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玉繁寺跡(喜入肝付家墓所)、小松清廉(小松帯刀)の父も眠る

玉繁寺(ぎょくはんじ)は鹿児島市喜入町の旧麓(もとふもと)にあった。喜入肝付氏(きいれきもつき)の菩提寺で、一族の墓所がある。

喜入肝付氏は文禄4年(1595年)から明治初頭の版籍奉還まで、喜入の領主であった。薩摩藩(鹿児島藩)の家老も出している。ちなみに、幕末に活躍した小松清廉(こまつきよかど、小松帯刀、たてわき)もこの一族の出身である。

 

明治時代に玉繁寺は廃寺に。跡地は共同墓地や畑地となっている。ただ、高台のほうに登っていくと、喜入肝付氏累代の墓所が今もある。

 

 

 

 

喜入肝付氏とは

肝付氏は大隅国高山(こうやま、鹿児島県肝属郡肝付町)を拠点に大きな勢力を持っていた一族である。その歴史は11世紀頃まで遡る。戦国時代には肝付兼続(きもつきかねつぐ)・肝付良兼(よしかね)が大隅半島を制圧。薩摩国から勢力を広げてきた島津氏と勢力争いを展開したが、天正2年(1574年)に肝付氏は島津氏に降った。

 

この高山の肝付氏と、喜入肝付氏とは別系統の一族である。

「島津家に敗れた肝付家が喜入領主になった」と勘違いされていることも少なくないように思う。同族ではあるものの、たどってきた歴史はまったく異なる。

 

喜入肝付氏は15世紀に高山の肝付氏から分かれた。文明6年(1474年)に兄弟で争いがあり、三男の肝付兼光が高山の家から離れる。そして、島津家に仕えた。その孫にあたる肝付兼演(かねひろ)は大隅国加治木(かじき、鹿児島県姶良市加治木)に移り、島津勝久(しまづかつひさ、島津氏14代当主)の家老にもなった。加治木を拠点としたことから「加治木肝付氏」「加治木肝付家」と呼ばれる。


その後、島津貴久(たかひさ)と対立するが、天文18年(1549年)の「黒川崎の戦い」のあとに帰順する。これ以降、加治木肝付氏は島津家の有力家臣として活躍する。肝付兼盛(かねもり、兼演の嫡男)は島津貴久・島津義久(よしひさ)の家老も務めた。

そして、文禄4年(1595年)に豊臣秀吉の命令で、島津氏領内では大幅な所領替えが実施された。加治木肝付氏も加治木から薩摩国喜入に移ることになった。これ以降、「喜入肝付氏」「喜入肝付家」と呼ばれる。


加治木肝付氏(喜入肝付氏)の詳細はこちらの記事にて。

rekishikomugae.net

 

 

玉繁寺跡へ

大隅国の加治木日木山(ひきやま、姶良市加治木町日木山)にあった「日木山玉繁寺」を前身とする。文禄4年(1595年)の肝付氏移封の際に、菩提寺である玉繁寺も喜入に移設された。喜入では「鶴頭山不動院玉繁寺」と号した。

 

喜入の旧麓は武家町の風情を残す。文化庁の日本遺産に「薩摩の武士が生きた町~武家屋敷群「麓」を歩く~」の構成資産のひとつとして認定されていて、散策しやすく整備されている。

旧麓のメインストリートを南のほうへ行くと、玉繁寺跡にいたる。入口のやや南には観光用の駐車スペースもある。

看板があるので、そこを入っていく。共同墓地の脇の道を登って奥へ。雨の降る中での訪問だったので、足もとに気をつけながら。

玉繁寺跡の入口

共同墓地の前に看板がある

 

上のほうにいくと、ガラリと雰囲気がかわる。寺院の痕跡はけっこう残っている。

 

古びた石段を登る

参道の奥はこんな感じに

 

参道に沿って段差が設けられていて、墓石がたくさん並んでいる。歴代当主の墓、その家族の墓など。住職の墓と思われるものもあった。墓石の造りもいろいろである。戦国時代の頃の様式や江戸時代の様式などが確認できる。

 

最上段のほうへ。

石段を登ってさらに上へ

参道を進む

 

苔むした石垣がある。寺院のものだろう。首のない石仏もある。明治の法難で破壊されたのだろう。

石垣と墓塔と仏像

最上段へ

 

石仏の後ろ側の石段をさらに登る。最上段には肝付兼伯(かねたか、喜入の当主となって8代目)の墓があった。

 

墓塔が3基ある

肝付兼伯の墓(写真の右手前)

 

こちらは上から2段目(石仏のある段)。肝付久兼(ひさかね)・肝付兼逵(かねみち)・肝付兼柄(かねえだ)の墓がある。肝付領主としては5代目~7代目だ。

寺院跡の風景

墓塔が並ぶ

 

上から3段目には肝付兼満(かねみつ)・肝付兼般(かねつら)・肝付兼善(かねよし)・肝付兼両(かねふる)の墓などが並ぶ。喜入領主の肝付家の9代~12代だ。ちなみに、肝付兼善が小松清廉(小松帯刀)の父である。そして、肝付兼両は兄にあたる。

 

上から4段目には住職の墓があり、5段目には肝付兼武(かねたけ)・肝付兼屋(かねいえ)の墓がある。3代目と4代目だ。

墓塔が並ぶ

こちらに古い時代の墓も

 

喜入肝付家の墓所は手入れが行き届いていて、大事にされている印象だった。

 

 

肝付兼善(小松帯刀の父)の墓

小松清廉(小松帯刀)は、もとの名を「肝付兼戈(かねたけ)」という。肝付兼善(喜入領主となって11代目)の四男である。薩摩国吉利(よしとし、鹿児島県日置市日吉町吉利)領主の小松家に養子入りし、こちらの家督をついでいる。


肝付兼善の墓は上から3段目の真ん中あたりに。墓塔には「山翔建雄命」とある。没年は明治9年(1876年)のことで、墓石は神道式のものである。

 

神道式の墓塔

肝付兼善の墓(右手前)

墓石の刻字

側面には「肝付了山伴兼善」の文字もある

 

 

小松清廉(小松帯刀)の母(肝付兼善の後室)の墓もある。号は「大直日豊照姫」。

 

墓石が並ぶ

肝付兼善後室の墓(左手前)

 

 

薩摩武士の気風が残る素敵な場所だ、この喜入旧麓は。まだ見ていなところもあるので、また訪れる機会をつくろうと思う。もうちょっと散策してみたい。

 

喜入についてはこちらの記事でも。

rekishikomugae.net

 

 

 

 

<参考資料>
鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 家わけ 二』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 出版/鹿児島県 1991年

『喜入町郷土誌』
編/喜入町郷土誌編集委員会 発行/喜入町 2004年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

ほか