南郷城(なんごうじょう)は鹿児島県日置市吹上町永吉にある山城だ。別名に永吉城(ながよしじょう)とも。ここは、天文2年(1533年)に島津忠良(しまづただよし)によって攻め落とされた。その後、守護家の島津勝久(かつひさ、島津宗家14代当主)が城の奪回のために兵を送るが、島津忠良は島津貴久(たかひさ、忠良の嫡男、のちに島津宗家15代当主に)・島津忠将(ただまさ、忠良の次男)とともに撃退した。
ちなみに、「永吉」という地名は、城を取った島津忠良が「永久に吉地たれ」と祈念して改称されたとも伝えられている(現地の説明看板より)。
ちょっと登ってみる
南郷城はシラス台地の尾根に築かれた山城で、規模は南北500メートル・東西550メートルあるという。ここに高城・東の城・根子城・野頸城など7つの曲輪で構成されている。このうち、本丸にあたる高城のあたりを散策できる。
車で行く場合は、ひとまず永吉小学校を目指す。小学校の前の道をさらに山のほうへ登っていく。ちょっと行くと、道路端に城址碑のようものもあった。ここから200メートル、と。
山を登っていくと、突き当りに看板が出てくる。ここが見学者用の駐車場だ。散策ルートは地元の方が整備してくれているようだ。看板も親切な感じで、ありがたい!
車を置いて、案内に沿って歩いていく。民家の脇を抜けていくと、すぐに山城らしい雰囲気になるのだ。
しばらく歩くと堀切。ほかに人工的に削ったと思われるところがあちこちにある。
奥へずんずんす進んでいく。ほぼ一本道で高城(本丸)の登り口に到着。ここを上がると桝形虎口になっている。
高城(本丸)はなかなかの規模がある。大きな土塁も見られた。
高城(本丸)からまだ奥に行けそうだったが薮になっていたので断念。地図を見ると東の城のほうへのルートっぽい。また、途中で「こっちに行くと根子城かな?」と思われる分岐もあったがよくわからず。無理はしなかった。
散策時間は20分ほど。本丸までのルートはわかりやすかったけど、草と蜘蛛の巣に難儀した。
城の麓には六地蔵塔もある。島津忠良が城を落としたあとに戦いで死んだ者たちの供養のために建てたものだという。
南郷城の歴史
このあたりは薩摩国日置(ひおき)郡のうちにあり、かつては島津荘(しまづのしょう、南九州の広範囲にまたがる巨大荘園)の寄郡(よせごおり、よりごおり、公領でありがら荘園にも属している)で、日置南郷(へきなんごう)と呼ばれていた。南郷郡司は桑波田(くわはた)氏が世襲していた。
桑波田氏は紀姓の伊集院(いじゅういん)氏の一族。島津氏流の伊集院氏(こっちは藤姓伊集院氏といったりする)がよく知られているが、こちらとはまったくの別系統である。紀姓伊集院氏は薩摩国伊集院(鹿児島県日置市伊集院)の郡司となった紀氏の一族が領地名にちなんで名乗ったのがはじまりだとされる。その歴史は古く、11世紀頃には土着していたと見られている。
鎌倉時代に島津氏が薩摩国の守護となり、その影響力が強くなったあとも桑波田氏は南郷郡司の地位を保つ。16世紀の初め頃、南郷郡司の桑波田景元(かげもと)は島津宗家14代当主の島津忠兼(ただかね、のちに島津勝久に改名)の国老も務めている。
島津忠良の南郷城攻め
大永6年(1526年)、島津宗家で政権交代があった。島津忠兼(島津勝久)は守護として領内を統制できず、新たな当主が立てられる。分家の相州家(そうしゅうけ)から島津貴久が後継者に指名されて鹿児島の清水城(しみずじょう、鹿児島市清水町、島津氏の本拠地)に入り、その父である島津忠良が実権を握ったのだ。その際に、南郷は島津忠良の所領となり、城主の桑波田栄景(ひでかげ、景元の子)もその配下になったという。
【関連記事】戦国時代の南九州、激動の16世紀(1)島津忠良が実権をつかむ、宗家を乗っ取る!?
しかし、大永7年(1527年)に島津忠良・島津貴久は失脚。薩州家(さっしゅうけ、こちらも分家)の島津実久(さねひさ)が兵を挙げ、クーデターを成功させる。島津忠兼は薩州家の誘いに応じて守護職に復帰した。
島津忠良(相州家)は劣勢となり、自領の薩摩国田布施城(たぶせじょう、鹿児島県南さつま市金峰)・伊作城(いざくじょう、日置市吹上町中原)にあって抗戦した。
【関連記事】戦国時代の南九州、激動の16世紀(2)薩州家の急襲、島津勝久の心変わり
天文2年(1533年)、南郷城主の桑波田栄景が島津勝久(かつひさ、忠兼が守護復帰後に改名)方に寝返った。3月、島津忠良が南郷城を攻める。情報を探らせたところ桑波田栄景が狩りに出ていることを知る。そこで、島津忠良は部下に猟師のかっこうをさせて、桑波田栄景が帰城したのを装って入城させた。城を守っていた桑波田河内守・桑田式部少輔らが討ち取られて落城。桑波田栄景は伊集院に逃げる。島津忠良は南郷を取ると、この地を「永吉」と改めた。
8月には島津勝久が南郷城奪回のために兵を送る。島津忠良(相州家)は島津貴久・島津忠将に城を守らせた。島津忠良は野頸原(のくんばい、日置市日吉町吉利のあたり)に布陣し、敵軍の側面を衝いて大いに破る。ちなみに、この戦いが島津貴久・島津忠将の初陣ともいわれている。
【関連記事】戦国時代の南九州、激動の16世紀(3)島津忠良の逆襲
南郷城の攻防戦ののち、島津忠良は勢力を盛り返す。やがて薩州家を圧倒し、島津貴久は改めて守護職につくことになるのだ。
永吉島津家、島津家久と島津豊久
江戸時代には永吉島津氏がこの地の領主となった。永吉家は島津貴久の四男の島津家久(いえひさ)を初代とし、2代目はその嫡男の島津豊久(とよひさ)である。
島津家久は最前線で戦いを任された。のちに日向国の佐土原城(さどわらじょう、宮崎市佐土原)を居城とし、豊後国(現在の大分県)の大友(おおとも)氏と対峙する。
島津家久の軍略は冴えわたり、島津氏の快進撃の一翼を担った。とくに天正6年(1578年)の高城川の戦い(耳川の戦い)、天正12年(1584年)の沖田畷の戦い、天正14年12月(1587年1月)の戸次川の戦いなどで活躍した。
高城川の戦い(耳川の戦い)は、大友義鎮(おおともよししげ、大友宗麟、そうりん)が兵を出し、日向国に侵攻したことから始まる。島津家久は新納院高城(にいろいんたかじょう、宮崎県児湯郡木城町)に救援で入り、最前線の城を固く守った。島津軍本隊が総攻撃をしかけると島津家久も撃って出る。大友軍は壊滅する。この戦いで大友氏の被害は甚大で、多くの有力武将が戦死する。これ以降、大友氏は勢いを失う。
沖田畷の戦いは肥前国(現在の佐賀県・長崎県)の龍造寺隆信が相手である。島原(長崎県島原市)の有馬晴信(ありまはるのぶ)が攻められたので、救援要請を受けた島津氏は島津家久を大将として援軍を派遣した。龍造寺軍は大軍(『島津国史』では6万、数字は諸説あり)で、対する島津・有馬連合軍は6000ほど(こちらも諸説あり)。圧倒的な兵力差をひっくり返して勝利する。乱戦の中で当主の龍造寺隆信を討ち取った。
戸次川の戦いは九州征伐に乗り出した豊臣政権との緒戦である。関白の豊臣秀吉は仙石秀久(せんごくひでひさ)を軍監とし、長宗我部元親・長宗我部信親・十河存保ら四国勢を豊後国に派遣した。戸次川(へつぎがわ、大野川、場所は大分市中戸次のあたり)をはさんで豊臣方と島津家久軍がにらみあう。豊臣方は川を渡って攻撃を仕掛けてきた。島津家久はこれを迎え撃って大勝する。仙石秀久は戦場から逃亡し、長宗我部信親・十河存保は討ち取られた。
島津豊久は沖田畷の戦いで初陣を飾る。豊臣方との戦いでも父に従って転戦した。しかし、父が急死し、家督をつぐことになった。島津氏が降伏したあとは、豊臣秀吉から佐土原の地を安堵されている。豊臣政権下では伯父の島津義弘(よしひろ、貴久の次男)とともに朝鮮に出征して活躍。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにも島津義弘とともに参戦し、撤退戦で戦死した。
島津豊久には子がなく、養子をとって家督をつがせた。新たに永吉に領地が与えられ、もともとの所領であった佐土原から家臣団も移された。
永吉にはこのふたりの墓もある。梅天寺(ばいてんじ)跡には島津家久の墓塔が、天昌寺(てんしょうじ)跡には島津豊久の墓塔がある。
天昌寺は永吉島津家の菩提寺で、佐土原から移された。墓地には島津豊久以降の歴代当主の墓がある。永吉島津家は島津家中では「一所持(いっしょもち)」という家格。家老を出す家柄で、鹿児島藩(薩摩藩)の政治の中枢を担った。
島津豊久は漫画の主役になって、これでちょっと知名度も上がったのかな。
<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年
『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年
鹿児島県史料集37『島津世禄記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1996年
鹿児島県史料集37『島津世家』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1997年
鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年
鹿児島県史料集27『明赫記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1986年
『鹿児島県の中世城館跡』
編・発行/鹿児島県教育委員会 1987年
『島津貴久 戦国大名島津氏の誕生』
著/新名一仁 発行/戒光祥出版 2017年
ほか