ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

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串木野の照島神社、海の守り神だけど、じつは山の神を祭る?

照島神社(てるしまじんじゃ)は、鹿児島県いちき串木野市西島平町に鎮座する。

串木野は薩摩半島の西側に位置し、東シナ海に面している。「串木野港」という大きな港がある。ここは遠洋漁業の基地でもある。その串木野港のやや南に「島平港(しまびらこう)」がある。ここが、かつては串木野港の中心地だった。

島平港の沖に「照島」という小島が浮かぶ。照島神社はここに祭られている。

創建年代は不明。御祭神は大己貴命(オオナムチノミコト)・少彦名命(スクナヒコナノミコト)・大山津見命(オオヤマツミノミコト)。

 

 

 

朱色の太鼓橋を渡って

島平港の近くに大きな朱の鳥居が立っている。そこが参道口だ。赤い欄干のある参道を、海に向かって歩いていく。沿岸部は「なぎさ公園」そして整備。ここには広い駐車場もある。

 

朱の鳥居

鳥居をくぐると「なぎさ公園」

 

参道を歩く

海沿いの参道

 

朱色の太鼓橋がある。こちらを渡って照島へ。この日は午前中の参詣。朝日に照らされて島が輝いているようだった。

 

橋と参道

太鼓橋を渡る

 

こちらは昼間の参詣で撮影したもの。

 

照島神社

照島へ

 

照島に上陸。空気が変わるような感じもする。満潮時は鳥居のかなり近くまで海面が上がる。

 

鳥居と橋

鳥居の近くで

 

鳥居と橋

島の鳥居を違う角度から

 

島の参道を登っていく。木々がよく茂る。

 

森の中の参道

参道

 

ちょっと登ると。また鳥居がある。その奥に拝殿。お詣りする。

 

鳥居と社殿

三つめの鳥居

 

照島神社の拝殿

拝殿

 

森の中に祠がある。馬頭観音(バトカンサァ)だ。大正8年(1919年)に島平港近くから遷されたものとのこと。

 

森の中の石祠

馬頭観音

 

境内には庚申塔もいくつか確認できる。

 

石塔

庚申塔

 

島の奥のほうへも道がある。「驪龍巖(りりゅうがん)」なるものがこの先にあるという。行ってみる。

 

森の中へと続く

照島の先端のほうへ向かう

 

島の先の方へ行くと、こんな場所に出た。岩礁がある。この地形は「雄淵(男池)」「雌淵(女池)」とも呼ばれる。

 

岩礁

雄淵(男池)

 

寛政2年(1790年)に薩摩藩主の島津斉宣(しまづなりのぶ)が照島神社を参詣。その際に、こちらの風景の良さを賞した。そして、家臣の川村宗澹に命じて岩に「驪龍巖」と書かせて、これを彫らせた。この石が残っている。

 

文字の刻まれた岩

岩に「驪龍巖」の文字

 

島内にはちょっと視界が開けたところもある。ここから見える風景も美しい。

 

海岸

島からは照島海岸も見える

 

 

薩摩焼開祖着船上陸記念碑

太鼓橋を渡ってすぐのところに「薩摩焼開祖着船上陸記念碑」がある。記念碑には「慶長三年冬 遥かに風涛を越え 吾等が開祖 この地に上陸す」と刻まれる。揮毫は「薩摩焼宗家十四代沈壽官」とある。

 

記念碑

「薩摩焼開祖上陸記念碑」

 

慶長3年(1598年)、朝鮮に出陣していた島津義弘(しまづよしひさ)が帰国。そのときに朝鮮から70余名の陶工を連れ帰った。そのうちの43名が上陸した場所が、島平であったという。なお、朝鮮陶工の渡来を文禄年間(1592年~1596年)とする資料もある。

沈壽官(ちんじゅかん)家は薩摩焼の名工の一族。その初代の沈当吉も島平に上陸し、のちに苗代川(なえしろがわ、鹿児島県日置市東市来町美山)に移った。

 

 

島津義久も立ち寄る

天正20年(1592年)、島津義久(しまづよしひさ)が照島を訪れている。

この年の4月に、豊臣秀吉による朝鮮侵攻が始まった。豊臣秀吉も肥前国名護屋城(なごやじょう、佐賀県唐津市鎮西町名護屋)に入り、ここを本陣とした。島津義久も名護屋まで出陣するよう命じられた。名護屋に向かう道中で串木野に寄っている。


鹿児島県史料『旧記雑録 後編二』収録の日記(資料番号910)によると、5月11日に島津義久が寺島(照島)を遊覧したという。なお、島津義久は5月8日に鹿児島を発ち、9日に串木野入り。しばらく風待ちで串木野の滞在していた。5月26日に串木野から出航している。

 

 

 

徐福が上陸したところ?

照島には「方士徐福登陸の地」という記念碑も。

 

記念碑

徐福が上陸したらしい

 

徐福(じょふく)は紀元前3世紀頃の人。秦の始皇帝の命で不老長寿の霊薬を取りに東方へ向けて出航した、とされる。「徐福が来た」という伝説は日本のあちこちにある。串木野もその一つなのだ。

串木野の照島に上陸した徐福は、薩摩国の冠岳(かんむりだけ、いちき串木野市冠嶽のあたり)や紫尾山(しびさん、鹿児島県出水市・薩摩郡さつま町)に入ったとも伝わる。

 

 

 

もともとは松尾大明神

由緒はよくわからない。情報はいくらか見つかるもの、なんだかボヤっとしている印象だ。

 

『三国名勝図会』では「松尾大明神祠を建つ、御祭神大己貴命」としている。また島平浦から一町許(100mくらい)の沖合にあるとしていて、現在よりも岸から離れいていたようだ。また、もともとは「小寺島」と称したとも。絵図を見ると、島にある建物には「松尾」と書かれている。

 

照島の絵図

『三国名勝図会』巻之十より(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

rekishikomugae.net

 

『麑藩名勝考』には、「松尾大明神祠奉祀、即大山咋命也」と説明されている。また、照島には「テラシマ」と読みがふってある。

 

松尾大明神があったことから、本来は松尾神社であったと思われる。『麑藩名勝考』にあるとおり、御祭神も松尾社の神である大山咋命(オオヤマクイノミコト)であったのではないだろうか。

また、「寺島(てらしま)」というのがもともとの島名であったと思われる。島には寺院があったのだろう。松尾大明神の別当寺か何かだろうか? あるいはここに寺院があって、その鎮守が松尾大明神だった、とか?


松尾社(大山咋命)は秦氏の氏神である。この地は秦氏と関係があったのかも? という想像もさせられる。

 

 

 

<参考資料>
『串木野郷土史』
編/串木野市郷土史編集委員会 発行/串木野市教育委員会 1962年

『三国名勝図会』
編/橋口兼古・五代秀尭・橋口兼柄・五代友古 出版/山本盛秀 1905年

鹿児島県史料『麑藩名勝考』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1982年

鹿児島県史料『旧記雑録 後編二』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1982年

ほか