ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

龍虎城跡(財部城跡)、国境の堅城、庄内の乱の激戦地

龍虎城(りゅうこじょう)は大隅国財部院(たからべいん)にあった山城である。別名に財部城(たからべじょう)とも、北俣城(きたまたじょう)とも。現在の鹿児島県曽於市財部町北俣のうちにある。

 

財部は大隅国と日向国の国境に位置し、中世より戦いの多いところ。15世紀の初め頃には北郷忠相(ほんごうただすけ)と新納忠勝(にいろただかつ)がこの地をめぐって争った。また、慶長4年(1599年)の庄内の乱の激戦地でもある。

 

なお、日付は旧暦にて記す。

 

 

財部院と財部郷(下財部)

財部は、大隅国なのか日向国なのかわかりにくいところである。じつのところ、大隅国の囎唹郡(そおのこおり)のうちに「財部院」があり、日向国諸縣郡(もろこたのこおり)のうちに「財部郷」があった。

日向国の財部郷は「下財部院」「下財部」とも。現在の曽於市財部町下財部のあたりがそうであったようだ。そして、「下財部」以外が大隅国ということになる。

 

このように国境をまたいでいる理由についてはよくわかっていない。可能性があるとすれば、財部院と財部郷(下財部)で領主が異なっていた時期があった? ……とか。

地勢から考慮すれば、財部は庄内(都城)の一部のような感じである。おそらくは、もともとは日向国であったが、一部が大隅国に編入されたという感じだろうか?

 

ちなみに龍虎城(財部城)は、大隅国の財部院のうちにある。とはいえ、国境はすぐ近く。国境や郡域は時代とともに変動するもので、城域が日向国に属していた時期もあると思われる。

 

 

 

財部氏(肥後氏)が築城

築城時期は13世紀頃か。財部六郎正信によるとされる。財部氏は肥後氏の一族である。肥後氏は北条氏の被官とされる。種子島氏や横川氏も同族だ。

大隅国・日向国の守護職および島津荘地頭職は、北条氏のものであった。当初、これらは島津忠久(しまづただひさ)に任されていたが、建仁3年(1203年)の「比企能員の乱」に連座して没収された。その後、島津氏は薩摩国の所領のみを回復し、大隅国・日向国は北条氏が持ったままとなった。肥後氏は北条氏より地頭代として派遣されていた。

 

鎌倉幕府が滅亡すると、北条氏旧領に肝付兼重(きもつきかねしげ)が侵攻。日向国の庄内(宮崎県都城市・西諸県郡三股町の一帯)も横領する。そこに財部も含まれていた。これに対して足利尊氏は征討軍を派遣する。足利一族の畠山直顕(はたけやまただあき)を大将とし、禰寝(ねじめ)氏や島津氏もこれに協力した。肝付兼重は三俣院高城(みまたいんたかじょう、都城市高城町か)を拠点に抵抗する。建武3年12月6日(1337年1月)には、下財部院の新宮城(しんぐうじょう、宮崎県都城市横市町)で戦いがあったという(『島津国史』より)。

庄内は畠山直顕に制圧され、その支配下に入る。その後、畠山氏は島津氏と対立。延文3年・正平13年(1358年)頃に島津氏久(しまづうじひさ、島津氏6代当主)が畠山氏から大隅・日向の覇権を奪う。以降は島津氏の支配下となった。財部氏も島津氏に従う。また、庄内には島津一族の北郷(ほんごう)氏や樺山(かばやま)氏も置かれた。

 

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北郷忠相、財部を奪還する

延文2年(1357年)4月5日付けで、島津貞久(さだひさ、島津氏5代当主)が弟の島津資忠(北郷資忠、ほんごうすけただ)に譲り状を出している。大隅国本庄内財部院を任せる、と。財部院は北郷氏の治めるようになる。

享徳2年(1453年)に北郷氏は大覚寺義昭事件の関与から所領を没収される。庄内は島津忠国(ただくに、島津氏9代当主)の直轄領となる。文明8年(1476年)に北郷敏久(としひさ、北郷氏6代)に庄内の都之城(都城市都島)が再び任されるが、北郷氏の勢力は以前に比べて小さなものであった。

 

文明18年(1486年)に財部院は新納忠続(にいろただつぐ)に与えられた。新納氏も島津氏の一族で、日向国の志布志城(しぶしじょう、鹿児島県志布志市志布志町帖)を拠点とする。

また、日向国では伊東(いとう)氏が勢力を広げつつあった。日向南部をめぐって島津氏と伊東氏は抗争を繰り返す。そして、明応4年(1495年)に島津氏は伊東氏と和睦し、三俣院1000町を割譲する。伊東氏は庄内に広大な領地を持つことになる。

 

一方で北郷氏は、都之城と安永城(やすながじょう、都城市庄内町)の二つの城を有するのみだった。そんな苦しい状況の中で、北郷忠相(ほんごうただすけ、北郷氏8代当主)が一族の再興をはたすことになる。

大永2年(1522年)に伊東尹祐(いとうただすけ)が大軍を率いて北郷忠相を攻める。伊東軍の兵力は1万以上、北郷方は800ほどだったと伝わる。寡兵ながらも北郷方はよく守る。そして、伊東尹祐は陣没(流れ矢に当たったとも)。伊東軍を撤退させた。

大永8年(1528年)、伊東祐充(いとうすけみつ、尹祐の子)が新納忠勝(ただかつ)と戦う。北郷忠相は双方から協力を要請され、伊東氏につく。戦いに勝利して、新納氏領になっていた財部城(龍虎城)を取る。北郷氏にとっては、久々の旧領奪回だった。

 

北郷忠相はその後、伊東氏の勢力を庄内から駆逐。新納氏も滅ぼす。庄内を制圧し、北郷氏は最盛期へと向かう。

北郷時久(ときひさ、忠相の孫)は、島津貴久(たかひさ)・島津義久(よしひさ)に協力。戦国島津氏の勢力拡大に大きく貢献する。北郷氏も庄内を中心に大きな領土を持つ。天正15年(1587年)に島津氏は豊臣秀吉に降るが、北郷氏は庄内を安堵される。

 

 

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庄内の乱

文禄4年(1595年)、北郷氏は豊臣秀吉から国替えを命じられる。そして庄内は、伊集院忠棟(いじゅういんただむね)に与えられた。伊集院忠棟は島津義久の家老である。それと同時に豊臣秀吉から朱印状を受け、豊臣家直参の大名として扱われた。

 

慶長4年(1599年)、事件が起こる。伊集院忠棟が島津忠恒(ただつね)に殺害された、「謀叛の疑いあり」という理由で。島津忠恒は島津義弘の子。島津家の家督を継承したばかりだった。

庄内では嫡男の伊集院忠真(ただざね)が反乱を起こす。反乱鎮圧にために島津義久・島津忠恒は軍勢を送り込んだ。

 

龍虎城(財部城)には、伊集院甚吉・猿渡肥前守を配置。500の兵で守らせていたという。『庄内治亂記』によると、島津義久は白鹿岳(しらがだけ)の花平に陣を置き、山田有信(やまだありのぶ)が黒棚に布陣。龍虎城(財部城)と対峙したという。

伊集院忠真は富山石見守・重信越後守に兵700を預けて援軍を出した。伊集院方は郷ヶ迫や古井原(いずれも城の南のほう)に兵を繰り出し、島津方とぶつかる。このときに山田有信は日光神社(にっこうじんじゃ)に兵を伏せて迎え撃ったとも。釣り野伏か? 激戦となり、富山石見守は戦死。一方の島津方も大きな被害を出したという。

 

その後も、籠城は続く。島津方は龍虎城を落とすことができなかった。慶長5年(1600年)3月15日、徳川家康の仲介により伊集院忠真は降伏する。この日になってようやく龍虎城(財部城)も開城した。

 

 

 

 

 

城跡を歩く

だいぶ前置きが長くなってしまった……。城の訪問記はここから。

 

龍虎城(財部城)は、本丸・中丸(中城)・二ノ丸・財部城・池の上城・桜丸(桜城)・松尾城・外城などの曲輪からなる。大規模な城郭群だ。城域のかなりの部分が削られてしまってるが、本丸・中丸(中城)・池の上城のあたりは城山公園として整備されている。また、二ノ丸・桜丸(桜城)のあたりは財部城山総合運動公園になっている。

鹿児島県道2号から「城山公園入口」の看板を目安に入る。そこからすぐ脇道に入ると、橋と城門がある。

 

城への入口

険しい山城の雰囲気も感じられる

 

龍虎城の標柱、奥に門

標柱もあり

 

城門は公園整備にともなって整備されたものだろう。なお、案内看板の縄張図によると、この橋のあるあたりが財部城らしい。

 

城門

こういうのがあると雰囲気が出る

 

城門をくぐった先に看板と石段がある。ここをのぼると中丸(中城)。

 

石段と看板

登ると中丸

 

城門横には児童公園がある。ここも曲輪っぽい形状。ちょっと高台になっていて眺望が開けている。眼下に広がる住宅地もかつての城域。写真奥の小学校のあたりに松尾城があったという。

 

城跡からの眺望

児童公園から、正面が学校(松尾城跡)

 

石段をのぼっていく。けっこうな段数がある。

 

石段をのぼる

石段横は堀の跡か

 

登ってすぐのところに荒神祠がある。城の守護神とのこと。

 

石祠

荒神

 

荒神祠の横には石が二つ。こちらは富山石見守とその妻の墓。それぞれに「外山岩見」「外山岩見妻」の刻字が確認できる。

 

墓石

富山石見守夫妻の墓

 

石段をのぼり切ったところに平坦な広い空間がある。中丸の上に出る。

 

曲輪の上

中丸(中城)

 

曲輪の奥のほうへ歩いていくと橋がある。こちらを渡ると本丸だ。本丸と中丸には、戦没者(近代の戦争のもの)の慰霊塔が建てられている。

橋を渡る

橋がある

 

曲輪の上

本丸

 

本丸から下りて橋の下へ。本丸と中丸を区切る堀にそって道が通されている。この道を門から見て奥のほうへ行くと、運動公園に抜ける。

 

堀跡

右が本丸、左が中丸(中城)

 

こちらの運動場は二ノ丸にあたる。段差が確認できるが、これも城跡の地形に由来するものだろうか。

 

運動公園(二ノ丸跡)、奥が中丸(中城)

 

城跡

中丸(中城)、グランド側から

グラウンドから城跡を見る

写真左が池の上城、左が中丸城

 

ちょっと散策するには、イイ感じの山城だと思う。遺構の残る中丸(中城)のあたりは、堅城の雰囲気も感じられる。

 

 


<参考資料>
鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 諸氏系譜 一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 出版/鹿児島県 1989年

鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 諸氏系譜 二』
編/鹿児島県維新史料編さん所 出版/鹿児島県 1990年

『三国名勝図会』
編/橋口兼古・五代秀尭・橋口兼柄・五代友古 出版/山本盛秀 1905年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『鹿児島県財部町郷土誌』
発行/財部町教育会 1936年

ほか