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島津家久の上京日記【7】 摂津国に入る、戦の匂いも/天正3年4月8日~4月16日

『中務大輔家久公御上京日記』で島津家久(しまづいえひさ)の旅程を追う。天正3年(1575年)4月半ばのこと、播磨国室津(むろのつ、兵庫県たつの市御津町室津)から摂津国へと入っていく。

 

前回の記事はこちら。

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この頃、織田信長が京を掌握しているが、反抗勢力との戦いが続いている。島津家久の日記からも戦乱の匂いが感じられる。

 

なお、日記の日付は当時のもので、旧暦となっている。

 

 

『中務大輔家久公御上京日記』についてはこちら。

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史料は東京大学史料編纂所に収蔵。こちらに収録された翻刻より引用。
『中務大輔家久公御上京日記』(東京大学史料編纂所ホームページ)

 

島津家久は島津貴久(たかひさ)の四男。戦国時代の島津氏の勢力拡大の立役者となった人物である。詳細はこちらの記事にて。

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船がなかなか出ず、しかたがないので、飲んだくれる

 

天正3年4月8日、舟が出ず

八日、あかしへ上乗憑に、脇舟頭早舟にて越候問、滞留、

播磨国室津(兵庫県たつの市御津町室津)で明石に渡るための船を手配することに。しかし、脇船頭がどこかに出かけてしまい、待たされる。

 

 

天正3年4月9日、堺の衆と飲んだくれる

九日、順風なくて逗留、境衆松井甚介・助兵衛なといへる者同宿、さて、舟中にて寄合候兵庫の衆、亭主なとへ酒をすすめ候、

 

まだ室津にいる。この日は順風がなくて出航せず。堺(さかい、大阪府堺市)の商人の松井甚介・助兵衛と宿が同じだった。船に集まって話し合いをしたあと、堺衆や兵庫衆とともに酒を飲んだ。

ちなみに堺は、摂津国・和泉国・河内国の境目にあたる。商人の町で、当時は有力商人たちによる自治が行われていた。島津氏は外国への航路を持ち、交易も盛んに行っている。堺の商人たちとつながりがあったと考えられる。

 

 

天正3年4月10日、また堺衆と飲む

十日、境衆兩人より酒得候、

 

この日も船は出ず。堺衆の両人(松井甚介と助兵衛)が酒を持ってきた。そして酒宴と……。

 

天正3年4月11日、記録なし

4月11日については何も記されず。船は出ていない。この日も飲んだくれていたのか?

 

 

天正3年4月12日、見物のあと酒宴

十二日、其邊一見候へハ、堺衆すゝをたつさへ来り候て、路頭の御堂ニて酒宴、

 

室津の街に見物に出て。そのあとはまた堺衆とともに酒宴へ、道端の寺(路頭の御堂)で。

 

 

天正3年4月13日、船頭をぶん殴る

十三日、境雑説猥間、元舟ハ室ニ逗留の由申候問、熊野衆・高野衆・日向衆・南覚坊寄合候て、岩屋舟一艘借きり候処ニ、船頭板をのせへき由申候、各とハのせましきとあらそふところニ、舟子雑言仕候問、南覚坊取合候処に、一閑、善ふるまひにて舟子のつらをうたれ候、儅、舟よりおり可申由申候ヘハ、地下衆異見候て、亥剋に出舟、儅、行て播广の内たちの城とて有といへり、夜中こき通り、さて高砂といへるところにて夜明離候、

 

船がなかなか出ない理由がわかる。堺のほうに混乱があるという情報があってのことだった。この頃、織田信長が摂津国の石山本願寺(大阪市中央区大阪城、のちに大坂城が築かれる場所)を攻めている。

 

そこで南覚坊と熊野衆・高野衆・日向衆が話し合って、淡路国岩屋(いわや、兵庫県淡路市岩屋)から来ている船を借りて乗り換えることになった。なお、南覚坊は旅の世話をしている人物で、日記にたびたび登場する。僧侶か山伏だと思われる。熊野衆・高野衆・日向衆というのも旅を手助けする者たちだろうか。

岩屋から来ている船が、室津に寄港していたのだろう。乗り込もうとしたところ、船頭は「板をのせへき由(板を載せなきゃなんねぇから)」ということで、「各とハのせましき(あんたがたは乗せられねぇな)」とのこと。事情の詳細はよくわからないが、木材か何かを積み込む予定がすでにあったのだろうか。言い争いとなり、船頭も罵詈雑言をまくしたてる。南覚坊が「まあまあ」と取り成そうとするが、一行の者が「舟子のつらをうたれ候」……顔面をぶん殴ったのである。これについて島津家久は「善ふるまひにて」と記す。なんか褒めている。

しょうがないので一行は下船しようとするが、地下衆(地元の人?)が「乗っていけばいいんじゃない」と。船頭もしぶしぶ乗せることにしたのだろうか。あるいは、脅して……とか。そんな想像もさせられる。

 

亥の刻(午後10時頃)に船が出る。海上からは龍野城(たつのじょう、兵庫県たつの市龍野町上霞城)が見えた。夜間に航行して、高砂(たかさご、兵庫県高砂市)のあたりで夜が明けた。

 

 

天正3年4月14日、伝説の松とか一ノ谷古戦場とか

十四日、明石の浦人丸のしるしの松とて有、亦明石の城有、次ニしほや・たるみとて有、さて未ほとに淡ち嶋の方、江さきといへる処に舟かゝり仕、やかて出舟、右方ニ松の尾とて有、其次ニ江嶋とて有、左方ニ一谷ほのかに見え、其次に松風村雨の松有、それより行/\て兵庫へ申剋に着、其あたり一見、清盛・忠盛の御影拝見、さてつき嶋松にこんていの御堂へまいり候、

 

海路を西へ。播磨国の明石(兵庫県明石市)の浦の「人丸のしるしの松」を海上より見る。「人丸」というのは柿本人麻呂にちなむ地名。明石に柿本人麻呂の伝承のあり、腰掛けたとされる松もあったという。万葉集には明石で歌ったものが多く収録されている。「ともし火の明石大門に入らむ日や漕ぎ別れなむ家のあたり見ず(ともしびのあかしおおとにいらむひやこぎわかれなむいえのあたりみず)」「天離る鄙の長道を恋ひ来れば明石の門より家のあたり見ゆ(あまざかるひなのながちをこひくればあかしのとよりいへのあたりみゆ)」など。

 

「明石の城」も見えたとある。ちなみに近代城郭の明石城は元和4年(1618年)の築城。つまり、これとは別の城である。島津家久が見たのは明石川河口にあった林之城(明石市新明町)だと思われる。別名に「明石城」「明石古城」とも。当時は別所長治(べっしょながはる)の領内である。

なお、林之城はのちに高山右近(たかやまうこん、高山ジュスト、高山友祥)が明石領主となったときに改修され、「船上城(ふなげじょう)」と呼ばれた。

 

明石から東へ、塩屋・垂水(いずれも兵庫県神戸市垂水区)というところに向かう。未の刻(午後2時頃)に淡路島の江崎(兵庫県淡路市野島江崎か)にいったん船を着ける。また出船して、右手のほうに「松の尾」を見ながら航行。「松の尾」は松帆(淡路市岩屋のあたり)のこと。さらに江島(絵島)というところがある。左手のほうにはかすかに一ノ谷(神戸市須磨区一ノ谷)も見えた。源平合戦で知られる古戦場である。

 

さらに東へ。「松風村雨の松」があった。「衣掛松(きぬかけまつ)」とも呼ばれる。場所は須磨海岸のあたり。在原行平(ありわらのゆきひら)が須磨に流され、この地で「松風」「村雨」の姉妹と恋に落ち、そして都へ帰る際に松に狩衣と烏帽子を掛けて形見として残していった、という話がある。このときに詠んだとされる「たち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かば今帰り来む」という歌が、『百人一首』『古今和歌集』にもある。

 

そして、兵庫湊(神戸市兵庫区)へ申の刻(午後4時頃)に着く。摂津国に入った。兵庫の街を見物し、平清盛・平忠盛の御影(生前の姿を模した木像、あるいは絵)も見る。

そのあと「つき嶋松にこんていの御堂」へ参詣する。こちらは経島山来迎寺(きょうとうざんらいごうじ)のことだろう。「築島寺(つきしまでら)」ともいう。平清盛が大輪田泊(おおわだのとまり、兵庫湊)を整備する際に、埋め立てにより「経が島」をつくることになった。このとき、海神の祟りを鎮めるために人柱を沈めた。平清盛に仕えた松王丸という少年が名乗り出て人柱になったと伝わる。来迎寺(築島寺)はこの松王丸を弔うために建立されたものである。

 

この日の日記には和歌に由来する場所や、源平合戦の史跡に触れている。このあたりのことに、島津家久が興味を持っていたことがうかがえる。

ちなみに、兵庫湊の周辺は延元元年・建武3年(1336年)5月に「湊川の戦い」のあった場所でもある。この合戦の地であることに島津家久が触れていないのは、ちょっと意外な感じもする。

 

 

天正3年4月15日、西宮の焼餅が美味い!

十五日、辰剋舟出候へハ、左方ニ花山といへる城有、次ニ生田川、其次ニ生田森、亦ミかけの森、次ニ芦屋、儅、行/\て西の宮の内、海上より左の方ニぬす人をはりつけにかけられ候、さてゑひすの町なら屋の彦三郎・めくちの町松井甚介・亭主の子藤次郎、西のミやまておくり、藤次郎すゝを舟中にもたせ、さて西宮一見候ニ、甚介・藤次郎道しるへにて侍し、それより打立ゆけは、彦五郎すゝ・焼餅、西の宮の名物とて持参、賞翫、さて打立行はむこ川とてあり、左方むこ山・しうち山とて有、右方むこの海、猶行てこやの寺まて、甚介いさない候て茶なと、それより甚介いとまこひ、名こりおし打過ぬれは、左方こやの池有、亦行て右方ニ有岡といへる城有、本ハいたミといへる城也、亦左方ニ池田といへる城有、今はわりて捨られ候、儅、行てせ川といへる郷を打過、にししゆくの村弥五郎といへるものゝところへ一宿、

 

辰の刻(午前8時頃)に兵庫湊から船を出す。左側には「花山といへる城」が見えた。花隈城(兵庫県神戸市中央区花隈町)のことだろうか。そして、生田川があり、生田の森(神戸市中央区下山手通)、御影の森(神戸市東灘区御影町)、芦屋(兵庫県芦屋市)と続く。生田の森は源平合戦の古戦場でもある。そして西宮(兵庫県西宮市)に入ると、盗人が磔にされている様子が見えた。

 

西宮に船を着け、ここからは陸路。「ゑひすの町なら屋の彦三郎」「めくちの町松井甚介」「亭主の子藤次郎」が西宮まで同行していた。松井甚介は4月9日の日記にて堺衆の一人として登場している。彦三郎も商人だろう。藤次郎は「亭主の子」とあるが、松井甚介の息子だろうか。甚介と藤次郎の道案内で西宮を見物してまわる。そして、彦五郎(彦三郎のことか)が焼餅などの西宮名物を持ってきてくれた。賞翫した(すげぇ美味かった!)。

西宮を出て武庫川を渡り、左手のほうには武庫山(むこやま、六甲山)と「しうち山」(詳細不明)。右手のほうには武庫の海が広がる。昆陽寺(こやでら、こんようじ、兵庫県伊丹市寺本)まで来たところで、松井甚介らと別れる。「名こりおし」と島津家久は書く。室津から旅をともにして、かなり仲良くなっていたようだ。

 

昆陽池(こやいけ)を左手に見ながら行く。右側には有岡城(ありおかじょう)も見える。有岡城については「もとは伊丹城といった」とわざわざ書いてある。伊丹城はもともと伊丹氏の城だったが、天正2年(1574年)11月15日に荒木村重(あらきむらしげ)に落とされた。そして伊丹城を改修して、城名も「有岡城」と改めた。島津家久が見たときにはまだ改修したばかりの頃である。

摂津国は池田勝正(いけだかつまさ)・和田惟政(わだこれまさ)・伊丹親興(いたみちかおき)が領有していた。織田信長から摂津国を任され、「摂津三守護」とも呼ばれている。摂津三守護は織田信長に反抗して、攻め滅ぼされる。荒木村重はもともと池田氏に仕えていたが、池田家の権力を掌握。そして、織田信長の配下となって摂津国を掌握した。

 

有岡城を過ぎると池田城(大阪府池田市城山町)が見えた。「今はわりて捨られ候」とも記す。天正2年(1574年)に荒木村重がここから有岡城へ居城を移し、池田城は廃城となっていた。

さらに行く。瀬川(せがわ、大阪府箕面市瀬川)を過ぎて、西宿(にししゅく、箕面市西宿)まで。ここで宿をとる。

 

 

 

天正3年4月16日、山崎に至る

十六日、打立行ハ、右方ニいはらきといへる城有、それよりあくた川といへるをわたり、亦右方高つきといへる城有、さて山崎の井上新兵衛といへるものゝ所へ一宿、

 

西宿を出て京を目指す。右手のほうに茨木城(いばらきじょう、大阪府茨木市片桐町)が見えた。この頃は中川清秀の居城だ。中川清秀はもともと池田氏の配下であったが、織田信長に仕えて重用される。

さらに東へ。芥川(あくたがわ)を渡り、右側に高槻城(たかつきじょう、大阪府高槻市城内町)を見る。当時の城主は高山右近(高山ジュスト、高山友祥)である。高山右近は熱心なキリシタンで、高槻には教会や神学校などもあったはず(日記には書かれていないけど)。

 

この日、山崎(やまさき、大阪府三島郡島本町/京都府乙訓郡大山崎町)に入る。山崎は摂津国と山城国の境である。

余談だが、7年後の天正10年(1582年)には「山崎の戦い」がるあるところだ。本能寺の変のあと、羽柴秀吉が明智光秀をここで打ち破っている。

 


島津家久は、いよいよ京のある山城国へと入ることになる。

つづく……。

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<参考資料>
『中務大輔家久公上京日記』
翻刻/村井祐樹 発行/東京大学史料編纂所 2006年
※『東京大学史料編纂所研究紀要第16号』に収録

鹿児島県史料『旧記雑録 後編一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1981年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 諸氏系譜三』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 1992年

『明石市史 上巻』
編/黒田義隆 発行/明石市 1960年

『神戸の史跡』
編/神戸市教育委員会 発行/神戸新聞出版センター 1981年

『伊丹市史 第2巻』
編/伊丹市史編纂委員会 発行/伊丹市 1969年

『戦国時代の高槻』(2版)
発行/高槻市教育委員会 1981年

ほか