鹿児島県姶良市加治木に小山田(こやまだ)というところがある。山と山の間に網掛川(あみかけがわ)が流れ、その川沿いに水田が広がっている。「小山田」という地名はそんな様子に由来するとも。
田園地帯に小山がある。叢林に鳥居が見える。鎮座するのは大井上神社(おおいがみじんじゃ)である。
なお、記事中の日付は旧暦にて記す。
森の中の聖域
近づくと、なんだか強い気を感じるような……そんな場所だ。参道口には「龍門の森」ともある。この叢林のことだろう。また、タノカンサァ(田の神)もちょこんと座り、目の前に広がる田を見守っている。
タノカンサァ(田の神)についてはこちら。
鳥居をくぐって石段を登る。奥にもうひとつ朱色の鳥居も見える。
朱色の鳥居のほうには巨木があった。スダジイである。境内にはスダジイの古木があちこちに生えている。
境内はそれほど大きくはない。石段をちょっと登ると拝殿の前に。
この奥に本殿があるが、拝殿と本殿の間に小さな社殿が2つ。荒人神社(こうじんじんじゃ)と竈門神社(かまどじんじゃ)がある。いずれも台所の守り神で、火の神と水の神である。明治42年(1909年)に合祀されたものとのこと。
境内には大山祇神社(おおやまつみじんじゃ)・端山神社(はやまじんじゃ)・加賀神社(かがじんじゃ)も鎮座。こちらも合祀されたもの。いずれも御神体は自然石で、石祠に納められている。
『加治木郷土誌』には、加賀神社についてちょっと情報があった。もともとは小山田村の河内(場所の詳細はわからず)に加賀大明神があったという。御祭神は「加賀之丞」とされ、河内の開拓者の霊を祀っているとのこと。
本殿の裏手のほうの山へ登っていけるようになっている。
登ると広場のようになっていたが、草木が茂っていた。こちらにも大きな木が見られる。神社の構造は、この山を拝むような配置になっている。
もともとは「老亀大明神」
現在は「大井上神社」と称しているが、かつては「老亀大明神」「老神大明神」と称していた。
神社の由緒書によると、御祭神は齋火産霊命(イワイホムスビノミコト)・ 奥津比古命(オキツヒコノミコト)・ 奥津比賣命(オキツヒメノミコト)としている。ただし、こちらは合祀された荒人神社・竈門神社の神様だろう。
「老亀大明神」「老神大明神」の御祭神はわからない。『加治木郷土誌』では、そう紹介されている。加治木木田にも老亀大明神があったとも。こちらも御祭神は不明。なお、本地はともに虚空蔵菩薩だという。
調べてみたところ、鹿児島県には「老神神社」「老神社」がいくつかある。以下は鹿児島神社庁のホームページに掲載のあるもの。
老神神社/姶良市中津野/御祭神は猿田彦命(サルタヒコノミコト)
老神神社/垂水市牛根境/御祭神は猿田彦命(サルタヒコノミコト)
老神社(老神神社)/南さつま市加世田武田/御祭神は少彦名命(スクナヒコナノミコト)・ 天剱命(アメノツルギノミコト)
これらも老神神社の系統と思われる。
金峯神社(きんぽうじんじゃ)/別称に「大位大明神(オイカンドン)」/鹿児島市西佐多町/御祭神は大位神大明神尊(オオイノカミダイミョウジンノミコト)
豊日孁神社(とよひるめじんじゃ)/旧称「大居神大明神社」/鹿児島県薩摩川内市祁答院町上手/御祭神は天照皇大神(アマテラススメオオカミ)・伊邪那岐命(イザナギノミコト)・伊邪那美命(イアザナミノミコト)
また、熊本県人吉市にも老神神社があり、こちらは霧島神社(霧島神宮、鹿児島県霧島市)から勧請されたものとのこと。
「オイカメ」または「オイカミ」という神様を、もともとは祀っているのかな? ……なんて想像もさせられる。そうであるなら、南九州の古い神だろうか。
サルタヒコなどと習合しているのか? あるいは関連があるのか? そのあたりについてはよくわからない。
老亀大明神(大井上神社)の創建年代は不明。平安時代に藤原氏が陸奥国柳津(やないづ、現在の宮城県登米市津山町柳津)から勧請したとも伝わる。老亀大明神の本地は虚空蔵菩薩である。柳津には柳津虚空蔵尊があるが、こちらとも関わりがあるのだろうか。
この藤原氏は、加治木を支配した加治木氏のことだと思われる。加治木氏はもともと大蔵姓だったが、大隅国に流れてきた関白の息子を婿にとって藤原姓を称したと伝わる。
文明18年(1486年)に武運長久を祈願して造立したとする棟札があったとのこと。願主は「藤原朝臣衆平」とある。加治木氏は「平」を通字としている。この人物は加治木氏の一族の者だろう。
天文8年(1539年)の社殿造立の棟札には「大檀那伴兼演」の名前もある。これは肝付兼演(きもつきかねひろ)のことだ。
肝付兼演は天文3年(1534年)に加治木の領主になった。高山の肝付氏から離れて島津氏に仕え、「加治木肝付氏」とも呼ばれる。加治木領主になったばかりの肝付氏にも、老亀大明神が大事にされたこともうかがえる。肝付氏の時代(16世紀の半ばから後半)には、老亀大明神は「加治木五社」のひとつに数えられたそうだ。
島津が豊臣政権に降る、その心配事が記される
昭和42年(1967年)の社殿改築の際に、墨書のある材木3点が見つかった。そこに書かれている内容が興味深い。
豊臣秀吉が九州に侵攻してきて、これを島津勢が迎え撃ったが敗北し、島津の殿様は京都へ連れていかれた。心配していたら、殿様は無事帰国し、領国安堵ということになったので、感謝してこの神社を造った。 (Webサイト『姶良市デジタルミュージアム』より)
『姶良市デジタルミュージアム』の該当ページはこちら。
なお、現物は加治木郷土館に収蔵されているとのこと。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉は大軍を九州へと送り込んだ。島津氏は抗戦するも大敗。同年5月8日に島津義久(しまづよしひさ)は豊臣秀吉に謁見し、降伏を許された。
この頃の加治木領主は肝付兼寛(かねひろ、肝付兼演の孫)。勇将だったと伝わる。『伴姓肝付氏系譜』(『旧記雑録拾遺 家わけ 二』に収録)によると、肝付兼寛は加治木城で抗戦の構えを見せ、なかなか降らなかったという。
天正15年6月に島津義久は京へ向かう。そして、9月に入京した。その後、島津義弘(よしひろ)まで上洛した。島津義弘は「名代」でもあり、第二の当主のような立場にあった。当主も名代も国許を不在に。家臣団の所領がどうなるかも不透明で、島津氏領内は混迷の中にあったと思われる。
天正16年(1588年)10月頃に島津義久が帰国。老亀大明神の墨書材が書かれたのは、その直後のことである。日付は天正17年(1589)2月29日だという。島津義久が無事に帰国でき、とりあえず島津家に本領が安堵された、とする。このことに感謝して社殿が造られることになった、と。
しかしながら、その後の加治木は波乱が続いた。
天正18年(1590年)に加治木領主の肝付兼寛が32歳の若さで没した。
文禄4年(1595年)に加治木は召し上げられ、豊臣家の蔵入地となる。肝付氏は所領替えとなり、薩摩国喜入(きいれ、鹿児島市喜入)へと移された(喜入肝付氏)。
慶長4年(1599年)、加治木は再び島津家のものになる。朝鮮での活躍の恩賞として与えられた。
<参考資料>
『加治木郷土誌』
編/加治木郷土誌編纂委員会 発行/加治木町 1966年
『姶良市デジタルミュージアム』(姶良市運営のWebサイト)
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年
鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 家わけ 二』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 出版/鹿児島県 1991年
『「不屈の両殿」島津義久・義弘 関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』
著/新名一仁 発行/KADOKAWA 2021年
ほか