鹿児島県霧島市国分に「台明寺(だいみょうじ)」という場所がある。その地名は、かつてあった「竹林山衆集院台明寺」という寺院に由来する。古刹である。
この地はかつての大隅国囎唹郡(そおのこおり)の清水(きよみず)のうち。台明寺については古い記録が残っている。その中には、島津忠久の願文もある。
日付については旧暦にて記す。
鎌倉で「比企能員の変」、そのとき島津忠久は……
島津氏の歴史は、12世紀末に惟宗忠久(これむねのただひさ)が南九州に所領を得たことに始まる。薩摩国・大隅国・日向国の守護職に補任。また、島津荘(しまづのしょう)の地頭職に補任され、これにちなんで島津氏を称した。その島津忠久(惟宗忠久)を島津氏の初代とする。
島津忠久は相模国鎌倉(神奈川県鎌倉市)に住み、任地には代官を派遣。いわゆる遙任であったが、大隅国を訪れたことをうかがわせる記録が『台明寺文書(臺明寺文書)』で確認できる。
ちなみに『台明寺文書』は、『島津家文書』に含まれるもの。東京大学史料編纂所に収蔵されていて、国宝にも指定されている。『台明寺文書』の一部は、鹿児島県史料『旧記雑録 前編一』などでも読むことができる
その記録というのは台明寺に納められた願文である。日付は建仁3年(1203年)10月19日。
奉立 大願事
可造立衆集院本堂壹宇事右、件本堂壹字、可奉造立之由、大願志者、左衛門尉惟宗忠久上洛問、爲無事安穏泰平、所奉立也、仍今度下向之時、早可令造進之状如件、
建仁三年十月十九日
左衛門尉惟宗(花押)(『臺明寺文書』より、鹿児島県史料『旧記雑録 前編一』に収録)
「上洛して無事でいられたのなら、台明寺に本堂を建てます」と願を掛けている。そして、のちに島津忠久は本堂を造立している。
台明寺を離れる際に島津忠久が納めたもの、ととらえることもできそうだ。もちろん、配下の誰かに願文を大隅まで届けさせた、という可能性もあるけれど。
同年9月2日に、鎌倉で事件が勃発。比企能員(ひきよしかず)の一族が、対立していた北条時政(ほうじょうときまさ)によって粛清された。「比企能員の変」である。
9月4日には、島津忠久は守護職と地頭職をすべて解任される。比企氏の縁者だったことから、連座によるものであった(『吾妻鏡』より)。
かなり厳しい処分だ。「比企の変」のとき、島津忠久は鎌倉を不在にしていたと思われる。もし、鎌倉に滞在していたとするなら、比企氏とともに討たれていたんじゃないか、と。
台明寺の願文の日付は10月19日である。守護職を解任されたあとのことである。任を解かれたあとに、わざわざ大隅国で願文を出すことはないはず。とすると、考えられる状況はというと、島津忠久が台明寺に来ていた、と。
「比企の変」のあった9月2日には、大隅国に滞在していたのではないだろうか。そうすると、鎌倉の変事を知るまで少し時間がかかる。で、知らせを受けたあとに願を掛けた、という感じか?
のちに島津忠久は許されて薩摩国の守護職と地頭職に復帰している。大隅国と日向国については回復がならず、こちらは北条氏の支配下となる。
島津忠久の台明寺での願掛けは成就した。そして、島津氏の歴史は長く長く続いていくことに。
台明寺と日枝神社(日吉山王社)の由緒
台明寺の開山年代は不詳。天智天皇が大隅国に巡幸して御勅願により創建した(7世紀半ば頃か)、とも伝わっている。「天智天皇が……」というのはあやしい感じもするが、古い寺院であることがうかがえる。当初は法相宗であったという。
長久2年(1041年)に大隅国の大介である惟宗某が台明寺の木を伐採することを禁じる沙汰を出した、という記録もある(『台明寺文書』より)。近い時代には、寺域で狩猟を禁じる沙汰も。
その後、天承年間から保延年間の頃(1131年~1141年)に行玄上人が重建して天台宗に改める。時代が下って、15世紀末から16世紀初頭頃に真言宗に改めたという。さらに享保11年(1726年)に再び天台宗となった。
台明寺の境内は郡田川(こおりだがわ)の渓谷沿いにあった。また、渓谷の北側の山を「青葉山」といい、ここに日吉山王社(日枝神社)が鎮座。台明寺の守護神とした。創建は天武天皇元年(673年)。御祭神は大己貴命(オオナムチノミコト)・大山咋命(オオヤマクイノミコト)など。本殿に3つの神輿を安置し、ここに21柱の神を祭ったという。
日吉社は比叡山の神様で、天台宗の寺院とあわせて山王権現として奉斎された。台明寺が天台宗の寺院として整備されていく過程で、神社のほうも成立していったものであろう。
台明寺の日吉山王社は、前身となる神社があったようにも思える。もともとは地域の古い神様が祀られていたのでは……? 「青葉山日吉山王地主権現」とも称したという。「地主権現」というのが気になる。
『三国名勝図会』には、日吉山王社と台明寺の絵図が掲載されている。
台明寺は明治2年(1869年)に廃寺となり、明治18年(1885年)の豪雨で山津波があって遺構もほとんどなくなってしまっている。一方で、神社のほうは昔ながらの姿をよく残しているようだ。
日枝神社を参詣する
郡田川沿いの道を上流に向かう。渓流沿いを進んでいくと。「台明寺跡」の看板があった。このあたりが寺院跡になるそうだ。
さらに上流のほうへ。朱の鳥居が目に飛び込んでくる。こちらが日枝神社(日吉山王社)の参道口だ。
なお、川沿いに車を停めるスペースがある。参道脇の道をのぼっていっても駐車スペースがある。
参道を登る。入口付近の岩の上には石灯籠もある。
参道脇に石造の何か。台明寺のものだろうか。
しばらく登ると門守神社が出迎える。
さらに登る。一気に雰囲気が変わる。参道脇にはクスの巨木。推定樹齢は800年ほど。島津忠久が寄進したものとも伝わる。
苔むした境内。水が流れる音も聞こえてくる
境内脇に祀られた神様も気になる。保食神社(ウケモチノカミ)とのこと。馬頭観音としても信仰されたそうで、島津義久が慶長年中(1596年~1615年)に牧場繁殖を祈願し、それから100年ほど馬の奉納が続いたという(現地の看板より)。
手水舎。竜の口が、妙に味わいがある。
石段を登って拝殿へ。
本殿は「七間社流造」という様式。一間社流造の七社を横に連続して造っているとのこと。建物は明治20年(1887年)の改築時のものと考えられている。
本殿の裏手に道が続いている。こちらには滝がある。「浄水滝(きよみずたき)」と呼ばれ、清めの水である。このあたりは「清水(きよみず)」という場所で、その地名の由来になっているとも。
古くは滝の上流に本殿があったという。水害で本殿が流されたために、正徳5年(1715年)に現在地へ移されたそうだ。
青葉の竹
拝殿の横には「青葉の竹」なるものも。「臺明竹」「台明竹」とも呼ばれる。また「青葉笛竹」「笛竹」とも。品種はカンザンチク(寒山竹、大名竹)。
台明寺の境内および周囲に自生する竹は、古来より笛の材料に適した名竹として知られていた。朝廷に献上されるもので、それ以外の目的で伐ることは禁じられている。『台明寺文書』にも笛竹を朝廷へ献上した記録がいくつか確認できる。
『古今要覧稿』にも「臺明竹」について詳しく解説されている。ちなみに、『古今要覧稿』は19世紀に幕臣の屋代弘賢(やしろひろかた)がまとめた類書(百科事典のようなもの)である。当初は個人で編纂していたものが、のちに幕府の事業として認められた。
『古今要覧稿』巻第三百六十九から、「臺明竹」の情報を列挙する。
◇「臺明竹」あるいは「大名竹」と称す。古名を「青葉笛竹」「笛竹」という。
◇大隅国囎唹郡清水郷臺明寺山中に産する。大隅国は温暖なので竹が一年中とれる。
◇臺明寺の境内に天延年間(973年~976年)に鋳造された鐘があり、その銘に「此山中竹、従天智天皇御宇剪為笛竹給其音清妙名謂青葉笛竹以来為笛竹貢御所」(天智天皇の御代から、この山の竹で作った笛がいい音がすると評判で、「青葉笛竹」といい、御所に貢いでいる)とあったという。
◇天智天皇が台明寺を訪れた伝説についても記される。
天智天皇太子にて筑紫へ御下向のとき此地へ過臨あり青葉竹を以て笛材の貢御所に定められしより笛竹の事につき或は天使(ちょくし)を遣され或は綸旨を給り在廳人及び臺明寺主僧へ下知し、竹林を愛護すべきの旨を諭され (『古今要覧稿』巻第三百六十九より)
また、こんなことも書かれている。出典元は百井塘雨(ももいとうう)の『笈埃随筆(きゅうあいずいひつ)』。
天智天皇が皇太子の頃に筑紫に6年ほど滞在し、九州を巡見して大隅国にやってきた。「笛をつくるのに良い竹はないか?」と民に問うと、青葉をつけたままの竹が差し出された。この竹で作った笛は素晴らしく、笛材の竹は青葉をつけたまま朝廷に貢納することになったという。
◇平敦盛(たいらのあつもり)が持っていた笛は、臺明竹(青葉笛竹)で作ったものだとも言われている。この笛は「青葉の笛」とも、「小枝(さえだ)」とも。ただし、『古今要覧稿』の中ではこの情報を「不審」とする。まず「青葉の笛」と「小枝」は別モノであるという。そして、「青葉の笛」と書かれた書物はないとのこと。
神武天皇の矢
『三国名勝図会』には「篠田(しのた)」というものも見える。絵図にも描かれている。
當寺境内にして、日吉社華表の近邊にあり、上古神武帝日向の國に在て東征したまふ時、御矢の箆出し所といひ傳ふ、今に篠竹の林藪なり、當寺は笛竹のみならず、太古より名産の竹あるを見るべし、 (『三国名勝図会』巻之三十二より)
日枝神社参道口近くには、「神武天皇腰掛岩」という看板がある。
ここを入っていく。草が伸び放題でたどり着くのはなかなかタイヘンであった。奥に岩があった。ここに神武天皇が腰掛けたとされる。
岩の近くには「神武天皇御駐蹕傳説地篠田」の碑もある。記念碑は昭和15年(1940年)に建てられたものとのこと。
<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 発行/山本盛秀 1905年
『旧記雑録拾遺 地誌備考六』
編/鹿児島県史料センター黎明館 発行/鹿児島県 2019年
『旧記雑録 前編一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1979年
『古今要覧稿 第五』
著/屋代弘賢 発行/国書刊行会 1906年
『国分郷土史』
編/国分郷土誌編纂委員会 発行/鹿児島県国分市立図書館 1960年
『国分郷土史』
編/国分郷土誌編さん委員会 発行/国分市 1973年
ほか