長谷神社(はせじんじゃ)は鹿児島県薩摩川内市樋脇町塔之原に鎮座。薩摩藩初代藩主の島津家久(いえひさ、島津忠恒、ただつね)を祀る。もともとは玉淵寺(ぎょくえんじ)という寺院があり、その跡地に神社が創建された。
なお、長谷神社は2022年に近くの一之宮神社に合祀(情報は鹿児島神社庁ホームページより)。つまり、ここは「長谷神社跡」と呼ぶのが正確なところだろう。
なお、明治5年以前の日付は旧暦にて記す。
明寶山玉淵寺
明寶山玉淵寺は薩摩国薩摩郡塔之原にあり。山号の読み方は「みょうほうさん」か? 「めいほうさん」か?
曹洞宗の寺院で、鹿児島の玉龍山福昌寺(ぎょくりゅうさんふくしょうじ、鹿児島市池之上町)の末。本尊は釈迦如来であったという。なお、福昌寺は島津氏の菩提寺でもある。
当初は入来院浦之名(いりきいんうらのみょう、鹿児島県薩摩川内市入来町浦之名)にあり、寺号も「雪松山慈光寺」であった。これを万治年間(1658年~1661年)に現在地へ遷す。そして寛文3年(1663年)2月に福昌寺31代住持の嶺室存鷲を開山とし、「明寶山玉淵寺」と寺号を改めた。瑞岳和尚が住み、玉淵寺を任された。また、福昌寺に島津家久(島津忠恒)の位牌(分霊)の安置を願い出て、その菩提寺とした。
門前には樋脇川が流れている。そこに「玉淵」と呼ばれる藍色の深淵があり、これが寺号の由来にもなっている。
この地はもともと入来郷のうちだったが、万治2年(1659年)に入来郷から割いて藩の直轄地とした。当初は「清敷郷」と呼ばれていたが、入来の中心地の「清色」と名前が似ていてややこしいことから、延宝7年(1679年)に「樋脇郷」に改称されている。玉淵寺の移転開山は、樋脇郷の設立にあわせて行われている。
『三国名勝図会』には玉淵寺の絵図が掲載されている。

樋脇川にかかる寺下橋の西側に玉淵寺の入口がある。標柱には「玉渕寺跡」とある。なお、門前を正面に見て道路を左のほうへ入っていくと、境内へ車で入ることができる。広場があって駐車も可能だ。

石段をのぼると、ちょっと石垣がある。『三国名勝図会』の絵図と見比べると、ほぼ当時のままか。

石段をのぼったところには「本庵の田の神」も置かれている。詳細はこちらの記事にて。
こちらは秋葉神社。その存在は絵図でも確認できる。

寛文10年(1670年)7月23日に島津光久(薩摩藩2代藩主、島津家久の子)が玉淵寺を訪れて大施餓鬼が施された。これ以降、毎年7月23日に大施餓鬼が実施されるようになった。大施餓鬼では島津光久の自作の歌曲にあわせて舞楽も奉納される。これは「樋脇武士踊り」と呼ばれている。
樋脇武土踊の歌
常盤なるの松の緑も君が代も
今こそ千歳の始めなりけれ
千代に八千代に経るともや
動はせまいの
君が治むるこの國ぢや
山がらの山でさゝれて里に出でて
駕籠の中での恨みごと
駕籠は小駕籠で戻る討たれんたれん麻の中なる糸絲
寄りてかゝるも緑でそろ
哀れ身が船ならば
思ふ彼の様打乗せて
嵐しや無くとも我が宿に
何れ浮き身や(『西薩摩の民謡』より)
玉淵寺は明治初め(1868年頃)に廃された。境内にはその遺物が置かれている。これらは昭和61年(1986年)に寺下橋の工事の際に出てきたものとのこと。だいぶ破壊されていて、廃仏毀釈の激しさを物語る。

観世音菩薩像。けっこう状態が良い。ただ、掘り出されたときには頭が欠けていた。頭はちょっと離れた場所から頭も見つかったそうだ。

石仏。上半身が壊されている。

仁王像の脚の部分。『三国名勝図会』の絵図を見ると、石段をのぼったところに立っていたようだ。

山田境界論争事件
玉淵寺跡のまわりには共同墓地(玉渕寺墓地)があり、こちらにも古い墓石や石造物が散在している。その中に「小佐正右衛門の墓」「中野助七の墓」なるものも。


元禄16年(1703年)に小佐正右衛門・中野助七は亡くなっている。「山田境界論争事件」により自害した。小佐正右衛門は樋脇郷の噯(あつかい、郷の政務を統括する役職)、中野助七は行司役(郷の山林を管理する役職)であった。樋脇郷と平佐郷とのあいだで境界論争が激しく、発砲事件にまで発展したとも。そして、樋脇郷の7人の役人が藩庁に召し出され、遠島処分が言い渡された。7人の役人のうち、小佐正右衛門・中野助七は山川港で風待ち中の間に自刃したという。
長谷神社
玉淵寺が廃されたと、島津家久(島津忠恒)は神として祀られることになった。樋脇の三島に「皇軍神社」が創設され、明治3年(1870年)2月23日に遷座の神事が行われた。御神号は「聡霊安国彦命(サトタマヤスクニヒコノミコト)」。地域の軍神として崇められた。
ちなみに福昌寺も寺院を廃して神社へ変わっている。聡霊安国彦命(島津家久/島津忠恒)を御祭神とする長谷神社が創建されている。樋脇の皇軍神社は、鹿児島の長谷神社の分霊という位置付けだったと思われる。そして、皇軍神社は「長谷神社」とも呼ばれた。
なお、鹿児島の長谷神社は現存しない。龍尾神社(たつおじんじゃ、島津氏初代の島津忠久を祀る)に合祀されたあと、さらに龍尾神社が鶴嶺神社(つるがねじんじゃ、島津家歴代当主などを祀る)に合祀されている。
玉淵寺跡には招魂社が建立された。明治10年(1877年)の西南戦争の戦没者などが祀られた。その後、三島にある長谷神社は玉淵寺跡に戻され招魂社と合祀されることとなる。昭和26年(1951年)10月10日に長谷神社を遷座合祀した。
長谷神社の社殿は玉淵寺の仏殿のあった場所に建てられた。鳥居は二つある。

石造りの祭壇があり、その上に小社がある。招魂碑・招魂墓といっしょに祭祀。


長谷神社跡は神様が遷されたあとも、手入れが行き届いている。やはり招魂碑があるからだろうか。
<参考資料>
『三国名勝図会』
編/橋口兼古・五代秀尭・橋口兼柄・五代友古 出版/山本盛秀 1905年
『樋脇町史 上巻』
編/樋脇町史編さん委員会 発行/樋脇町 1993年
『樋脇町史 下巻』
編/樋脇町史編さん委員会 発行/樋脇町 1996年
『樋脇村史 前編』
編・発行/樋脇村役場 1927年
『西薩摩の民謡』
著・発行/鹿児島県立川内中学校 1937年
ほか