「塚崎の大楠(塚崎のクス)」というのが、鹿児島県肝属郡肝付町野崎の塚崎(つかざき)にある。推定樹齢は1300年ほど。国の天然記念物にも指定されている。
巨木がそびえる場所は、なんと古墳の上。塚崎古墳群(つかざきこふんぐん)の1号墳に根付いているのだ。その姿はなんとも神々しい。「塚崎の大楠」は大塚神社として崇敬されている。
塚崎の大楠(大塚神社)のこと、そして塚崎古墳群について紹介する。
塚崎の大楠
鹿児島県道539号沿い「塚崎古墳群」の碑や案内板がある。
そこから、ちょっと東のほうへ行くと「塚崎の大楠」の案内看板がある。脇道を入って南のほうへしばらくいくと「塚崎の大楠」(大塚神社)に着く。見学用の駐車場も整備されている。
駐車場からすこし歩いていくと、鳥居が現れた。額には「大塚神社」とある。
鳥居をくぐると円墳。そこに巨木が立つ。幹には大きな洞(うろ)も。
木をぐるりと螺旋状に登っていく。大楠を間近で見ることができる。
登ったところに祭壇がある。大楠は「御神木」というよりは、「御神体」のような扱いである。
じつのところ、枝ぶりがやや寂しい印象を受けた。というのも、2022年の台風で大きな枝が折れてしまっているのである。
往古より、「塚崎の大楠」の枝が折れると戦乱の凶兆とされてきたという。海外では紛争が絶えないのだが、日本も戦乱に巻き込まれたりはしないだろうかと心配になる。
大塚神社の由緒
古くは「大塚大明神廟」といった。御祭神は大国主命(オオクニヌシノミコト)・須佐之男命(スサノヲノミコト)・八意思兼命(ヤゴコロオモイカネノミコト)・知知夫彦命(チチブヒコノミコト)。
大塚大明神(大塚神社)は鹿児島県肝属郡東串良町新川西にも鎮座する。東串良には唐仁原古墳群(とうじんこふんぐん)がある。その1号墳の「唐仁大塚古墳」の上に大塚神社が設けられている。ちなみに、唐仁大塚古墳は鹿児島県内で最大の前方後円墳。長さは140mあり、九州でも三番目に大きい。
塚崎の大塚神社は、この東串良の大塚神社と大いに関係がある。御祭神も同じだ。
主祭神は八意思兼命・知知夫彦命であろう。武蔵国の秩父神社(埼玉県秩父市)より勧請されたものである。島津忠久(しまづただひさ、島津氏初代)の下向に際して(12世紀末頃か)、本田貞親(ほんださだちか)が祭祀したのが始まりだと伝わる。
本田氏は平良文の後裔を称する。関東にあった村岡平氏である。秩父氏の一流とされ、畠山氏と同族とも。本田貞親の父は本田親恒(ちかつね)という。本田親恒は畠山重忠(はたけやましげただ)の配下で、のちに島津忠久に仕えるようになる。島津忠久は畠山重忠の娘を妻にしたとも伝わり、その縁から畠山重忠のはからいで島津氏につけたのだろう。
そして、本田親恒・本田貞親は島津忠久に従って下向したとされる。ただし、島津忠久は鎌倉にあったと考えられ、実際には本田氏を代官として南九州に派遣したと考えられている。
親貞、得佛公に先して、本藩三ヶ國に下向するに及んで、畠山重忠、貞親に謂て曰、此度薩摩へ下向あらば、三ヶ國には三十人の国主あり、忠久勝利の爲、秩父大明神、天一妙見を初て利運の地に奉祀あるべし、と (『三国名勝図会』巻之四十七より)
畠山重忠が本田親貞にこう命じた。「島津忠久が薩摩・大隅・日向の三ヶ国で在地領主を従わせるために、勝利を祈願して秩父大明神と天一妙見を霊験のある場所に祀れ」と。
秩父大明神(秩父権現)は秩父氏(畠山氏)の守護神だ。また、天一妙見(北辰権現・妙見権現)も関東武士の千葉氏の守護神である。
そして、秩父大明神を奉祀した場所の一つが、東串良の大塚神社であり、塚崎の大塚神社であったというわけだ。
『三国名勝図会』によると、「利運の地」を選んで奉祀されたという。つまり、大塚大明神が始まりではないということだ。それ以前から、この地が聖地とされていた可能性もありそう。
ちなみに、鹿児島神社庁のホームページによると、大塚神社のある塚崎古墳群1号墳は天太玉命(アメノフトダマノミコト)の墓所だという言い伝えもあるという。
塚崎古墳群
塚崎古墳群は肝付町の野崎塚崎と新富花牟礼にまたがる古墳群だ。国の史跡にも指定。前方後円墳が5基、円墳が54基、地下式横穴墓が29基が確認されている。また、集落跡も見つかっている。
大隅半島には畿内型の高塚式古墳が多くみられ、ヤマト王権の影響が及んでいたことがうかがえる。塚崎古墳群は4世紀初頭~5世紀に造営されたもので、大隅半島の古墳群の中では最古のもの。近隣の唐仁古墳群や横瀬古墳よりも100年くらい古いと見られる。
田畑の広がる中に風景の中のあちこちに古墳が確認できる。冬の訪問だったこともあり、草が伸びてなくて古墳の形がよく見えた。
県道沿いの山林の中にも古墳が並ぶ。ここにある11号墳は大隅半島で最古の前方後円墳だと考えられている。長さは41m、墳丘の高さが5m。前方部の幅は狭く、上から見ると手鏡のような形状をしている。
古墳群の南の花牟礼にある51号墳は、確認されている前方後円墳のなかで最南端とされる。長さは51m、墳丘の高さは8m。「花牟礼古墳」とも呼ばれる。今回の訪問では、草に覆われていてよく見えず……。下の写真は2018年に訪問したときのもの。
古墳群の一角にある「肝付町立歴史民俗資料館」では、塚崎古墳群から出土品が展示されている。館内は撮影可。
下の写真は25号墳から出土した「つぼ型埴輪」と、41号墳から見つかった須恵器。須恵器はそれぞれ、大阪府のあたりで作成されたもの、愛媛県のあたりで作られたもの、とのこと。
資料館には石棺も展示。6世紀頃の軽石組合屋根型箱式石棺とのこと。こちらは塚崎古墳群から西に3kmほどの前田上ノ原で出土したもの。
資料館には塚崎古墳群の情報が入手できる。マップ付きのパンフレットもあるので、こちらに寄ってから古墳群を回るべし。
<参考資料>
『三国名勝図会』
編/橋口兼古・五代秀尭・橋口兼柄・五代友古 出版/山本盛秀 1905年
『高山郷土誌』
編/高山郷土誌編纂委員会 発行/高山町 1966年
『塚崎古墳群 ~日本最南端の前方後円墳群~』
発行/肝付町教育委員会
ほか