ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

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隈媛神社(宝現寺跡)、島津義弘の二人目の妻を祀る

鹿児島県姶良市加治木町木田に、隈媛神社は鎮座する。御祭神は隈媛命(クマヒメノミコト)。「球磨から来た姫」を意味する。その姫とは、島津義弘(しまづよしひろ)のニ番目の妻である。肥後国球磨(くま、熊本県人吉市のあたり)の相良義陽(さがらよしひ)の妹にあたる。名は「亀徳」という。

政略結婚であった。そして、島津氏と相良氏の同盟が破綻したことから離縁する。亀徳は悲嘆にくれて亡くなったと伝わる。その供養のために祀ったのだという。

 

 

 

 

 

正室と離縁、継室とも離縁

島津義弘は離縁を二度経験している。いずれも同盟の破綻によるものである。

 

最初に迎えた正室は北郷忠孝(ほんごうただたか)の娘。永禄3年(1560年)に島津忠平(ただひら、島津義弘)は、日向国飫肥(おび、宮崎県日南市)の豊州家(島津氏の分家)の養子に入った。この際に、豊州家の島津忠親の姪を妻に迎えたのである。

しかし、翌年には養子縁組を解消。これにともなって離縁する。島津忠平は飫肥を去った。

 

しばらくして、島津忠平(島津義弘)は継室を迎えることになる。正確な時期は不明だが、永禄5年(1562年)に島津氏と相良氏は連携して伊東氏を攻めている。亀徳が嫁いだのはこの頃だろう。だが、永禄6年(1563年)には、相良氏は島津氏と手を切る。一転して伊東氏と結んだ。

島津氏と相良氏が敵対するようになり、政略結婚も解消されたようだ。

 

その後、島津忠平(島津義弘)は継々室を迎えている。三番目の妻は園田実明(そのださねあき、島津家の家臣)の娘。こちらは「実窓夫人」「宰相殿」の呼び名で知られている。永禄12年(1569年)に長男の鶴寿丸を産む。島津久保(ひさやす)や島津忠恒(ただつね)の母でもある。

 

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川に身を投げて

亀徳は離縁したあとも、球磨には帰らなかったのだという。化粧田のあった邊川(へがわ、姶良市加治木町辺川)にあり、この地の観音渕で島津家・相良家の和睦を神仏に祈願した。しかし、願いはかなうことなく、家来の松葉瀬杢左衛門の子を出家させて自分の菩提を弔うよう遺言し、川に身を投げたという。

 

島津義弘は哀れに思い、その遺言どおりにすることに。杢左衛門の子を出家させて光観坊と名乗らせた。光観坊は京で真言宗の修行をしたのち、天正17年(1589年)に亀徳の御神号として「宝現大明神」の御神璽を受けて帰ってきた。

光観坊は島津義弘が拠点とした大隅国栗野(くりの、鹿児島県姶良郡湧水町栗野)にあったが、島津義弘が居館を移す際についてきた。加治木に入ったあとの慶長13年(1608年)に宝現寺を開山し、ここで隈媛(亀徳)の菩提を弔うこととした。

……と伝わる。

 

明治初めの神仏分離により、宝現寺は「隈媛神社」に改められて現在にいたる。なお、隈媛神社の東側の山中には坊主墓があり、ここに光観坊の墓もあるそうだ。

 

 

隈媛神社をお詣り

場所は加治木の高岡公園の麓にあたる。近くを九州自動車道も通っている。細い道に入っていくと石造りの鳥居が見えてくる。

石造りの鳥居と石柱

隈媛神社の参道口


この鳥居をくぐって奥へ。駐車場もある。ただし、鳥居の幅は狭い。小さめの車でないと通り抜けるのは厳しい。


鳥居脇には石段と石垣も。なかなか古そうである。宝現寺のものだろう。仁王像もある。

石垣と仁王像と

鳥居横には寺院跡の遺構も

 

鳥居の奥にはこんな感じの参道が続いている。

参道を歩いていく

木々が覆う参道

 

石段と石垣と石灯籠と。歴史を感じさせる。

石灯籠と石段

一段高くなったところに社殿がある


こちらの石灯篭には安永4年(1775年)の紀年銘がある。立派な造りで、「丸に十」(島津家の家紋)の装飾も。

古い灯籠

拝殿前の石灯篭


凝った意匠の石灯籠もある。

石灯籠と石垣

石灯籠の彫刻が細かい

 

拝殿・本殿は黒と朱色。いい雰囲気だ。建物は新しめ。境内はきれいに手入れされている。

森の中の社殿

拝殿は立派なつくり

 

拝殿脇にも小さな鳥居。奥へ行くと稲荷神社も鎮座する。稲荷神社は島津氏の守護神でもある。

小さめの朱の鳥居

鳥居が並ぶ

本殿脇に祀られる

岩穴に稲荷神社

 

拝殿脇に石塔などもある。宝現寺跡のものだろう。写真手前にある石碑は山田寺師(姶良市寺師)にあったものだそうだ。文禄4年(1595年)に島津義弘が寺師に御堂を建てて十一面観応像を安置し、亀徳(隈媛)の供養をしたという。御堂跡には記念碑が建てられていたが、2020年に隈媛神社の境内に移された。

石碑と石塔

記念碑は風化して文字はわからない

 


亀徳は球磨に帰った、とも

隈媛神社(宝現寺)の由緒については『加治木古老物語』に記されたものである。その一方で、相良氏側の資料では亀徳は球磨に帰ったと伝わっている。

亀徳は離縁したあと相良家に戻り、上村長陸(うえむらながみち)の妻となった。上村氏は相良氏の庶流である。上村長陸は慶長4年(1599年)に誅殺された。当主の相良頼房(よりふさ)が朝鮮に出征中に謀反を企てた疑いによるものである。

夫が討たれたあと、妻の亀徳は家中での扱いがよくなかったという。貧しい暮らしをしいられ、元和3年(1617年)に亡くなる。餓死だったとも。死後には祟りがあったとも。

なお、亀徳については『南藤蔓綿録』という資料に書いてあるそうだ(中身にについては、のちほど確認してみるつもり)。


『加治木古老物語』の説は、おそらく違っていると思われる。ただ、けっこう詳細に書かれていて、すべてが作り話というわけでもないような気もする。なんとなく事実関係が組み変わっている印象を受ける。

島津忠平(島津義弘)と離縁したあとは、両家の関係修復を願うもかなわず。失意のうちに球磨へ帰る。その後、上村長陸に嫁いだ。亡くなったのは後年のことで、自殺であったかも。

……と、そんな感じだったのではないだろうか。

 

 

 

<参考資料>

『姶良市誌史料 二』

編/姶良市誌史料集刊行委員会 発行/姶良市教育委員会 2014年

 ※『加治木古老物語』を収録

 

『球磨郡誌』

編・発行/球磨郡教育支會 1941年

 

ほか