ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

『現代語訳 上井覚兼日記』(著/新名一仁)、島津家の動きとか戦国武将の日常が見える

上井覚兼(うわいかくけん)は、島津義久(しまづよしひさ)の老中を務めた。この人物の日記が残っている。『上井覚兼日記』という。 『上井覚兼日帳』『上井伊勢守日帳』『伊勢守日記』とも呼ばれる。

自筆本と思われるものが現存していて、東京大学史料編纂所が所蔵。もともとは島津家が持ってのもので、こちらに移されている。国の重要文化財にも指定。日記は天正2年(1574年)8月~天正3年(1575年)4月、天正3年11月~天正4年(1576年)1月、天正4年8月~9月、天正10年(1582年)11月~天正14年(1586年)10月と断片的に残っている。

天正10年11月以降の日記の現代語訳を新名一仁(にいなかずひと)氏が手がけ、これまでに全4巻が刊行されている。

 

現代語訳上井覚兼日記

 

九州全域に勢力を広げつつある頃の島津家の動きや内情を知ることができる。また、当時の武士の日常も見える。

あと、やたらと酒を飲んでいる。誰と飲んだか、料理の様子も細かく記されている、ほかに連歌や蹴鞠、茶の湯の話なんかも出てくる。碁や将棋をしたり、狩とか地引網とかも。人間関係もよく見えて面白い。

一級史料だ。これを現代語訳で読めるのだ。

 

 

 

 

 

 

なお、日記の日付は旧暦。

 

上井覚兼とは

上井覚兼は天文14年(1545年)2月11日生まれ。誕生地は大隅国の上井(鹿児島県霧島市国分上井)。父は上井薫兼、母は肝付兼固の娘。初名は「為兼」といった。通称は「神左衛門」、のちに「伊勢守」。なお、「かくけん」という名の読みは通説で、正確なところはわからない。

上井氏は大神(おおみわ)姓の諏訪氏を称する。諏訪大祝(すわおおほおり)を祖とする系図が伝わるが、真偽のほどは何とも言えないところ。名乗りは上井に住んだことから。この地に入ったのはいつ頃なのか定かではない。なお、江戸時代になると上井氏は「諏訪」に名乗りを改めている。

天文22年(1553年)に父が薩摩国永吉(鹿児島県日置市吹上町永吉)の地頭となったことから、こちらへ移り住む。永禄2年(1559年)に元服して島津貴久(たかひさ)に仕えた。初陣は永禄4年(1561年)の大隅国廻(めぐり、鹿児島県霧島市福山町)の戦いだった。

島津義久の代になって、上井覚兼の活躍も目立つ。菱刈攻めや大隅攻略、高城合戦(耳川の戦い)、肥後攻略戦、筑後攻め、豊後攻めなどに従軍する。

天正元年(1573年)に島津義久の奏者(取次役)に任じられる。天正4年(1576年)から老中。天正8年(1580年)に日向国宮崎の地頭に任じられて宮崎城(宮崎市池内町)に入る。

島津家が豊臣家に降ったあとは薩摩国伊集院(鹿児島県日置市伊集院)に移る。天正17年(1589年)に伊集院で没。

 

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日記の解釈は難しい

『上井覚兼日記』は、鹿児島県史料の『旧記雑録後編一』にも収録されている。これは伊地知季安(いじちすえよし)による写し。翻刻された原文をこちらで読むこともできる。

www.pref.kagoshima.jp

 

とはいえ、日記の解釈というのは難しい。現代語訳するだけでは、よくわからないのだ。一つ一つの言葉が何を意味するのか、登場人物の特定や場所の特定も容易ではない。それらが何かを判断するには、書き手をとりまくいろいろな事情を知っている必要がある。上井覚兼はいかなる立場で、その頃の島津家の状況はどうなのか、周囲にいかなる人物がいるのか、といったところを。

著者の新名一仁氏は歴史学者で、中世から近世にかけての南九州の歴史を専門に研究。戦国時代の島津氏に一番詳しい人だ、と思う。

そんな新名氏による『上井覚兼日記』の現代語訳は精度の高いものとなっている。また、訳注や解説文も丁寧でわかりやすい。上井覚兼の日記を通して、戦国時代の島津氏を深く知ることができる。

また、政治向きのことではないエピソードにも面白いものが多い。ネタの宝庫なのだ。

 

 

各巻の内容

『現代語訳 上井覚兼日記』全4巻は、天正10年(1582年)11月~天正14年(1586年)10月のことを記す。島津氏が九州全土へ勢力を広げる時期と重なる。

この頃の情勢は、豊後国を拠点とする大友義鎮(おおともよししげ、大友宗麟、そうりん)・大友義統(よしむね)、肥前国佐嘉(さが、佐賀市)を拠点とする龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)・龍造寺政家(まさいえ)、そして島津氏の三大勢力が鎬を削る。

九州では大友氏が圧倒的な存在であった。しかし、天正6年(1578年)の高城合戦(耳川の戦い)で島津氏が大友氏に大勝すると、島津氏が勢いづき、龍造寺氏も一気に勢力を拡大する。やや力を削がれたとはいえ大友氏も依然として力を保っている。

島津氏・龍造寺氏・大友氏の三つ巴の争いは島津氏が制していくことになる。そこに中央で覇権を掌握した豊臣秀吉が介入してくる。

 

 

1巻

現代語訳 上井覚兼日記1
天正十年(一五八二)十一月~天正十一年(一五八三)十一月
著/新名一仁 発行/ヒムカ出版 2020年

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現代語訳 上井覚兼日記: 天正十年(1582)十一月~天正十一年(1583)十一月

 

天正10年(1582年)11月より島津忠平(ただひら、島津義弘、よしひろ)が肥後国八代(熊本県八代市)に入る。上井覚兼もこれに従う。肥後国では阿蘇氏が龍造寺氏と結んで反抗。島津氏は八代を拠点に、肥後攻略を進めた。阿蘇家重臣の甲斐宗運(かいそううん、甲斐親直)に島津側も難儀もしている。また、肥前国島原(長崎県島原市・南島原市)の有馬鎮貴(ありましげたか、有馬晴信、はるのぶ)は龍造寺氏から離反し、島津氏と結ぶ。有馬氏の要請で島津氏は島原へも出兵している。

 

【書かれていることあれこれ】

◆天正10年12月18日、有馬鎮貴(ありましげたか、有馬晴信、はるのぶ)の支援について話し合い。この中で島津家久(いえひさ)が有馬氏との「取次」であることも書かれている。

◆天正11年1月14日、上井覚兼が薩摩国市来の「湯の村」で湯治。湯之元温泉(鹿児島県日置市東市来町湯田)だと思われる。

◆天正11年6月1日、折生迫(宮崎市折生迫)で不漁の訴えがあったので、天神を建立する。「なべて世を救ハんとてハ魚にだになれるを神のこゝろとぞ聞」など二首の和歌を奉納。

◆天正11年6月3日、江田(宮崎市阿波岐原町)で地引網を楽しむ。

◆天正11年6月21日、「火玉などと世間が呼んでいるものが飛来した」と下々の者が言う。占いをさせ、凶事避けの札を西方院からいただく。

◆天正11年6月23日、佐土原(宮崎市佐土原町)で島津家久が大中公(島津貴久)の十三回忌をする。ここで能が奉納される。島津家久の御子息兄弟が鼓や大鼓を打ったり。のちの島津豊久(とよひさ)と東郷重虎(とうごうしげとら)で、このとき14歳と10歳。

◆天正11年9月11日、平川原(熊本県八代市本町)の島津家久の宿に参上。茶の湯となり、島津家久がみずから茶をたててくれた。

◆天正11年11月21日、大明友賢(江夏友賢、こうかゆうけん)に占ってもらう。老中辞職を願い出ているが、うまくいかないことについて。占いの結果は「徐々に辞職願をするのがいいだろう」と。

 

 

2巻

現代語訳 上井覚兼日記2
天正十二年(一五八四)正月~天正十二年(一五八四)十二月
著/新名一仁 発行/ヒムカ出版 2021年

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現代語訳 上井覚兼日記 (2)

 

阿蘇氏との和睦を模索するが、結局は手切れとなる。また秋月種実(あきつきただねざね)が龍造寺氏の和睦を提案し、その仲介を買って出る。島津家でも乗り気だったが、実現はしなかった。島津家では有馬鎮貴(有馬晴信)の本格的な支援を決定。島津家久を大将として島原へ派兵した。島津義久も後詰として肥後国の佐敷(熊本県葦北郡芦北町)まで出陣する。上井覚兼も佐敷に参陣している。そして、天正12年(1584年)3月24日には島原合戦(沖田畷の戦い)。島津・有馬連合軍が勝利する。龍造寺隆信も討ち取る。このあと、九州の情勢も動いていくことに。

 

【書かれていることあれこれ】

◆正月、初詣は奈古八幡(奈古神社、宮崎市南方町)。正月料理に「鯛の蓬莱」。新年の発句も恒例で、この年は「春のくる道もまどハぬ今年かな」と読む。上井覚兼は40歳になる。不惑の年だ。

◆1月29日、島津忠長(ただたけ)が風呂を焼く(蒸し風呂みたいなもの)。誘われて入る。

◆3月17日、島原攻略で上井覚兼も佐敷へ参陣。遅れて島津義久に怒られる。

◆3月25日に島原から佐敷に書状が届き、増援を求められる。派兵準備をしていたところ、今度は大勝利の報が入る。前日の3月24日に合戦は終わっていた。26日には龍造寺隆信の首が佐敷に届く。

◆4月21日、家久公御子息が元服した、という情報を聞く。島津忠豊(島津豊久)のこと。

◆5月5日の節句。粽(ちまき)を肴に酒を飲む。

◆6月18日、伊集院忠棟(いじゅういんただむね)に立花(生け花)を誘われる、「稽古だ」と。デキの良くない作品をあとから来た島津忠長に見られる。「まことに恥ずかしかった」と。

◆10月8日、伊集院忠棟から珍しい茶の湯釜を見せられる。編笠のように見える霰の釜だった。
◆10月24日、有馬鎮貴(有馬晴信)から南蛮犬をもらう。珍しがって見物に訪れる者が多かった。島津義虎と島津忠長も犬を見にきた。犬をながめながら酒宴。

◆11月30日、南蛮犬を島津義久に献上。島津義久が所望してのことだったが、占いで「良くない」と出て、上井覚兼が飼うことになった。

◆12月12日、加治木城(鹿児島県姶良市加治木町)に招かれる。城主の肝付兼寛(きもつきかねひろ)は上洛から戻ったあと。酒宴で京の話を聞く。京土産の筒椀をもらう。ちなみに肝付兼寛は、上井覚兼の母方の従兄甥にあたる。

 

 

3巻

現代語訳 上井覚兼日記3
天正十三年(一五八五)正月~天正十三年(一五八五)十二月
著/新名一仁 発行/ヒムカ出版 2023年

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現代語訳 上井覚兼日記 (3)

 

島津氏は大友氏や龍造寺氏との対応に追われる。結果的に龍造寺氏は島津氏の傘下に入る。大友氏とは天正8年(1580年)に織田信長の仲介で和睦を結んでいたが、こちらとの関係は悪化する。また、この年に島津氏は阿蘇氏を攻略する。九州は島津一強の様相に。勢いづく島津と、なんとか生き残り図りたい大友。そんな構図となる。一方、上方では羽柴秀吉が一気に覇権を確立しつつあった。そして、四国を攻略したという情報も伝えられる。さらには、次は九州に攻めてくるだろう、という噂も。また、島津家久は「豊後侵攻を急ぐべき」と考え、その実現のために勝手に謀略をめぐらしたりもしている。


【書かれていることあれこれ】

◆4月14日、吉利忠澄(よしとしただすみ)らと狩を楽しむ。上井覚兼がイノシシを射たところ、そのイノシシが吉利忠澄に襲いかかった。3ヶ所噛まれる。吉利忠澄は「痛くない」と言っていた。

◆4月25日、島津忠平(島津義弘)の御子息兄弟が元服したことを聞く。名は「島津又一郎久保(ひさやす)」と「島津又八郎忠恒(ただつね)」となった、と。島津久保の理髪役は島津家久、島津忠恒の理髪役は町田久倍が務めたとも。また、島津義久もお祝いに来て、御腰物(刀)を賜ったとも。

◆5月15日、犬飼滝(鹿児島県霧島市牧園町下中津川)を見に行く。ここで荷物持ちとはぐれてしまう。ただ、この状況を面白がっている様子で、心情を歌に詠んだりしている。

◆5月16日、荷物持ちと栗野(鹿児島県姶良郡湧水町)で合流。飯野(宮崎県えびの市)へ。島津忠平(島津義弘)に「名代」就任祝いの進物を贈る。元服した島津久保・島津忠恒にも贈り物をする。

◆8月5日、島津義久が「羽柴秀吉がすぐに四国を攻略する」と予測。「そのあとは九州に派兵するだろう」とも。日向国の地頭衆で談合して手立てを考えるように、と上井覚兼に命じる。その後、佐土原の島津家久のもとで談合。

 

 

4巻

現代語訳 上井覚兼日記4
天正十四年(一五八六)正月~天正十四年(一五八六)十月
著/新名一仁 発行/ヒムカ出版 2025年

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現代語訳 上井覚兼日記 (4)

 

島津氏と大友氏の対立は決定的となり、島津家中の意向は豊後攻略へと傾いていく。一方で、大友氏は関白となった豊臣秀吉に援助を求める。豊臣秀吉は停戦命令を出し、国分け案を提示してくる。島津はこれを拒否する。島津氏は筑紫方面への派兵し、上井覚兼も従軍する。天正14年(1586年)9月、豊臣秀吉の軍勢が九州に入る。10月に島津義久は豊後出兵を決定。島津忠平(島津義弘)と島津家久を大将として攻めることに。10月15日、上井覚兼も出陣する。日記はそこまで。

 

【書かれていることあれこれ】

◆1月23日の談合で、前年冬に届いたという豊臣秀吉の書状について話し合われる。細川玄旨(細川藤孝、ほそかわふじたか)と千宗易からも書状あり、と。内容は、停戦命令である。「由来無き仁(素性が分からない人物)」を関白として扱うのはばかばかしい、という意見も出た。

◆豊臣秀吉への返書の内容が日記に記されている。「織田信長公と前関白近衛前久の仲介で大友と和平が市立して以来、島津家は大友家に敵対したつもりはない。大友のほうが和平を破るようなことをしている」といったことを訴える。

◆3月18日、近衛信輔(このえのぶすけ)の使者が宮崎に寄る。上井覚兼あての書状あり、内容は屋敷建築のための資金の無心。同様の書状が島津家の重臣にばらまかれていたようだ。

◆5月22日、鎌田政心を宮崎に招く。鎌田政心は豊臣秀吉に島津家の返書を届けて、日向に帰ってきたところだった。豊臣秀吉との謁見の様子や言われたこと、などについて話を聞く。国分け案についても話に出る。京土産として指懸(弓懸か)と越布(越後の上等な布)をもらう。

◆上井覚兼は筑紫に出陣する。7月27日、岩屋城(福岡県太宰府市浦城)を攻める際に、上井覚兼は顔面に鉄砲一発被弾。

◆8月17日、島津忠平の改名について聞く。公方様(足利義昭)から一字を賜り、「島津義珎(よしまさ)」と名乗ることになった、と。

◆9月28日、縣(宮崎県延岡市)から書状にて「千斛権兵衛(せんごくごんべえ)が四国から豊後に入った」という情報が入る。仙石秀久(せんごくひでひさ)のことである。

 

 

このあと、島津氏は大友氏領内に攻め込むが、豊臣軍の大軍勢と戦うことになる。

 

 

新名一仁氏のほかの書籍についても記事あります。

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