天正3年(1575年)の島津家久(しまづいえひさ)の上京の旅程を追う。『中務大輔家久公御上京日記』より。2回目の今回は、ついに九州を出る。
- 天正3年3月1日、高良山で歓待される
- 天正3年3月2日、通行料とられまくり
- 天正3年3月3日、小石原に至る
- 天正3年3月4日、英彦山で歓待される
- 天正3年3月5日、法螺貝と山桜と
- 天正3年3月6日、贈り物をたくさんもらって出発
- 天正3年3月7日、城井氏の館を見る
- 天正3年3月8日、簑島へ
- 天正3年3月9日、曽根へ
- 天正3年3月9日、関門海峡を渡る
なお、日記の日付は旧暦である。
『中務大輔家久公御上京日記』についてはこちらの記事にて。
翻刻した史料はこちらに収録。
『中務大輔家久公御上京日記』(東京大学史料編纂所ホームページ)
島津家久は、のちに島津氏の九州制圧戦で武名を挙げた。島津貴久の四男で、兄に島津義久(よしひさ)・島津義弘(よしひろ)・島津歳久(としひさ)がいる。
島津家久の詳細はこちら。
前回はこちら。
天正3年3月1日、高良山で歓待される
三月朔日、高良山の惣神へ参、それより坊中一見し帰り候へは、座主の房とて五人酒を持参、則引物、
島津家久の一行は筑後国の高良山(こうらさん)の神々を詣でた。高良山は現在の福岡県久留米市御井町にあり、高良大社を中心とした聖地である。筑後国一之宮で、主祭神は高良玉垂命(コウラタマタレノミコト)。
参詣を終えて山を下りようとしていたところ、高良山座主の使いの者5人が酒を持ってやってきた。そのあとは、酒宴になったのかな?
ちなみに、天正6年(1578年)の高城川の戦い(耳川の戦い)にて、高良山座主は大友方として出陣している。新納院高城(にいろいんたかじょう、宮崎県児湯郡木城町)攻めの軍勢の中にあったが、籠城していた島津家久に内通。11月11日の島津方の松山陣攻撃の際に、島津方に降った。
天正3年3月2日、通行料とられまくり
二日、辰の剋に打立行は、町末にて別当くしとてとられ候、それより隈代の渡ちん、又草野殿の関、さて行は右方ニ草野殿の城有、猶行はほしのとのゝ城有、爰に北野の天神とて大社有、参候て通り行は、三原といへる村に追つき、北野のやくしよくしとて、是も草野とのよりとられ候、さてそれより行て、筑前の内みな木名板屋の門源五郎といへる者の所に一宿、
辰の刻(午前8時前後)に出立し、町末で通行料をとられ、また隈代で渡し賃を徴収される。「隈代」は神代(くましろ)であろう。現在の久留米市山川神代のあたり。筑後川を渡るときにお金を取られた、と。
そのあと「草野殿の関」を通過。このあたりは草野(くさの)氏が領していた。右手のほうに見えた「草野殿の城」は、竹井城(たけいじょう、草野城とも、久留米市草野町吉木)だと思われる。
また、山のむこうのほうに「ほしのとのゝ城(星野殿の城)」がある、と。鷹取城(たかとりじょう、福岡県八女市星野村)であろう。この頃の星野氏の当主は星野鑑泰だろうか。ちなみに星野氏も、高城川の戦い(耳川の戦い)で高良山座主とともに島津方に降る。
そのあと、北野天神(北野天満宮、久留米市北野町中)に参詣。そこから三原(御原、福岡県三井郡大刀洗町のあたりか)へ。そしてまた、草野氏の関所で通行料をとられる。
神代で筑後川を渡ったあとは、川の北側を東へと進んだようだ。この日は筑前国三奈木(福岡県朝倉市のうち)まで至る。
天正3年3月3日、小石原に至る
三日、こし原の町彦左衛門所へ一宿、
この日は記述が少ない。「こし原」で宿をとった、とだけ。筑前国小石原(こいしわら、福岡県朝倉郡東峰村)にたどり着いた。Google Mapで見たところ、険しい山道がずっと続いているようだ。特筆すべきことはなかったのかな? また、疲れていたのかも?
天正3年3月4日、英彦山で歓待される
四日、彦山へ参詣仕ましき覚悟なりしかとも、態使僧馬二疋さゝせられ候而、頻にとありし間、不慮ニ参詣候、儅、政所より道迄御酒持参、山臥五六人迎に来たられ候、それより政所へ着、種々の會尺、風呂なとも有、是よりも神物なと、
小石原から山中を東へ。豊前国に入り、彦山(ひこさん、英彦山)に至る。現在の英彦山神宮(福岡県田川郡添田町英彦山)である。英彦山を神体山とする霊場で、主祭神は正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤノアメノオシホミミノミコト)。
英彦山に入ろうとすると、使いの僧が2疋の馬を連れてやってきた。馬に乗せられて参詣してまわる。そして、政所(座主)の使いとして5~6人の山伏が酒持参で迎えにきた。政所に招かれ、ここでは風呂にも入れさせてもらう。ものすごい歓待ぶりであった。
天正3年3月5日、法螺貝と山桜と
五日、山上仕、各とも参候へハ、行者堂ニ嶺入の衆つとめなされ候、おの/\かひをふきつれ侍るをきゝ、心も天かけるやうにて帰り、さて坊中一見し、般若坊といへるに類なきひさくらあり、
引き続き英彦山に滞在。山に入った修験者が法螺貝を吹いているところに出くわす。「心も天かけるやうにて」と感想を記す。坊を見てまわる。その中の般若坊には、見事な緋桜があった。
天正3年3月6日、贈り物をたくさんもらって出発
六日、政所より太刀一腰、同種々の祝物拝領、それよりハ打立候得者、又馬二疋にてほはしらといへる所まておくられ候、送の者へ何やらんとらせ、さて其夜ハ記伊の内うち墻といへる村に一宿、あるしハ常心といへる禅門、
英彦山を出発。政所からは太刀一腰をはじめ、贈り物をたくさんいただく。そして、2疋の馬を出して、豊前国仲津郡の帆柱(ほばしら、福岡県京都郡みやこ町犀川帆柱)まで送ってもらう。夜に記伊(城井、きい)の内垣(うちがき、みやこ町犀川内垣)に着く。
天正3年3月7日、城井氏の館を見る
七日、記伊殿といへる人の隠居所一見、それより行ハ、左の方ニ馬のたけとて、長野殿の城有、さて伊摩井の町、矢野次郎五郎といへる者の所へ一宿、夜入て辻雅楽助といへる人、すゝ食籠調候て、慶雲といへる禅門同心にて語りに来たり候、
「記伊殿」というのは城井氏(きい、宇都宮氏)のこと。「宇都宮氏館跡(城井氏館跡)」というのが福岡県築上郡築上町松丸にある。隠居所はこれのことだろうか。城井氏では城井長房が隠居し、嫡男の城井鎮房が家督を譲られていた。
そこからしばらく進むと、長野氏の馬ヶ岳城(うまがたけじょう、福岡県行橋市津積馬ヶ岳)。そして伊摩井(今井、いまい、行橋市今井)で宿をとった。伊摩井(今井)の宿には、辻雅楽助という人物と、慶雲という名の禅僧が訪ねてきた。
天正3年3月8日、簑島へ
八日、みの嶋といへる所一見、
伊摩井(今井)の近くの簑島(みのしま)を見にいく。風光明媚な場所として知られていたのだろう。現在の簑島は埋立により陸続きになっているが、当時は文字通り「島」だった。島には簑島城も築かれていた。
天正3年3月9日、曽根へ
九日、午剋ニ伊广井を打立、未程にかんたの町を打過、曽祢といへる村、權童次郎といへるいやしからぬニ一宿、
伊摩井(今井)を出て、苅田(かんだ、福岡県京都郡苅田町)を通り、曽祢(そね、福岡県北九州市小倉南区曽根)に至る。
天正3年3月9日、関門海峡を渡る
拾日、辰の剋に打立、そねの町を打過、未程にこくらの町ニ着、高橋殿の館一見し、それより舟をしたし行は、右方に赤坂といへる村有、つゝきて根ふたの松とて有、是は平家代よりの松也、今まてみとり立事なし、其次に大裏といへる町有、亦こもり江といへる村、次に四の瀬とて有、其ならひに文字の城あり、亦左方ニ福嶋といへる嶋有、其邊にりう舩あまたすなとるとみえたり、猶みるに長門の内赤まか関なとゝて有、亦桜尾とて有、其湊に舟をつけ、関の町なへの町一見し、其夜ハ関の町左馬といへる者の所に一宿、
辰の刻(午前8時前後)に曽祢(曽根)を発ち、未の刻くらい(午後2時頃)に小倉(こくら、福岡県北九州市小倉北区)の町に入る。小倉では「高橋殿」の館を見る。この「高橋殿」は高橋鑑種(たかはしあきたね)か?
高橋氏は大蔵姓だが、高橋鑑種は大友氏支流の一萬田(いちまだ)氏から養子に入っている。高橋鑑種は大友氏から離反し、毛利氏につく。毛利氏が九州から撤退したあと、高橋鑑種は高橋家の家督を剥奪され、小倉で隠居の身となっていた。なお、高橋家の家督は吉弘鎮理(よしひろしげまさ)が継承し、「高橋鎮種(しげたね)」と名乗る。この人物は「高橋紹運(じょううん)」の法号のほうでよく知られている。
小倉から船で移動していると、赤坂(北九州市小倉北区赤坂)の海岸に立派な松が見えた。「根ふたの松」という平家の時代(12世紀頃か)から生えているらしい、と。「今まてみとり立事なし」とは島津家久の感想。
船は行く。海から大裏(大里、北九州市門司区大里)、小森江(門司区小森江)、そして四之瀬(たぶん門司港のあたり)に差しかかり、その並びに門司城(もじじょう)が見えた、と。門司城は関門海峡近くの山上にある。この頃は毛利氏領だと思われる。
左手のほうには「福嶋」が見える。こちらは船島(ふなしま、山口県下関市彦島)のこと。別名に巌流島とも。島の近くには漁船もいっぱい浮かんでいた、と。
一行は長門国赤間関(あかまがせき、山口県下関市)に入る。
島津家久はついに九州を出る。
つづく……。
<参考資料>
『中務大輔家久公上京日記』
翻刻/村井祐樹 発行/東京大学史料編纂所 2006年
※『東京大学史料編纂所研究紀要第16号』に収録
鹿児島県史料『旧記雑録 後編一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1981年
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年
鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年
鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 諸氏系譜三』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 1992年
ほか