ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

「祁答院」って何だ?

「祁答院」という地名が鹿児島県にある。「けどういん」と読む。これについて、調べてみた。

 

 

 

祁答院の場所

「祁答院」というのは、薩摩国伊佐郡の宮之城(みやのじょう)・山崎(やまさき)・鶴田(つるだ)・佐志(さし)・永野(ながの)・黒木(くろき)・大村(おおむら)・藺牟田(いむた)の一帯だ。

その範囲は、現在の鹿児島県薩摩郡さつま町と薩摩川内市祁答院町とほぼ重なる。

 

郡については、明治時代に伊佐郡から分立して「南伊佐郡」に。そして、明治29年(1896年)に南伊佐郡は薩摩郡に編入されている。

また、昭和30年前後に祁答院地域の村が合併により再編し、「宮之城町」「薩摩町」「鶴田町」「祁答院町」の4町となる。

祁答院の中心地は宮之城である。南伊佐郡の郡役所も宮之城にあった。じつは「祁答院町」を称する地域(大村・黒木・藺牟田)は、祁答院の端のほうだったりもする。

なお、2005年に宮之城町・薩摩町・鶴田町が合併して「さつま町」となる。また、祁答院町は2004年に川内市などと合併して薩摩川内市の一部となっている。

 

 

 

「祁答院」の由来は?

なぜ「ケドウイン」と呼ぶのか? 由来については確かなことはわかっていない。

 

祈祷院神興寺(きとういんしんこうじ)という寺院に由来するという説がある(『宮之城紀』などに記される)。神興寺は鶴田の紫尾山の麓にある。紫尾山三所権現(現在の紫尾神社)の別当寺であった。ただし、この説については根拠に乏しい感じがする。

 

『新田八幡宮観樹院文書』にある康治元年(1142年)の大前道助譲状の中で、「祁答院」の文字が確認できる。これが最古の記録のようだ。

ちなみに、建久8年(1197年)の薩摩国図田帳では、「邪答院」という地名が確認できる。たぶん「祁」を「邪」と書き違えたものだろう。

 

 

南九州には「○○院」がたくさんあった

中世の頃までは、薩摩国・大隅国・日向国には「○○院」がたくさんあった。列挙してみる。属する郡も記す(郡域は時代によって変更あり)。

 

【薩摩国】

山門院(やまといん)・莫禰院(あくねいん)/和泉郡

牛屎院(うしくそいん)・祁答院/伊佐郡

伊集院(いじゅういん)・市来院(いちきいん)・満家院(みつえいん)/日置郡

給黎院(きいれいん)・知覧院(ちらんいん)/給黎郡

 

【大隅国】

太良院(たらいん)/菱刈郡

蒲生院(かもういん)・吉田院(よしだいん)・加治木院(かじきいん)・横川院(よこがわいん)・栗野院(くりのいん)/桑原郡

小河院(おがわいん)・財部院(たからべいん)・深河院(ふかがわいん)/囎唹郡

鹿屋院(かのやいん)・串良院(くしらいん)/姶羅郡

禰寝院(ねじめいん)/大隅郡

 

【日向国】

島津院(しまづいん)・三俣院(みまたいん)・真幸院(まさきいん)・救仁院(くにいん)・穆佐院(むかさいん)/諸県郡

櫛間院(くしまいん)・飫肥院(おびいん)/宮崎郡

新納院(にいろいん)・都於郡院(とのこおりいん)/児湯郡

土持院(つちもちいん、古くは臼杵院)/臼杵郡


現在も地名として残っているものは「伊集院」と「祁答院」くらいだろうか。ただ、「院」がとれた状態で残っている地名はかなり多い。そして、かつての「院」が、現代の行政区分にもそのままつながっているところもけっこうある。

 

また、「郡」内に「院」が複数あることがほとんど。ちなみに、伊佐郡は南部の祁答院と、北部の牛屎院(現在の伊佐市大口のあたり)がある。

 

 

「院」とは何ぞや?

「院」の説明が『三国名勝図会』(薩摩藩が19世紀に編纂した地理誌)にある。巻之一の「古郡院」のところに記されている。

凡そ皇国の制、国を以て郡を統べ、郡を以て郷を統べ、郷を以て村を統ぶ。国には国衙を置き、国司是に居る。郡には郡庁を置き、倉庫あり、郡司是を掌る。其周囲には必ず垣牆を以てす。故に院といふ。或は倉院といふ。百姓の郷村に居る者、僻遠にして、郡と隔たり、山川を跋渉すれば、受納の責あり。且、倉舎も近に比ひ相接すれば、失火の憂へあり。故に命あり、郡郷に於る、分て倉院を建らる。村居相接して、比近の郷は、宜きを量り、是を其中央に建つ。村居阻遠にして、山川隔絶すれば、地の利に随て、毎郷是を建つ。(『三国名勝図会』巻之一より、読みやすくするために一部の文字に濁点の追加、句読点の追加や打ち替えをしています)


郡ごとに倉を置いて、そこに徴税で集めたモノを置くようなっている。倉の周りを垣で囲むことから、「院」または「倉院」という。「院」「倉院」は郡に一つってわけでなはい。倉が密集していれば、火事のときに全部燃えてしまうこともある。だから、何ヶ所かに分けて建てたほうがいい。また、遠かったり、地形が険しかったりして、運ぶのが大変なこともある。そういう観点からも、分けて建てたほうがいい。

……と、だいたいこんなことが書かれている。


「院」「倉院」のはじまりについては、『続日本紀』と『日本後紀』に見える。『三国名勝図会』の説明でもこれらに触れている。


ちなみに、『続日本紀』の延暦10年(791年)2月の条にはこうある。

諸国倉庫、不可相接、一倉失火、合院焼尽、於是勅、自今以後、新造倉庫、各相去十丈已上、随処寛狭、量宜置是 (『続日本紀』より)

 

「火事があると全部燃えてしまうこともあるから、倉庫の密集を避けるように、新たに倉庫を建てるべし」というような命令である。


そのような経緯から、「院」は徴税のための一つの「くくり」として扱われるようになった。そして「院」は郡の管理から独立した存在になっていったようだ。

平安時代後期の南九州では郡郷制のあり方が、だいぶ崩れている。「郡」に「郷」が属するのではなく、「郡」と「郷」、そして「院」の関係性が対等な感じなのだ。「院司」や「郷司」である者が、「郡司」と同等の力を持つ場合もあったようだ。史料には「祁答院郡司」「伊集院郡司」といった不思議な呼称も。本来は「院司」のはずなのに。

徴税を管理する者が大きな権力を持つ。郡司や院司を複数兼ねるような豪族も出てきた。また、在国司(在庁官人)を兼務する者もあった。

 

 

 

祁答院氏

氏族の名乗りというのは、領地に由来することが多い。祁答院氏もそうである。

祁答院氏にはおもに二つの系統がある。ひとつは郡司系の大前氏の一族。もうひとつは地頭系の渋谷(しぶや)氏の一族である。

 

祁答院郡司の大前氏

12世紀の薩摩国中北部には大前氏が大きな勢力を持っていた。読みは「おおくま」とも「おおさき」とも。その勢力範囲は祁答院・薩摩郡・高城郡・東郷別府など(現在の薩摩川内市全域とさつま町)。ほかに伊集院にも領地を持っていた。さらに薩摩国衙の在庁官人も務める。

大前氏は祁答院郡司の肩書を持つ。一族の中には「祁答院」を名乗りとする者もあった。

その出自については、諸説あり。万寿5年(1028年)に醍醐天皇の曽孫にあたる源里用が薩摩国司として下向したことに始まるとするもの、橘諸兄の後裔とするもの、清和源氏の後裔とするもの、といった系図が伝わっている。いずれも怪しい感じがする。

確かなことは、大前氏はだいぶ昔から祁答院に住む一族である。在庁官人でもあることから、大宰府との関わりがあった可能性もある。


だが、13世紀以降は大前氏の勢力がだんだん弱くなっていく。鎌倉の幕府から地頭が送り込まれてくる。祁答院の地頭には千葉常胤(ちばつねたね)が補任される。のちに千葉氏は没落し、渋谷氏が祁答院の地頭となって下向してくる。

南北朝争乱期の頃までは大前一族の名は確認できるものの、渋谷氏と争って没落していったものと考えられる。

 

宮之城の虎居城(とらいじょう、薩摩郡さつま町虎居)は、大前氏の築城とされる。この城は祁答院の統治者の拠点として引き継がれていく。

山城、川が堀の役割

虎居城跡、鹿児島県立北薩広域公園より見る

 

大前氏についてはこちらの記事でも。

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渋谷一族の祁答院氏

渋谷氏は桓武平氏の流れをくむ秩父(ちちぶ)氏の一族である。名乗りは相模国渋谷荘(しぶやのしょう、現在の神奈川県大和市周辺)に由来する。ちなみに東京の渋谷も、渋谷氏と関わりがあるという説もある。


宝治元年(1247年)の宝治合戦で渋谷光重(しぶやみつしげ)が活躍する。この戦いでは千葉氏が没落する。薩摩国にあった千葉氏の地頭職は、恩賞として渋谷光重に与えられた。その範囲は、伊佐郡南部の祁答院と、薩摩郡や高城郡の一帯にあたる。

渋谷光重は嫡男に相模国の本領を相続し、次男家~六男家には薩摩国の所領を分割して任せた。宝治2年に5人の息子が薩摩国に入る。それぞれが所領の地名を名乗りとするようになった。

次男家/早川実重→東郷氏(とうごう)

三男家/吉岡重保→祁答院氏(けどういん)

四男家/大谷重行→鶴田氏(つるだ)

五男家/曽司定心→入来院氏(いりきいん)

六男家/落合重定→高城氏(たき)

 

なお、渋谷光重の四男はすでに亡くなっており、こちらについては、その息子が鶴田に入った。


吉岡重保(よしおかしげやす、渋谷光重の三男)は、まず鶴田の柏原(かしわばる)に入ったという。それで、柏原氏を名乗る。のちに祁答院の一帯を支配したことから、祁答院氏を名乗るようになった。

 

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中世において渋谷一族は薩摩国の有力者として名前が出てくる。守護家である島津(しまづ)氏とは敵対したり、あるいは協力したり。

南九州では14世紀の南北朝争乱期よりずっと内乱状態にある。

 

応永8年(1401年)、祁答院の鶴田で大きな合戦があった。「鶴田合戦」と呼ばれるものである。この頃の島津氏は総州家(そうしゅうけ)と奥州家(おうしゅうけ)に分裂していた。総州家の島津伊久(これひさ)と奥州家の島津元久(もとひさ)がこの地でぶつかった。

渋谷一族は祁答院氏・入来院氏・東郷氏・高城氏が総州家方に、鶴田氏が奥州家方に。総州家方は鶴田重成が守る鶴田城(つるだじょう、薩摩郡さつま町鶴田)を囲み、この救援のために島津元久も軍を進めてきた。この戦いは総州家方が勝利する。鶴田氏は城を棄てて逃亡し、領主の地位を失った。

古戦場跡碑

鶴田合戦古戦場、見えている山が鶴田城跡

 

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15世紀後半には祁答院重度が島津氏と戦う。

文明17年(1485年)2月に豊州家(ほうしゅうけ、島津氏分家)の島津忠廉(しまづただかど)が祁答院藺牟田に侵攻。藺牟田氏(祁答院氏支族)が守る藺牟田城(いむたじょう、薩摩川内市祁答院町藺牟田)を攻め落とした。ただ、島津忠廉(豊州家)のほうの被害も大きく、藺牟田を制圧できずに撤退した。

文明17年9月には、島津忠昌(ただまさ、島津氏11代当主)が祁答院に派兵する。叛意を見せる祁答院重度の討伐のためであった。島津方は島津国久(薩州家)・島津忠廉(豊州家)・島津友久(相州家)らが兵を率いる。山崎や大村で戦闘となった。大村城(おおむらじょう、薩摩川内市祁答院町下手)を激しく攻めるが、落とすことができなかった。祁答院氏は守り切り、島津方を撤退させた。

 

城跡の入口

大村城跡

 

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祁答院重武と祁答院良重

16世紀になると、祁答院重武(しげたけ)が大隅国帖佐(ちょうさ、鹿児島県姶良市)にも進出。この頃、島津家では本家筋にあたる奥州家と、分家の薩州家・相州家が覇権を争っていた。祁答院氏は奥州家の島津勝久(かつひさ)を支援している。

天文8年(1539年)に島津家の抗争は相州家の島津貴久が制し、こちらが新たな当主となる。祁答院氏は鹿児島から出奔した島津勝久を自領の帖佐で受け入れたりもしている。

なお、祁答院重武は天文7年に没し、家督は嫡男の祁答院良重(よししげ)がついでいる。

 

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祁答院良重は、島津貴久の反抗勢力の一翼を担う。島津貴久の軍とたびたび戦う。そして、天文23年(1554年)に全面戦争に突入する。「大隅合戦」と呼ばれるものである。大隅国蒲生(かもう、姶良市蒲生)の蒲生範清と手を組んで、祁答院良重は対抗した。

島津貴久は大隅国平松の岩剣城(いわつるぎじょう、鹿児島県姶良市平松)を攻める。祁答院氏は帖佐から救援を出すが敗北。岩剣城が落ちると、祁答院・蒲生方は劣勢を強いられる。天文24年(1555年)には祁答院氏の大隅国の拠点である帖佐本城(姶良市鍋倉)も落とされる。祁答院氏は帖佐の所領をことごとく失った。弘治3年(1557年)には蒲生も落ち、大隅国西部は島津貴久の勢力下となった。

 

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祁答院良重はその後も本領の祁答院で勢力を保っていた。しかし、永禄9年(1566年)に居城である虎居城で事件が起こる。祁答院良重は酔ったところを、妻に刺殺された。この一件ののち、祁答院氏は領主の地位を失った。

なお、のちに祁答院重加(良重の三男)が島津義久(よしひさ)に仕え、祁答院氏を再興させている。

 

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鶴田柏原にあった黄龍山大願寺は祁答院氏の菩提寺だった。現在、寺院跡には祁答院氏の墓が残っている。歴代当主では下の人物の墓がある。

7代/祁答院重茂
8代/祁答院久重
9代/祁答院徳重
11代/祁答院重貴
12代/祁答院重武
13代/祁答院良重

 

下の写真は大願寺跡。左手前の墓が祁答院良重のもの。写真中央の大きめの墓が祁答院重武のもの。

寺院跡の石塔群

大願寺跡の墓塔群

 

島津歳久が「祁答院」を称する

薩摩国の北部では渋谷一族の入来院氏・東郷氏が島津貴久に抵抗を続けていた。しかし、永禄13年(1570年)に降る。島津氏の傘下となった。

天正8年(1580年)には、島津歳久(としひさ)が祁答院の領主となる。祁答院11ヶ村、1万7300余石が与えられた。所領にちなんで、島津歳久は「祁答院」とも呼ばれた。

島津歳久は島津貴久の三男。祁答院氏の旧領をうまく統治した。領民に慕われていたようで、現在も祁答院地域ではすごく人気がある。

 

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虎居城の近くに島津歳久の供養塔がある。このあたりに昌英寺という寺院があった。

墓塔

島津歳久の供養塔群

 

中津川の大石神社(おおいしじんじゃ)は、島津歳久を御祭神とする。祁答院良重もあわせて祀る。

参道口の鳥居

大石神社

 

 

<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『祁答院町史』
編/祁答院町誌編さん委員会 発行/祁答院町 1985年

『宮之城町史』
著/宮之城町史編纂委員会 発行/宮之城町 2000年

鹿児島県史料集3『薩摩国 新田神社文書』
発行/鹿児島県立図書館 1963年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1973年

ほか