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島津家久の上京日記【6】 道すがら小早川殿の城を眺めてみたり/天正3年3月26日~4月7日

島津家久(しまづいえひさ)は天正3年(1575年)3月に安芸国の厳島神社(広島県廿日市市宮島町)を参詣。『中務大輔家久公御上京日記』では、その様子を興奮気味に伝えている。

前回の記事はこちら。

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宮島をあとにして、一行は京を目指して東へ。日記では瀬戸内の様子が伝えられている。

日記の日付は当時のもの(旧暦)。

 

『中務大輔家久公御上京日記』についてはこちら。

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史料は東京大学史料編纂所に収蔵。以下のリンクより翻刻が閲覧できる。記事での引用もこちらから。
『中務大輔家久公御上京日記』(東京大学史料編纂所ホームページ)

 

島津家久は、15代当主の島津貴久(たかひさ)の四男。兄の島津義久(よしひさ、16代当主)・島津義弘(よしひろ)・島津歳久(としひさ)らとともに島津氏の勢力拡大の主力を担った。戦略眼の鋭さなども『中務大輔家久公御上京日記』から感じられる。

島津家久についてはこちらの記事にて。

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小早川殿の城とか鞆の浦とか

天正3年3月26日、道を間違って三入高松城を見る

廿六日、辰剋ニ打立、ひきミたうといへる町を打過、亦ミとりといへる町を通り、儅、高松の城とて有、其ふもとにて人ニとヘハ、是ハあらぬ道といへる間、跡のことくふミ帰り、八木といへる渡にて渡賃、猶行て遊坂といへる大坂を越、しハの内西といへる村、ミとの弾正の所へ一宿、

 

この日は安芸国の祇園原(広島市安佐南区祇園)から。

辰の刻(午前8時頃)に出立する。まずは「ひきミたう」の町を通る。「引御堂」か? そして、緑井(みどりい、安佐南区緑井町)をすぎると、「高松の城」があった。城の麓の者に道をたずねると、道を間違っていたことがわかる。引き返して八木(やぎ、安佐南区八木町)の渡しへ、ここで渡賃を取られる。そこから東へ向かい、「遊坂という大坂」(湯坂峠)を越えて志和の西村(広島県東広島市志和町の志和西あるいは志和別府のあたりか)に入った。この日は、ここで宿をとる。

 

出発してすぐ、一行は緑井からヘンな方向へいってしまった、と。そこにあったのが「高松の城」。三入高松城(みいりたかまつじょう、広島市安佐北区可部)のことだと思われる。ここは熊谷直実(くまがいなおざね)の居城だ。熊谷氏は毛利氏に従っている。

 

 

 

天正3年3月27日、椛坂から玉利(田万里)へ

廿七日、打立、椛坂といへるを越、右の方ニ城有、又今坂といへるたをゝ越、跡をミれハ、堀の城とて遠くみえ侍り、又行て左の方に白山とて幽ニみえ、猶行て、さいちゃうの四日市といへるを打過、大なる岡を越行ハ、女めくら十七人烈立来るに行合、儅、行て玉利の町を打過、宗満といへる入道の所に一宿、

 

志和の西村を出て、椛坂(かぶさか、広島県東広島市七条椛坂のあたり)を越えたところで右手のほうに城が見えた。この城は特定できず。泥田城だろうか? 椛坂城だろうか? 米山城だろうか?

しばらく東へ。今坂峠(今坂といへるたを)を越える。現在の東広島市志和町志和東と八本松町との境目の山にある峠である。峠を振り返ると「堀の城」が遠くに見えた、とある。「堀」は志和町志和堀のあたりだろう。志和堀には金明山城(きんめいざんじょう)があり、島津家久が見たのはこの城だと思われる。

また、しばらく行くと左のほうに「白山」がかすかに見えた。白山城(しろやまじょう、東広島市高屋町白市)だろう。こちらは平賀(ひらが)氏の城。

 

さらに東へ。西条の四日市(広島県東広島市西条町)を過ぎ、山を越えるところで「女めくら十七人」と行き交う。盲目女性の旅芸人(「瞽女(ごぜ)」とも呼ばれる)の一団だろう。「17人」と人数を記しているところに、島津家久の性格がなんとなく表れているような気もする。

この日は玉利(田万里、たまり、広島県竹原市田万里)まで。ここで宿をとる。宿泊先は寺院だろうか。

 

 

天正3年3月28日、何もなし

廿八日、雨ふりとて逗留、

雨で出発せず。

 

 

天正3年3月29日、小早川殿の城を見る

廿九日、朝立行けば、和田崎とて町有、其次に左の方ニ高山とてぬたの城有、こはい川殿の御座所と所の人いへり、其麓にぬた川とて渡賃、猶行て七日市とて有、次に新町有、其邊に出川有、おの/\はたニ成て渡候、其むかひにて有所、一閑より餅たへさせられ、それを片手ニ持、くひのやちたひの道すから、備後の内三原の町文左衛門といへる者の所へ一宿、

 

出発して「和田崎」の町を通る。場所の詳細はよくわからず。地図を見ての推測だと現在の広島県竹原市新庄町のあたりか? あるいは三原市に入ったところか? そして、左手のほうに「高山とてぬたの城」があった、と。こちらは新高山城(にいたかやまじょう、広島県三原市本郷町)である。小早川隆景(こばやかわたかかげ)の居城だ。日記には「こはい川殿の御座所と所の人いへり」とも記されている。ちなみに小早川隆景は毛利元就(もうりもとなり)の三男で、当主の毛利輝元(てるもと)の叔父として毛利家の政務の中枢を担った。

 

新高山城の麓で沼田川を渡り、渡し賃を取られる。そのまま東へ向かい、七日市(場所わからず)と新町(場所わからず)を過ぎ、川(仏通川か?)があったのでみんな服を脱いで渡る。そして渡ったところで「一閑より餅たへさせられ、くひのやちたひの道すから」と。餅を食べながら歩いたようだ。そして三原(広島県三原市)の町に到着。備後国に入った。

 

 

天正3年4月1日、三原城を見る

卯月朔日、打立行は、やかてミはらの城有、次に左方ニ高盛といへる城ミへ侍り、猶行て高丸といへる城有、鬼なともや住けんとおそろしくて、今津の町四郎左衛門といへる者の所ニ一宿、

 

宿を出ると、三原城(みはらじょう)があった。現在の三原市城町のあたりで、JR三原駅のある場所に築かれていた。小早川隆景(こばやかわたかかげ)が沼田川河口に整備した城で、軍港を備えた水軍の基地だった。

 

しばらく進むと「高盛といへる城」が左側に見え、さらに行くと「高丸といへる城」があった。この二つの城についてはよくわからず。「高丸といへる城」については、「鬼が住んでいるんじゃないのか」というおどろおどろしい雰囲気だったようだ。

この日は今津(広島県福山市今津町)まで。ここで宿をとる。

 

 

天正3年4月2日、鞆の浦から海へ

二日、打立、山田といへる町を打過、やかで山田の城有、行/\て備後のともニ着、善左衛門といへる者の所へ徊らひ、舟よそひの間、其邊一見候、ともの城有、それより出舟候へは、島/\数をしらす、其中をこきとをり、左方ニ備中・備前、右方ニ四国のあハと遥にみえ、それよりしはくニ着、東次郎左衛門といへるものゝ所へ一宿、

 

山田(広島県福山市熊野町)の町をすぎると、「山田の城」あり。山田には一乗山城(いちじょうさんじょう)や中山田城があり、そのいずれかだろうか。

 

さらに進むと鞆(とも、福山市鞆町)につく。鞆から船に乗ることになり、船の準備をしている間にあたりを見物した。「ともの城」は鞆要害(鞆城の前身)か、あるいは大可島城か。

鞆の浦から海へ。島なみのなかを抜ける。船上からは左手のほうに備中と備後の浦々が見え、右手のほうには四国も見える。船は塩飽(しわく、塩飽本島、香川県丸亀市本島町)に着く

 

余談だが、天正4年(1576年)に将軍の足利義昭が毛利氏に庇護を求めた。そして、鞆を御所として亡命幕府とした。鞆の足利義昭は島津氏にも協力を呼びかける。大友氏に対して島津氏と毛利氏が連携をとるよう持ちかけてきて、これが島津氏の豊後攻めの大義名分にもなった。

 

 

天正3年4月3日、塩飽を見物

三日、しはく見めくり候、

塩飽の町に見物に出る。船待ちのためでもあるのか。塩飽は瀬戸内海の海路の要衝でもある。

 

 

天正3年4月4日、下手な蹴鞠

四日、しはくの内かうといへる浦を一見、それよりしはくの人躰福田又次郎といへり、其館にて鞠遊有、不存なから無方鞠かと見及候、いつれも足ハ天にあかり、其外見苦敷事ハ申はかりなく候、

 

前日に続いて塩飽の見物。福田又次郎という人の屋敷では、蹴鞠遊びがあった。その様子を見て「どうやら我流みたい」「足を高くあげすぎて、だいぶ不格好だ」というのが島津家久の感想。

 

 

天正3年4月5日、直島へ

五日、未剋ニ舟出候、左方ニ備前の小島、右方四国、扨行/\てひゝの関とて来たり、又のう嶋関とて来り候、いつれも舟頭の捌候、其夜ハのう島といへる所に舟かゝり、

 

未の刻(午後2時頃)に出船。航行中に日比(ひび、岡山県玉名市日比)の関所の人が来た。また、直島(なおしま、香川県香川郡直島町)の関所の者が来た。いずれも船頭に対応してもらう。何か手続きが必要なのだろうか。夜に直島に船をつけた。

 

 

天正3年4月6日、牛窓へ

六日、暁舟をいたし、海上も西うしまとといへる所より関とても兵舩一艘来り、船頭さはき候、其より申剋にうしまとに舟かゝり、うしまと一見、儅、其未到ニ舟出シて、其夜ハおふたといへる所ニ舟かゝり、

 

早朝に出船。海上にて牛窓(うしまど、岡山県瀬戸内市牛窓町)の関所から軍船が来る。船頭に対応してもらう。申の刻(午後4時頃)に牛窓に入港。牛窓を見物したあとに船を出し、その夜は「おふた」に船を着けた。なお、「おふた」は大多府島(おおたぶじま、岡山県備前市日生町大多府)のことらしい。

 

 

天正3年4月7日、室津へ

七日、暁出舟、左方ニしやくしとて郷有、其次ニなはとて亦村有、さて播广の内室の津に申剋ニ舟おしつけ、室一見、さて源兵衛尉といへる者の所へ一宿、

 

早朝に出船。海上を行く。左手のほうに坂越(さこし、兵庫県赤穂市坂越)が見え、次に那波(なば、兵庫県相生市)の村が見えた。申の刻(午後4時頃)に室津(むろのつ、兵庫県たつの市御津町室津)に船を着ける。室の町も見学する。

播磨国に入った。

 

つづく……。

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<参考資料>
『中務大輔家久公上京日記』
翻刻/村井祐樹 発行/東京大学史料編纂所 2006年
※『東京大学史料編纂所研究紀要第16号』に収録

鹿児島県史料『旧記雑録 後編一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1981年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 諸氏系譜三』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 1992年

『志和郷土誌』
著/岡本清徳 発行/志和史研究會 1949年

『三原市史 第1巻(通史編1)』
編・発行/三原市 1977年

『福山市史 上巻』
編/福山市史編纂会 発行/国書刊行会 1983年

ほか