ムカシノコト、ホリコムヨ。

おもに鹿児島あたりの歴史を掘りこみます

精矛神社にお詣りした、戦乱を駆け抜けた島津義弘を祀る

精矛神社(くわしほこじんじゃ)は鹿児島県姶良市加治木町日木山にある。御祭神は「精矛巖健雄命(くわしほこいづたけおのみこと)」。島津義弘(しまづよしひろ)である。

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精矛神社

 

島津義弘は戦国時代の名将として知られる。兵力差の不利をひっくり返した「木崎原の戦い(1573年)」や「泗川の戦い(1598年)」、壮絶な退却戦を繰り広げた「関ヶ原の戦い(1600年)」など、数々の武功にその生涯は彩られているのだ。

加治木は島津義弘が最晩年の過ごした場所である。慶長12年(1607年)から逝去する元和5年(1619年)まで、大隅国加治木の加治木館(かじきやかた、加治木町仮屋町)に住んだ。

 

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島津義弘の御影像(生前の姿を再現した彫像)は2体つくられていて、1体は薩摩国伊集院の妙圓寺(みょうえんじ、場所は鹿児島県日置市伊集院)に、もう1体は加治木の本誓寺(ほんせいじ、姶良市加治木町反土)に納められたという。

本誓寺は明治時代初めに廃寺となる。明治2年(1869年)、本誓寺の役割を引き継いで島津義弘を祀る神社が創建された。それが精矛神社である。当初は加治木館跡(現在は護国神社がある)に鎮座。大正7年(1918年)に「島津義弘公生誕三百年祭」が行われたことにあわせて、現在地へ遷座している。


境内を歩いてみる

場所はJR加治木駅から徒歩10分ほどのところ。駅正面の道を東のほうへいき、日木山川に架かる橋をわたると踏切がある。踏切の向こう側に「精矛神社」の看板と参道が見える。車の場合も同じルートで行くといい。

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精矛神社の入口

精矛神社の境内は、加治木島津家(島津氏の分家)の別邸「扇和園」の跡地だ。古くは島津義久の御行館(加治木を訪れた際に滞在する)があった場所でもある。

鹿児島の神社

石段横の古そうな石垣、扇和園のものか?

石段を上がると広場がある。そこが扇和園の地形の名残らしい。さらに山のほうを整備して精矛神社の本殿・拝殿が建てられたそうだ(宮司さんの話による)。

鳥居や本殿など、大正7年遷宮時のものがそのまま残されている部分も多い。年月を経てきたことによる渋みがある。個人的に好きな雰囲気だ。境内や参道には桜の木も。満開の時期には大いに目を楽しませてくれるのである。

鹿児島の神社

石段を登って広場に出る

 

境内にはNHK大河ドラマ西郷どん』のロケが行われたことを写真で紹介するパネルもある。「妙円寺詣り」のシーンがここで撮影されたとのこと。

妙円寺詣り」というのは、関ケ原からの帰還の苦労をしのんで島津義弘を詣でるというもの。関ヶ原の戦いのあった旧暦9月15日(現在は10月に開催)に伊集院の妙圓寺を目指すのである。この行事は現在も続いている。

前述したとおり、精矛神社の前身である本誓寺にも島津義弘の御影像があった。かつては「本誓寺詣り」も行われていたという。

 

鹿児島の神社

鳥居の奥にさらに石段、登ると本殿

鹿児島の神社

顔はめパネルもあるぞ


最上段に本殿。木々が空間を包み込み、おごそかな雰囲気なのだ。大きな御神木もある。

鹿児島の神社

拝殿前

鹿児島の神社

立派な石燈籠、写真奥に御神木

 

奥のほうには石の何かがある。島津義弘が朝鮮から持ち帰ったとされる石臼と手水鉢だ。これらは船の重石として利用された。行きは武器・兵糧・軍馬を満載して海を渡るが、帰りは積み荷が少ない。船が軽すぎると安定しないので、重さを加えたのである。当初、加治木館西之丸(柁城小学校や加治木郷土館のあるあたり)の庭に置いてあった。それが加治木館東之丸(護国神社)の「義弘公薨去之地碑」のあたりに移され、さらに精矛神社遷座の際に今の場所に持ってきたのだという。

鹿児島の神社

朝鮮から持ち帰った石臼と手水鉢

 

「経塚」というものもある。吉祥寺(場所は現在の錦江小学校)の松岳全龍和尚が朝鮮に出陣した将兵の武運長久を祈願するために、慶長3年(1598年)から慶長12年にかけて法華経13000部を読経した。そのことを記念して建てられたもので、当初は吉祥寺の庭にあった。碑文は南浦文之(なんぽぶんし)による。「伏願慶生丁未身心堅固、家國豊穣、武運享通、子孫昌盛奉読誦、法華妙典一万三千部、檀越島津十七代藤原義弘敬白、元和二年丙辰仲春時正之日、読誦沙門藤堂松岳」と記されている。

鹿児島の神社

経塚

 

何やら新しいものもある

2019年の「島津義弘公没後400年記念事業」により新たに整備されたものもある。

御神木の近くには新しい感じの「祖霊殿」がある。これも再建された。加治木島津家代々の先祖が祀られている。ちなみに加治木島津家は、島津忠朗(ただあき、島津義弘の孫)が島津義弘遺領の加治木を引き継いだことに始まる。分家の中でもっとも家格の高い「御一門」のひとつで、島津宗家の当主を出せる家柄でもある。

鹿児島の神社

歴史を感じさせる鳥居と、真新しい祖霊殿

 

本殿脇からは「義弘公ゆかりの小径」がのびる。石碑が並び、それぞれで加治木に伝わる島津義弘にちなむものが紹介されているのだ。茶器片などを埋葬した「茶器供養碑」、島津義弘の愛馬をしのぶ「膝跪騂(ひざつきくりげ)の碑」、ほかに「龍門司焼」「加治木まんじゅう」「欄干橋」「クモ合戦」「灰汁巻き(あくまき)・蜂蜜」「吉左右踊り(きそおどり)」「太鼓踊り」の碑がある。

鹿児島の神社

「義弘公ゆかりの小径」

 

「猫塚」というものも。島津義弘朝鮮出兵に7匹の猫を連れていった。各部隊に猫をあずけ、猫の目を見て時刻を判断したのだという。猫は5匹が戦死、2匹が生還した。また、島津久保(ひさやす、島津義弘の子、宗家の後継者に指名されていたが朝鮮で病没した)のもとに置かれた猫は「ヤス」と名付けられてかわいがられていた。ヤスは茶虎柄の毛色であった。そのため鹿児島県内では茶虎柄の猫を「ヤス猫」という。

鹿児島の神社

猫塚

 

「義弘公ゆかりの小径」を抜けると稲荷神社がある。もともとは東京都渋谷区の玉里島津家(島津久光がおこした分家)邸宅で祀られていた。島津義弘公没後400年を機に「お稲荷様を義弘公のもとにお返ししたい」と玉里家から申し出があって精矛神社境内へ遷されることになった。

鹿児島の神社

稲荷神社、社殿は玉里家の設計図をもとに新築

鹿児島の神社

お社を守るのは木彫りの狐

 

御神体は京の伏見稲荷大社より勧進したもので、島津義弘はお稲荷様を肌守りとして携行していた。二度の朝鮮出兵にも持っていっている。島津義弘摂津国兵庫湊本陣(現在の兵庫県神戸市兵庫区)に立ち寄った際に、定宿「小豆屋」の主人(畠山家)にお稲荷様を預けた。畠山家では神社を建てて大切に祀っていた。時代が下って、明治6年1873年)に島津久光が小豆屋に宿泊した。そのときに、畠山家から「お稲荷様を島津家にお返ししたい」と申し出があって引き受けることになったのだという。

鹿児島の神社

稲荷神社の参道

 

島津義弘の略伝

島津義弘は天文4年(1535年)の生まれ。15代当主の島津貴久の次男で、兄に16代当主の島津義久(よしひさ)、弟に島津歳久(としひさ)・島津家久(いえひさ)がいる。初名は「忠平(ただひら)」。のちに足利義昭より偏諱をたまわって天正14年(1586年)に「義珍(よしたか)」、天正15年(1587年)に「義弘」と改名する。また、慶長4年(1599年)に剃髪し「惟新」と号した。

島津義弘の生涯は戦乱の真っ只中にあった。

天文23年(1554年)、大隅国帖佐郷の岩剣城(いわつるぎじょう、場所は鹿児島県姶良市平松)攻めで初陣を飾る。落城後は岩剣城の城番を命じられ、山城麓の平松城を居館とする。その後、蒲生城(かもうじょう、姶良市蒲生)攻撃にも参加する。

 

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永禄3年(1560年)、豊州家(ほうしゅうけ、島津氏分家のひとつ)の島津忠朝(ただとも)の養子となる。豊州家が守る日向国飫肥(おび、宮崎県日南市)に入り、伊東氏への備えとした。

永禄五年(1562年)、養子縁組を解消して飫肥より鹿児島に戻る。大隅国横川(よこがわ、鹿児島県霧島市横川)の戦いに従軍。

永禄7年(1564年)、日向国真幸院(まさきいん、宮崎県えびの市のあたり)の領主となる。飯野城(いいのじょう)を居城とする。

永禄9年(1566年)、日向国真幸院の三ツ山城(みつやまじょう)の伊東氏と戦う。島津義久が大将を、島津義弘と島津歳久が副将を務めた。

永禄10年(1567年)、大隅国菱刈(ひしかり、鹿児島県伊佐市菱刈)などを領する菱刈氏との戦いに参加。島津義弘は馬越城(まごしじょう、伊佐市菱刈前目)を落とすなど活躍する。永禄12年(1569年)に菱刈氏は降伏。

元亀3年(1572年)、木崎原の戦い。伊東氏が3000の兵で真幸院に侵攻してきた。島津義弘の手勢は300ほど。伊東軍は手薄な加久藤城(かくとうじょう)を攻めるが落とせず。退却したところへ島津軍が襲いかかった。島津方は寡兵ながら挟み撃ちの形となり、伊東軍は壊滅する。

天正4年(1576年)、島津義久が大軍を率いて日向国諸県郡の高原城(たかはるじょう、場所は宮崎県西諸県郡高原町)の伊東氏を攻める。島津義弘も飯野より出撃し、攻め手に加わった。その後も島津軍の主力として攻略をすすめ、天正5年(1577年)に伊東氏は豊後国(現在の大分県)の大友義鎮(おおともよししげ、大友宗麟、そうりん)のもとに逃亡する。島津氏は日向国を手中におさめた。

天正6年(1578年)、高城川の戦い(耳川の戦い)、大友義鎮(大友宗麟)が日向国に侵攻したことをきっかけに、大友氏と島津氏の大決戦となる。この中で島津義弘は主力として戦った。結果は島津側の大勝に終わる。

天正9年(1581年)、島津氏は肥後国水俣城(みなまたじょう、熊本県水俣市)の相良氏を攻める。島津義弘も参加。相良氏を降伏させる。

天正10年(1582年)、肥後方面の攻略のために島津義弘肥後国八代(やつしろ、熊本県八代市)に入る。翌年、真幸院に戻る。

天正12年(1584年)、沖田畷の戦い。有馬氏の救援要請を受けた島津氏が肥前国島原(長崎県島原市)に出兵。龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)の軍を迎え撃った。島津義弘肥後国佐敷(さしき、熊本県葦北郡芦北町)に入る。戦いは最前線にあった島津家久が敵軍を壊滅させ、龍造寺隆信を討ち取った。

天正13年(1585年)、島津義弘が再び八代に入る。また、守護代に任命される。島津義弘阿蘇氏を降伏させ、肥後国も島津氏が掌握する。

天正14年(1586年)、島津氏が大友氏領内へ侵攻(豊薩合戦)。島津義弘は肥後方面より北上する。この争いには豊臣政権が介入してくる。島津氏は豊臣秀吉の停船命令に従わず。

天正15年(1587年)、豊臣秀吉が九州へ大軍を派遣。豊臣軍の圧倒的な兵力を前に、島津氏は押されていった。当主の島津義久が降伏。島津義弘は抗戦の構えを見せるが、説得を聞き入れてこちらも降伏する。

豊臣政権下では島津義久は国許から出ず。対外的には島津義弘が対応することが多くなる。

天正18年(1590年)、居城を日向国真幸院の飯野城から大隅国栗野(くりの、鹿児島県姶良郡湧水町栗野)の松尾城(まつおじょう)に移す。

天正20年(1592年)、朝鮮へ出陣。

文禄4年(1595年)、朝鮮より帰国。栗野から大隅国帖佐(ちょうさ)の帖佐館(ちょうさかん、姶良市鍋倉)に居城を移す。

慶長2年(1597年)から翌年にかけて、二度目の朝鮮出兵。泗川(サチョン、しせん)の戦いでは、数倍(10倍以上とする史料もある)の兵力を持つ明・朝鮮連合軍を破る。島津義弘の朝鮮での活躍は評価され、得るもののなかった戦いにも関わらず加増を受ける。このときに豊臣家の直轄地とされていた大隅国加治木も与えられた。

慶長5年(1600年)、関ケ原の戦い。西軍に属す。島津領内での内乱もあって国許からは兵を出せず。1500騎ほどの寡兵で参戦する。決戦は半日で決着。島津隊は戦場に取り残された。島津義弘は正面に活路を見出し、大胆にも前方へ退却。徳川家康本陣をかすめて戦場から離脱した。その後、大坂で人質(妻など)を救出し、海路で九州へ向かった。

帰還した島津義弘は軍備を固めて徳川方の襲来に備えた。敵は攻めてこず、戦いはなかった。その後、島津義弘桜島に謹慎蟄居する。一方で島津義久島津忠恒(ただつね、のちに島津家久と改名、島津義弘の子、島津氏当主)は粘り強く交渉を続けた。慶長7年(1602年)に本領安堵を勝ち取った。

 

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島津義弘は隠居の身となり、慶長11年(1606年)に帖佐から平松へ移る。さらに慶長12年(1607年)に加治木へ移り、余生を過ごした。

 

 

<参考資料>
『三国名勝図絵』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『島津国史
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

鹿児島県史料集37『島津世家』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1997年

『加治木郷土誌』
編/加治木郷土誌編さん委員会 発行/加治木町長 宇都宮明人 1992年

姶良市誌史料 二
『加治木古老物語』『隅陽記』など収録
編/姶良市誌史料集刊行委員会 発行/姶良市教育委員会 2014年

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