島津家久(しまづいえひさ)は天正3年(1575年)4月に上洛し、京に滞在すること1ヶ月以上。その間に名所をかたっぱしから見てまわったようだ。そのことが『中務大輔家久公御上京日記』にも詳しく記されている。
前回の記事はこちら。
『中務大輔家久公御上京日記』についてはこちら。
史料は東京大学史料編纂所の翻刻より引用。
『中務大輔家久公御上京日記』(東京大学史料編纂所ホームページ)
島津家久は島津家の四男坊。当主である兄の島津義久(よしひさ)のもとで活躍した。詳しくはこちらの記事にて。
- 天正3年4月22日、蹴鞠の天才がいた!
- 天正3年4月23日、風呂と酒と歌と
- 天正3年4月24日、有馬が来た
- 天正3年4月24日、酒と連歌
- 天正3年4月26日、石山寺世尊院
- 天正3年4月27日、何もなし
- 天正3年4月28日、名所をめぐりめぐる
- 天正3年4月29日、和歌の理解を深めた
- 天正3年4月30日、本を読んで風呂に入る
なお日記の日付は、旧暦となっている。

天正3年4月22日、蹴鞠の天才がいた!
廿二日、飛鳥井殿にて公家衆、御鞠あそハされ候、殊更飛鳥井殿御父子、不存なから、御子息鞠一入めをおとろかし候、
飛鳥井殿の屋敷で公家が集まって蹴鞠遊びをするのを見る。飛鳥井殿の父子は蹴鞠が上手い。とくに息子のほうは上手すぎてビックリした! と。
「飛鳥井殿」というのは飛鳥井雅春(あすかいまさはる)のことだろう。息子のほうは飛鳥井雅敦(まさあつ)か。飛鳥井家は藤原北家庶流の公家で、飛鳥井流の蹴鞠を伝承している家である。島津家久は蹴鞠の超一流の妙技を見たのである。
島津家久の妻の父は樺山善久(かばやまよしひさ)という。樺山善久は京とのパイプを持ち、文化人との交流もあった。飛鳥井家とも交流があり、飛鳥井流蹴鞠の伝授も受けている。島津家久は岳父のつてもあって飛鳥井家を訪れることになったのだろう。
なお、飛鳥井雅敦は天正6年(1578年)に若くして亡くなっている。飛鳥井家の家督はその嫡男の飛鳥井雅庸(まさつね)が継いだ。薩摩藩初代藩主となる島津忠恒(ただつね、のちに「島津家久」に改名)はこの飛鳥井雅庸から蹴鞠を伝授される。
ちなみに、島津忠恒は島津義弘(よしひろ)の三男。島津家久の甥にあたる。のちに徳川家康から一字をもらって「家久」と改名する。同じ名前でややこしい。
天正3年4月23日、風呂と酒と歌と
廿三日、紹巴、風品たかせられ候、其より前句つけ仕候、夜入候て酒、さて紹巴・昌叱・心前うたひ候、
島津家久は京滞在中に里村紹巴(さとむらじょうは)の世話になっている。里村紹巴は当時の連歌師の大家である。こちらも樺山善久との交流がある。「うちの婿が行くからよろしくね」という感じで樺山善久が世話をお願いしたのだろう。
里村紹巴が風呂を焚いてもてなしてくれた。当時の風呂は、蒸し風呂のような感じのもの。で、「前句つけ」をしてくれた、と。島津家久が発した下句に、上句をしたためたのだろう。
夜になって酒宴となり、里村紹巴と弟子の里村昌叱・心前が歌を詠んだ。
里村昌叱は里村紹巴の娘婿で、跡継ぎでもある。ちなみに、里村紹巴は里村昌休に連歌を学び、里村昌休の死後に里村家を継ぎ、昌休の子を養育した。その子が里村昌叱である。紹巴を中継して昌叱に里村家が継承される形となっている。
心前は島津家久一行に京滞在中の宿を提供している人物でもある。
天正3年4月24日、有馬が来た
廿四日、下総有馬勘解由罷登候、
「下総有馬勘解由」という人物が上京してきた。何者なのかは、よくわからず。説明がほぼないところを見ると、島津家中の者だろうか。島津家久の配下である可能性もあるかも。
薩摩には有馬(ありま)氏がけっこう多い。肥前の有馬氏や、鹿児島の矢上(やがみ)氏・長谷場(はせば)氏と同族の者だろうか?
天正3年4月24日、酒と連歌
廿五日、昌叱へ礼申候、酒すゝめられ候、さて紹巴うたハれ候、
里村昌叱へ御礼の挨拶に。風呂の御礼かな? そこで酒をすすめられて宴となる。里村紹巴も歌を詠む。
里村紹巴は、島津家久と会うときはいつも機嫌が良さそうな印象である。気に入られていたのだろうか?
天正3年4月26日、石山寺世尊院
廿六日、石山の世尊院といへる出家に参會候、
「石山の世尊院」は石山寺世尊院(いしやまでらせそんいん)のことだろう。石山寺は現在の滋賀県大津市石山寺にある。連歌と縁のある寺院で、天文24年(1555年)には「石山千句」という連歌会も催された。これには里村紹巴も参加している。
「石山寺世尊院の僧と会った」という解釈でいいのかな? たぶん、里村紹巴とつながりのあることだろう。
天正3年4月27日、何もなし
廿七日、何やらん徒に打過し候、
この日はとくに何もなかったらしい。
天正3年4月28日、名所をめぐりめぐる
「何もしなかった」と記した前日とはうってかわって、この日はすごい情報量! 原文を分割しつつ、解説を入れていく。
廿八日、上総殿美野のことく打帰候、人数よそなから見物、それより紹巴・昌叱・肥後の宇土衆・加悦式部大輔・北野大炊助といへる人同心にて、こゝかしこ一見、
織田信長の軍勢が美濃国(岐阜県、織田氏の本拠地)に戻る。その様子を見物する。そして里村紹巴・里村昌叱の案内で京都見物に出かける。ここでは肥後の宇土衆・加悦式部大輔・北野大炊助という者たちも同行した。
「肥後の宇土衆」のところは、鹿児島県史料『旧記雑録 後編一』では「肥後のう土殿」と記されている。文脈的には「殿」のほうが正しいような気もする。「肥後の宇土殿」というのは、肥後国宇土(熊本県宇土市)を領する宇土(うと)氏の当主ということだろう。宇土氏は名和(なわ)氏とも称する。南北朝争乱期に活躍した名和長年(なわながとし)の後裔である。この頃は名和顕孝(あきたか)が当主。加悦式部大輔・北野大炊助はその配下か。何か用事があって、彼らも上洛していたのだろう。例えば朝廷とのやりとりとか、織田家とのやりとりとか。
また、「肥後の宇土衆の加悦式部大輔・北野大炊助」と読むのかも。そうであるなら名和氏の家臣の二人ということになる。このとき、名和顕孝は14歳くらい。本人は上京せずに、家臣だけが京に来ていた可能性もありうる。
とにかく宇土の者たちが、島津家久と仲良く京都見物をしたのである。
ちなみに、名和氏は相良氏と抗争を繰り広げている。島津氏も相良氏とは敵対関係。敵の敵は味方ということで、島津氏と名和氏は良好な関係にあったのかもしれない。後年、九州の情勢が島津・大友(おおとも)・龍造寺(りゅうぞうじ)の三つ巴の戦いになると、名和顕孝は島津家の傘下に入っている。
先右方ニ等持寺とて寺の跡有、さて四条の道場、橋を左にみて打過、五条の橋を渡、中嶋有、法城寺といへり、水去て土と成といふ心也、さて行/\て六原堂、本尊観世音、其脇に堂有、地蔵也、其蓮花座の下にしゝ有、うんけい・たんけいといへる仏師名作といへり、其前に浄光親王・延喜六代・くうや上人の御影有、念佛を唱たまへは御ロより佛出たまふ所を作す、
まず訪れたのが等持寺(とうじじ)の跡地。場所は現在の京都市中京区御池通高倉上る。足利尊氏の邸宅跡で、ここで政務を行った。室町幕府の発祥地である。のちに邸宅跡が等持寺となる。足利氏の菩提寺だったが、応仁の乱(1467年~1477年)で焼失した。
つづいて訪れたのが「四条道場」と呼ばれるところ。金蓮寺(こんれんじ、京都市北区鷹峯藤林町)である。延文元年・正平11年(1356年)に佐々木道誉(ささきどうよ)が四条にあった宅地を金蓮寺に寄進したのがはじまり。また、足利義満も私領を寄進し、足利氏からも大事にされた。
そのあと五条の橋をわたって「中嶋」へ。そして法城寺(ほうじょうじ)があった。現在の京都市上京区荒神町のあたり。寺の名には「水去りて、土と成す」という願いが込められている。11世紀初めに藤原道長(ふじわらのみちなが)が建立。その邸宅でもあった。法成寺は戦火で焼失し、そのまま荒廃した。
つづいて「六原堂」へ。これは六波羅密寺(ろくはらみつじ、京都市東山区轆轤町)のことである。開山は空也(くうや)。本尊は「観世音菩薩」と記す。天暦5年(951年)に空也が造立したとされる十一面観音像で、現在は国宝に指定されている。脇の堂には地蔵菩薩像があり、蓮華座の下には獅子がいる、と。これは地蔵菩薩坐像だろう。運慶・湛慶の作と日記にも書かれている。そのあとに記される「浄光親王」「延喜六代」についてはよくわからない。そして空也上人の御影像を見る。「念佛を唱たまへは御ロより佛出たまふ所を作す」とあり。
さて行て六道の辻、おのゝ篁かめいとに入し所有、其次に北との皇とて有しといへ共今ハなし、左方ニ八坂の塔五重也、
寺院めぐりはまだまだ続く。しばらく行くと「六道の辻」にいたる(京都市東山区轆轤町)。小野篁(おののたかむら)が冥府通いをしたところだという伝説がある。
そのつぎに「北との皇」の跡地とあるが、よくわからず。「北斗の星」と書いてある史料(玉里文庫にある写し)もある。
左手のほうには「八坂の塔」が見えた。これは法観寺(ほうかんじ、京都市東山区八坂通下河原東入る八坂上町)の五重の塔だ。
其次ニ経かく堂、子やすのたう、さて真福寺、清水一の坂の上ニ細川道札こんりうの三重の塔有、其次ニ清水寺一見、庭の池水に飼鳥あまた有、其内にくゝゐも有、さて次ニ田村堂を打過、観世音へ参みるに、かけ作也、都よりハたつミ也、さて地主権現桜有、其邊ニ鐘有、さて音羽の瀧、石のかけひ上より水落候、水上ハミえす、不動堂の下也、其邊ニ奥の千手とて堂有、其あたりの小庵数をしらす、
そのあと清水寺(京都市東山区清水)のほうへ坂道を登っていく。経書堂(きょうかくどう)があり、子安の塔があり、真福寺の前を通る。子安の塔は清水一の坂の上(産寧坂)にあり、細川道永(ほそかわどうえい、「道礼」は誤記みたい)が建立(再建)させた三重の塔である。子安塔は聖武天皇と光明皇后が安産祈願で造立したものと伝わる。
なお。現在の子安塔は場所が違う。清水寺の本堂からさらに登った泰産寺のほうにある。明治時代にこちらに移設されている。
清水寺をひととおり見物。庭の池には鳥がいっぱい。「飼鳥」とのこと。池のうちには「くくゐ」(何かわからず)もあり。
田村堂の前を通って奥へ。田村堂は坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまと)とその妻、僧の行叡と賢心を祀る。いずれも清水寺の創建に関わった人物である。
そして本堂の観世音にお参りする。本堂は国宝に指定。ここには十一面千手観音菩薩像が安置されている。
清水寺は都の辰巳(南東)のほうにある。地主権現(地主神社、清水寺の鎮守)には桜の木があり。近くに鐘もあった。
音羽の滝を見る。石の掛樋から水が落ちている。水の上のほうは見えない。下には不動堂がある。さらに奥のほうに千手院がある。この辺には小さな庵(いおり)もたくさんある。
さて哥の中山を越、左ニせいかん寺とて跡有、右方ニ鳥邊山、次ニ阿弥陀のたけ、其次ニ若松の池、さて泉涌寺といへる寺有、是ハ御門御ほうきょの時はふふりたてまつる寺也、それニ茶湯の座敷有、一見候へハ、ちやたへさせられ侯、さて罷立を引留、酒をもすゝめられ候、それより本堂に参、尺迦の御はを拝せられ候、長さ二寸八分、廣一寸八分あり、さて其寺の内に泉有、以其泉涌寺といへり、泉涌寺皆律僧也、其より順礼、観世音へ参、
清水寺をあとにして「歌の中山」(東山区清閑寺歌ノ中山町)を過ぎて、左手のほうに清閑寺の跡があった。ちなみに清閑寺は応仁の乱で焼失しており、慶長年間(1596年~1615年)に再興される。
右のほうに鳥辺山を見て、さらに阿弥陀の岳(阿弥陀ヶ峰)があり、そして若松の池がある。さらに行くと泉涌寺(せんにゅうじ、東山区泉涌寺山内町)だ。ここは帝が崩御されたときに葬儀が行われる寺でもある、と島津家久は説明をつけている。泉涌寺に茶の湯の座敷があった。茶席に誘われて引き留められ、酒もすすめられた。
そして本堂へ。ここには仏舎利があり、釈迦の歯が納められている。大きさ(仏舎利のものか)は長さが二寸八分、幅が一寸八分。
境内には泉がある。だから「泉涌寺」という。律宗の僧がいる。観音堂にて観世音菩薩をお参りする。ちなみにこの像は「楊貴妃観音」の異名もある。
さて東福寺、三しゃうしの入口によし有にわう有、昔ハ安藝一ヶ國をにわう領と也、さて常樂庵といへる有、其仏殿ニ唐のくしゅんの御影有、亦中に正一國子、其脇に九重殿の御影有、儅、三かいニ上りミれは、正一國子の御影とてかために作す、さて通天橋といへる橋を打渡りミるに、僧堂の天井に名筆の龍有、はつたうの本尊ハ、釈迦の三尊也、山門ハ本尊観世音、十六らかん也、其より俊成の御はかへ参、
つづいて東福寺(とうふくじ、東山区本町)へ。北の門から入る。三聖寺(さんしょうじ、東福寺内の寺)の入口に仁王像がある。「昔ハ安藝一ヶ國をにわう領と也」との島津家久の説明も。
常楽庵(じょうらくあん)があり、その仏殿には「唐のくしゅん」の御影があるというが、こちらは唐僧の無準(ぶしゅん)のこと。島津家久の聞き違い? 中には「正一國子」の御影あり。こちらは聖一国師(しょういちこくし)のこと。東福寺を開山した円爾(えんに)である。その脇に「九重殿」の御影も。三階に上がると聖一国師の御影があった。
常楽庵のほうから通天橋(建物と建物を結ぶ橋廊下)を進んでいくと、僧堂の天井には見事な龍の絵があった。法堂(はっとう)の本尊は釈迦三尊像。また山門の本尊は観世音菩薩と十六羅漢である。
東福寺にある藤原俊成(ふじわらのとしなり、しゅんせい)の墓参りも。歌人として知られた人物で、島津家久が和歌に興味を持っていることもうかがえる。
帰候へハ、右方今熊野、其次ニなきといへる所、さて行て御白川の法王、御鞠のかゝりの松有、やかて三十三間ニ参、亦六原の普門院にて酒飯、會尺さま/\也、さておたきの寺一見し過行ハ、普門院追酒、さて天人寺跡あり、其より四条の橋打渡、帰宿候、
東福寺から帰路につく。右手のほうに今熊野(今熊野神社か、あるいは今熊野観音寺か)、つぎに椥(なぎ)というところを通る。東山区今熊野椥ノ森町のあたりか。そして後白河法皇(の御陵か)、その蹴鞠のかかりの松もあり。
しばらく進んで三十三間堂(東山区三十三間堂廻り)をお参り。そして六波羅蜜寺の普門院で酒と食事をいただく。「會尺さまざま也」とは、どう解釈するべきか? 「いろいろわかった」か? 「御礼で何度も頭を下げた」ととることもできるような?
「おたきの寺」は愛宕寺か。ここを見物したあと、普門院でまた酒を飲まされる。そして天人寺跡(詳細わからず)を通り、四条の橋を渡って、宿に帰った。ちなみに宿は、心前の屋敷の一角である。
天正3年4月29日、和歌の理解を深めた
廿九日、紹巴、三部集讀初候、
里村紹巴が三部集を読んでくれた。書物の講釈を受けた、ということだろう。「三部集」は、『万葉集』『古今和歌集』『新古今和歌集』のことだと思われる。
天正3年4月30日、本を読んで風呂に入る
卅日、朝ハ紹物読、それより風品ニ入候、
朝は里村紹巴と本を読む。前日の三部集の続きか。そのあとは、風呂をいただいた。
島津家久は見聞した寺院について、かなり詳しく書いている。とくに4月27日は六波羅蜜寺・清水寺・泉涌寺・東福寺などかなりの数の名刹をまわっている。『中務大輔家久公御上京日記』は、当時の境内の様子がうかがい知れる貴重な史料でもある。
つづく……。
<参考資料>
『中務大輔家久公上京日記』
翻刻/村井祐樹 発行/東京大学史料編纂所 2006年
※『東京大学史料編纂所研究紀要第16号』に収録
鹿児島県史料『旧記雑録 後編一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1981年
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年
鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年
鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 諸氏系譜三』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 1992年
ほか
各寺院の公式ホームページなども参考にしました。