隼人はどこに行ったのか
大和朝廷の支配下に入った隼人の有力氏族はどうなったのか? 史料が乏しく、よくわかっていない。
なお、大隅の反乱(720年)以降に名が見える隼人の有力者としては、曾君多理志佐(そのきみたりしさ、か)がいる。天平12年(740年)に藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の反乱に関わっていることが『続日本紀』に記されている。
『薩麻國天平八年正税目録帳』という史料もある。正倉院に収蔵されていたもので、薩麻国(薩摩国)の天平8年(736年)の収支報告書の一部である。これは、公文書として国に保管されたのちに正倉院に払い下げられて裏紙として再利用したもの。そんな中で、たまたま文書が残されていたというわけだ。当時の様子が垣間見える面白い記録である。
『薩麻國天平八年正税目録帳』の中で確認できる人名を拾ってみた(名前の読みは正確にわからないものも多い)。
呉原忌寸百足
薩麻君福志麻呂
前君乎佐
薩麻君宇志々
肥君廣龍
曾縣主麻多
五百木部
大伴部足床
大伴部福足
薩麻君鷹■(■は文字不明)
加士伎縣主都麻理
建部神嶋
薩麻君須加
韓柔受郎
この中で、薩麻君(さつまのきみ)・前君(さきのきみ)・曾縣主(そのあがたぬし)・加士伎縣主(かじきのあがたぬし)は隼人の有力氏族である。とくに名が多く確認できる薩麻君一族は、かなりの勢力を持っていたことがうかがえる。
一方で、『古事記』や『日本書紀』などで名が出てくる阿多君(あたのきみ)の名は確認できない。阿多君が薩麻君と名乗りを変えた、という説もあるみたい。
これらの記録から、隼人系氏族は土地の有力者として引き続き存在していたことがわかる。平安時代中期以降の記録ではその存在が感じられないが、いなくなったわけではないはず。隼人の末裔は郡司や開発領主となったり、国から派遣されてきた有力者に仕えたりした、という可能性も考えられる。
なお、呉原忌寸百足は目(さかん、国司の四等官の4番目)で、大和朝廷から派遣された人物だろう。呉原忌寸(くれはらのいみき)は渡来系の東漢(やまとのあや)氏の系統である。韓柔受郎は史生(ししょう、国司の官僚)で、こちらも渡来系氏族だと思われる。
肥君(ひのきみ)は肥後国(現在の熊本県)の豪族である。五百木部(いおきべ)・大伴部(おおともべ)・建部(たけべ)も肥後にゆかりのある氏族だろうか。
中世以降に確認できる薩摩・大隅の有力氏族の出自はいろいろと伝わっているが、それらの家系図は鵜呑みにできない。家柄をよく見せるために「うちは平氏だ」とか「源氏の末裔だ」とか、あるいは「もともとは藤原姓」などと称するのだ。薩摩・大隅で栄えた一族の中には、有力氏族の家柄を語っているけどじつは隼人の流れをくむ者もありそうだ。あるいは姻戚関係を結んで同化した者もあっただろう。
写真は霧島市隼人町にある隼人塚。国史跡に指定されている。隼人の供養塔と伝わるが、平安時代の寺院跡など諸説ある。国分重久にも隼人塚の伝承地があり、江戸時代の地誌『三国名勝図会』ではこちらの説をとっている。
大隅に移住した秦一族
薩摩国や大隅国を設置した直後、大和朝廷は隼人の教化のために大規模な移住政策を実行している。以下は『続日本紀』より和銅7年(714年)の記録である。
隼人昏荒。野心未習憲法。因移豊前國民二百戸。令相勸導也。
(冒頭を「隼人民荒」とする資料もあった)
「隼人が言うこときかないから、豊前国(現在の大分県北部と福岡県東部)から200戸(5000人くらい)を移住させた」というものだ。豊前には渡来系の秦(はた)氏の民が大量に住んでいたという。大隅への移住者も、秦氏の一族だったと推測される。
秦氏は応神天皇の時代に渡来したという弓月君(ゆづきのきみ)を祖とする。弓月君は百二十県の民を従えたとされる。かなり大規模な集団移住だったこともあってか、秦氏は渡来系氏族の中でもとりわけ大きな勢力となった。なお、全国にやたらと数の多い八幡神社や稲荷神社は、秦氏との関りが深い。
和銅6年(713年)に大隅国が設置された当初は、肝杯郡・囎唹郡・大隅郡・姶羅郡の4郡が設置された。そこに桑原郡が新設される。桑原郡は囎唹郡の西部を割いて置かれた。その場所は、現在の鹿児島県姶良市、霧島市の国分(の一部)・隼人・牧園・横川・溝辺、姶良郡湧水町にあたる。桑原郡には大隅国府も置かれた。この桑原郡一帯に豊前国からの移民が住み着いたと考えられる。「桑原」という地名は豊前国内にもある。承平年間(931年~938年)に源順(みなもとのしたごう)が編纂した辞書『和名類聚抄』には桑原郡内の郷に「豊國」や「大分」という地名も確認できる。
また、豊前国には八幡宮の総本山である宇佐八幡宮(宇佐神宮)が鎮座する。そして、桑原郡には大隅正八幡宮(鹿児島神宮)が鎮座し、秦氏との関係の深さがうかがえる。
鹿児島神宮は彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコトと、山幸彦)と豊玉比売命 (トヨタマヒメノミコト)を主祭神としているが、品陀和気命(ホムタワケノミコト、応神天皇、八幡大神)をはじめとする八幡神もいっしょに祀る。
霧島市国分上井にある韓国宇豆峰神社(からくにうずみねじんじゃ)も和銅7年の大移住との関連性がうかがえる。豊前国香春(現在の福岡県田川郡香春町)の香春神社(かわらじんじゃ)と深い関わりがあるとも。御祭神は五十猛命(イソタケルノミコト)といい、辛島氏の祖神とされる。辛島氏は宇佐八幡宮(宇佐神宮)の社家で、秦氏との関りもあると思われる。
移住民のその後の動向はよくわからない。のちに大隅や薩摩に根付く豪族たちの中には、もしかしたら大隅に移住した秦氏からつながる者もいたのかもしれない。ちなみに島津氏は、もともとは秦氏後裔の惟宗(これむね)姓である。
薩摩国でも移住政策があったっぽい
『和名類聚抄』によると、薩摩国府のあった高城郡(現在の鹿児島県薩摩川内市)の郷には「合志」「飽多」「託萬」「宇土」といった地名が確認できる。肥後国(現在の熊本県)にも「合志郡」「飽田郡」「託麻郡」「宇土郡」という地名がある。地名の共通性から、薩摩国には肥後国から移住者があったと考えられる。
正倉院文書の『薩麻國天平八年正税目録帳』には、肥後の豪族「肥君(ひのきみ)」の名もある。「建部神嶋」という名もあるが、肥後国飽田郡のあたりを本拠地とした建部君(たけべのきみ)一族の者であろうか。
<参考資料>
『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年
『鹿児島県の歴史』
著/原口虎雄 出版/山川出版社 1973年
『鹿児島市史第1巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1969年
『鹿児島市史第3巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1971年
※『類聚国史』や『続日本紀』の抜粋、『薩麻國天平八年正税目録帳』を収録
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年
『渡来氏族の謎』
著/加藤謙吉 発行/祥伝社 2018年(電子書籍版)
『謎の渡来人秦氏』
著/水谷千秋 出版/文藝春秋 2008年
『薩隅今昔史談 隼人が語る歴史の真相』
著/中村明蔵 出版/国分進行堂 2016年
ほか