森神社(もりじんじゃ)は鹿児島県志布志市有明町原田に鎮座する。小さな神社なのだが、なんだか気になる存在だ。御祭神は用明天皇。そして物部守屋(もののべのもりや)が創建したとも。なぜ、こんなところに? と不思議な感じがするのである。
森神社へ
原田小学校の近くの道路沿いに鳥居がある。そこが森神社の参道口だ。鳥居前にちょこっと空間があり、大きくない車ならここに駐車できる。

鳥居をくぐって石段をのぼる。そんなに長くはない。

森の中に小さな社殿がある。

境内はよく手入れが行き届いている印象。大事にされているようだ。
物部守屋の伝説
物部守屋は6世紀の人物である。敏達天皇・用明天皇の御代に大連として政治の中枢にあった。物部氏は饒速日命(ニギハヤヒノミコト)を始祖とし、軍事や祭祀をつかさどる氏族である。
用明天皇2年(587年)に物部守屋は蘇我馬子と戦って敗れる。「丁未の乱」とか「衣摺の戦い」とか呼ばれるものである。ここで物部守屋は討たれ、一族は滅ぼされた。
だが、「物部守屋がじつは死んでいなかった」というのが森神社の伝承である。物部守屋は一族を引き連れて日向国まで落ちのびたのだという。そして志布志の原田に住むようになった、と。
なぜ、原田なのか? それはコノハナサクヤヒメミコト(木花開耶姫命)を祭る神社や陵があり、この地を気に入ったんだとか。
そして、物部守屋は用明天皇を祭祀する神社を建てる。それが森神社なのだという。
森神社からやや北の川沿いに、かつて「ノンド丘」と呼ばれる古墳があったそうだ。現存しないこの古墳は、物部守屋の墓とも伝わっている。
原田古墳
森神社の東のほうに原田古墳がある。ここはコノハナサクヤヒメミコトの陵だと伝わる。古墳は茶畑の中に。直径40m~47mの円墳で、高さは約6m。なかなかに存在感がある。

築造時期は5世紀前半と推定される。上のほうには石が露出していて、発掘調査によると竪穴式石室であるとのこと。また、盗掘された形跡もあり。
円墳のまわりには地下式横穴墓も3基確認されている。これらも円墳と関わりがあると推測される
けっこう規模が大きいことから、被葬者はこの地を治めていた者であろうか。
コノハナサクヤヒメを祭る神社?
森神社の物部守屋伝説の中に「コノハナサクヤヒメを祭る神社があった」という話がある。でも、原田にそのような神社はない。
鹿児島県曽於郡大崎町仮宿に鎮座する都萬神社(つまじんじゃ)は、原田から遷したものであるという。旧称は妻萬五社大明神。御祭神はコノハナサクヤヒメノミコトト(木花開耶姫命)。日向国児湯郡にある都萬神社(鎮座地は宮崎県西都市大字妻)を本社として、日向国の五つの郡に一つずつ都萬神社がある。諸県郡の原田にあったものは、そのうちの一つだったという。
原田古墳をコノハナサクヤヒメの陵としているのも、都萬神社と関わりがありそうだ。
都萬神社の本宮のある宮崎県西都市は、大規模な古墳群があることもで知られる(西都原古墳群)。日向国諸県郡南部や大隅国肝属郡にも高塚式の古墳が多く見られるが、これらも何かしらのつながりがあるのかもしれない。
また、児湯郡の都萬神社の宮司は日下部(くさかべ)氏が世襲する。
日下部氏の出自にはいろいろな系統があるとされる。物部氏の一族であるとか、開化天皇の皇子の日子坐王(ひこざおう)の後裔だとか、仁徳天皇の皇子の大草香皇子(おおくさかのみこ)の後裔とか……。日向国の日下部氏については、火闌降命(ホスソリノミコト)の後裔とも。
上記の「物部氏の一族」説からの想起で、森神社の物部守屋伝説が生まれた可能性もあるかもしれない。
九州の物部氏には、田部連(たべのむらじ)もある。田部氏は豊前国(大分県)の宇佐宮の社家の一つ。日向国には宇佐宮領がかなりあり、荘園管理者として田部性の土持(つちもち)氏が土着した。土持氏は日下部氏とも関係が深い。姻戚として結びつき、日向国の支配権を確立している。
大隅国の守屋氏
大隅国肝属郡高山の四十九所神社(しじゅうくしょじんじゃ、鹿児島県肝属郡肝付町新富)の社司(社家頭取)は守屋氏が世襲した。この守屋氏は物部守屋の後裔を称している。
守屋氏の家伝によると、物部守屋が大隅国に下向して肝属郡串良の細山田(ほそやまだ、鹿児島県鹿屋市串良町細山田)に住んだのが始まり、そして細山田から高山に移り住んだのだという。森神社の伝承と似通った匂いもする。何かしらのつながりがあるのでは? ……とも想像させられる。
ちなみに四十九所神社は肝付(きもつき)氏とも関わりが深い。肝付氏は大伴(おおとも)氏の後裔である。大伴氏も古代に大きな力を持っていた軍事氏族である。
肝付氏についてはこちらの記事にて。
伝説の真相は?
物部守屋は南九州まで来ていない、と思う。でも、こんな伝説が語られるようになったのには、何か理由があるはずだ。
例えば、こんな可能性はないだろうか?
物部氏にルーツを持つ豪族が、古代の日向国や大隅国にあった。家柄に箔を付けるために、一族の有名人の後裔を称することに。それが物部守屋であった。……と。あくまでも個人的な想像である。
日向国諸県郡南部(現在の志布志市や大崎町)や大隅国肝属郡(肝付町・東串良町・鹿屋市串良)には高塚式古墳が数多く分布する。ヤマトの影響下にあったことがうかがえる。また、伝承や地名などからは、屯倉(みやけ、ヤマトの直轄領)があった可能性も感じられる。
ヤマトから入ってきた統治者に物部氏の一族がいた可能性はあると思う。
<参考資料>
『三国名勝図会』
編/橋口兼古・五代秀尭・橋口兼柄・五代友古 出版/山本盛秀 1905年
鹿児島県史料集『諸家大概』『別本諸家大概』
発行/鹿児島県史料発行会 1966年
『宮崎県史 通史編 中世』
編・発行/宮崎県 1998年
『志布志市埋蔵文化財発掘調査報告書15 原田古墳』
編/志布志市教育委員会 2022年
『三州諸家系図纂 第1巻』
編/川崎大十 1968年
ほか