見で成敗される
慶長4年(1599年)3月9日、事件が起こる。島津忠恒は京伏見の屋敷に伊集院忠棟を呼び、茶席にて斬殺する。
島津忠恒はこの年の2月に伯父の島津義久から家督を相続。島津氏の当主が、豊臣家直参の大名をみずから手にかけたのである。
成敗の理由は「島津家に対して叛意あり」ということだった。
伊集院忠真
伊集院忠棟の嫡男は、伊集院忠真(ただざね)という。通称は「源次郎」。
妻は島津義弘の娘で、名を「御下」という。島津忠恒の妹でもある。
朝鮮にも渡海し、島津隊の主力として活躍する。慶長3年(1598年)の泗川の戦いでは、伊集院忠真の部隊は6560の首級を挙げたと記録がある。
庄内の乱
慶長4年(1599年)3月9日に父の伊集院忠棟が成敗された。
伊集院忠真は本拠地の日向国都之城(みやこのじょう、宮崎県都城市都島)に籠城。三俣院高城・山之口城・勝岡城・梶山城・野々美谷城・志和池城・安永城・財部城(龍虎城)・梅北城・末吉城・恒吉城に家臣団を配置して守りを固めた。
同年6月には島津忠恒・島津義久は庄内へ出兵する。伊集院氏の軍勢は強く、庄内の各城の守りも固い。伊集院忠真は朝鮮で活躍した猛将でもある。戦いは長期化した。
島津忠恒・島津義久は反乱を鎮圧できず。徳川家康の調停を受けて和睦交渉を進めることになる。慶長5年(1600年)3月に伊集院忠真は降伏。日向国庄内から薩摩国頴娃(えい、鹿児島県南九州市頴娃)へ転封となった。こちらの石高は1万石。
ちなみに、この「庄内の乱」があったために、島津家は上方へ兵を送ることができなかった。そして、島津義弘は少ない兵しか持たないままに、関ヶ原の戦いに巻き込まれていく。
一族の誅殺
関ヶ原の戦いにおいて、島津家は敗軍にあった。だが、島津義久・島津忠恒は粘り強く交渉し、本領安堵を勝ち取った。慶長7年(1602年)8月、島津忠恒は上洛することに。伊集院忠真に同行を命じた。
8月17日、島津忠恒の一行は日向国野尻(のじり、宮崎県小林市野尻)に至る。ここで狩りが催されるが、その最中に伊集院忠真は射殺された。
その後、弟の伊集院小伝次・伊集院三郎五郎・伊集院千次をはじめ、一族はこどごとく誅殺された。
伊集院三郎五郎(肝付兼三)
伊集院忠棟の三男は、大隅国加治木の肝付氏の家督を継承した。こちらの肝付氏は庶流で、島津氏の家老を務めた家柄である。肝付兼盛(かねもり)・肝付兼寛(かねひろ)は島津氏の勢力拡大に大きく貢献した。「加治木肝付氏」と呼ばれる。のちに、薩摩国喜入(きいれ、鹿児島市喜入)に所領を移し、「喜入肝付氏」「喜入肝付家」と呼ばれるようになる。
天正18年(1590年)に肝付兼寛が没し、子がなかったことから伊集院忠棟の子が養子に迎えられた。じつは、肝付兼寛には弟がいた。名は肝付兼仍。こちらが後継者となりえたはずなのだが、なぜか他家から養子が入ってきた。伊集院忠棟による「乗っ取り」であろう。
肝付家に入って「肝付兼三」と名乗る。通称は「三郎五郎」。天正13年(1585年)の生まれで、肝付家の当主になったときは、まだ5歳くらいである。
文禄4年(1595年)、検地のあとに所領替えとなる。肝付氏には薩摩国喜入(鹿児島市喜入町)・川辺清水(鹿児島県南九州市川辺町清水)に新たな所領が与えられた。
慶長2年(1597年)、肝付兼三は朝鮮に出陣する。幼少であったために乳母をともなってのことだった。しかし、軍務に耐えられずに帰国する。肝付家の兵は朝鮮に残り、家老の前田盛張が指揮をとった。
慶長4年(1599年)3月、京の伏見で事件が起こる。伊集院忠棟が斬殺された。このとき、肝付兼三も伏見にあった。肝付家では兼三を追放。当主には肝付兼仍が立てられた(肝付兼篤と改名)。
肝付家としては事件に巻き込まれないようにしたというところか。ただ、当主の肝付兼三を守ろうとしなかった。もともと歓迎されていなかった相続であったのだろう。
慶長7年(1602年)8月17日に伊集院忠真が誅殺。このときに伊集院三郎五郎(肝付兼三)も殺された。
伊集院忠之
伊集院忠倉の三男。伊集院忠棟の弟にあたる。通称は「孫太郎」「掃部助」。
慶長4年(1599年)3月の伊集院忠棟の誅殺の際には、大隅国市成(いちなり、鹿児島県鹿屋市輝北町市成)に蟄居する。伊集院忠之は市成領主の敷根頼兼の娘を妻としていた。
慶長7年(1602年)に甥の伊集院忠真の一族は滅ぼされるが、伊集院忠之は生き延びた。
伊集院忠之の子は「伊集院」の名を避けて「松下」を名乗りとした。
千鶴(松平定行の後室)
伊集院忠真の忘れ形見である。一族はことごとく滅ぼされたが、娘は助命された。「千鶴」という名が伝わっている。慶長5年(1600年)の生まれ。母は島津義弘の娘の「御下」である。島津義弘の孫を殺すわけにはいかなかったのだろう。
母の御下は島津家久(島津忠恒から改名)の妹でもあり、人質として江戸へ。千鶴は島津家久(島津忠恒)の養女となり、母とともに江戸に住んだ。
元和5年(1620年)、千鶴は伊勢国桑名藩主(のちに伊予国松山藩主)の松平定行の後室となる。嫡子の松平定頼も産む。
<参考資料>
鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 諸氏系譜 一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 出版/鹿児島県 1989年
鹿児島県史料『旧記雑録 前編一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1979年
鹿児島県史料『旧記雑録 前編二』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1980年
鹿児島県史料『旧記雑録 後編一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1981年
鹿児島県史料『旧記雑録 後編二』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1982年
鹿児島県史料『旧記雑録 後編三』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1983年
鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年
鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 家わけ 二』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 出版/鹿児島県 1991年
『島津貴久 戦国大名島津氏の誕生』
著/新名一仁 発行/戒光祥出版 2017年
『「不屈の両殿」島津義久・義弘 関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』
著/新名一仁 発行/KADOKAWA 2021年
『図説 中世島津氏 九州を席捲した名族のクロニクル』
編著/新名一仁 発行/戎光祥出版 2023年
『関ヶ原 島津退き口 義弘と家康 知られざる秘史』
著/桐野作人 発行/株式会社ワニブックス 2022年
ほか