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岩窟の御陵に眠るのは神武天皇の父と母とされる、吾平山上陵を『三国名勝図会』より

吾平山上陵(あいらやまのえのみささぎ、あいらさんじょうりょう、あいらさんりょう)は鹿児島県鹿屋市吾平町にある。神代三陵(じんだいさんりょう、かみよさんりょう、神代三山陵)のひとつに数えられ、ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト(彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊、日子波限建鵜葺草葺不合命)とタマヨリビメノミコト(玉依姫命、玉依媛命、玉依毘売命)の御陵に治定されている。

ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコトとタマヨリビメノミコトは、カムヤマトイワレビコノミコト(神武天皇)の両親にあたる。

御陵は鵜戸山(うどさん)の麓にある岩窟の中に築かれている。周辺はピンと空気が張り詰めたような雰囲気で、「聖地」という言葉がピッタリの場所である。


19世紀に鹿児島藩(薩摩藩)が編纂した地誌『三国名勝図会』には、吾平山上陵が絵図入りで解説されている。こちらとあわせて紹介する。

 

『三国名勝図会』の詳細はこちら。

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清流沿いに鵜戸窟を目指す

吾平山上陵については『三国名勝図会』巻之四十八に掲載。場所は大隅国の姶良(あいら)である。鹿児島湾奥部のあたりに姶良市があるが、ここではない。「姶良」は、もともと大隅半島南部にあった地名である。古代における姶羅郡もこっちのほうである。

姶良市のあたりは、江戸時代に「始羅(しら)」という郡名であった。これが「姶羅」と混同され、こっちを「姶良」と呼ぶようになった。一方で大隅半島南部の姶良は「吾平(あいら)」の表記のほうをとっている。

ちなみに平成の大合併の前には、鹿児島県内に「アイラチョウ」と呼ぶ自治体が2つあった。姶良郡姶良町(現在は姶良市)と肝属郡吾平町(現在は鹿屋市)だ。読みが同じなのでややこしい。現在も「アイラ市のほう」とか、「ゴヘイ(吾平)のアイラ」とか言って区別したりする。


こちらの絵図は『三国名勝図会』にある吾平山上陵の全体像である。左奥のほうに「鵜戸山」と「陵窟」がある。この地には姶良川(あいらがわ)が流れていて、川を渡りつつ参拝するようになっている。絵図では「陵窟」の近くに「鵜戸権現」の社殿も描かれているが、こちらは残っていない。

吾平山上陵の全体の絵図

鵜戸山や鵜戸窟、『三国名勝図会』巻之四十八より(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

現在、御陵一帯は宮内庁が管理している。県道544号の案内看板もわかりやすく、すんなりと行ける。かなり広い駐車場があり、ここが絵図の手前右寄りのあたりになると思われる。駐車場から参道のほうへ。

緑の木々の下の広場

駐車場近くの広場、いい雰囲気

 

ちょっと行くと、「行幸記念碑」があった。これは昭和10年(1935年)に昭和天皇が行幸されたことを記念して昭和11年に建てられたものだ。じつは、この記念碑は昭和13年に大水害があって流失した。その後、平成2年(1990年)の河川工事を行った際に発見され、現在の場所の建てなおされた。

赤みを帯びた石碑

行幸記念碑

 

さらに奥へ。石橋を渡ると、ガラリと空気が変わる感じがする。

石橋とざわめく木々

異界の入口、という感じもする

 

杉木立の中を奥へと進む。その途中で、石段を下りて川べりへ。ここが御手洗場だ。ちなみに、川の水で手を洗い清めるというのは、伊勢神宮(三重県伊勢市)がよく知られている。

澄んだ川で手を洗う

御手洗場、水の透明度がすごい

川の向こうに御陵がある

御手洗場から岩窟方面、遠くに鳥居が見える

 

『三国名勝図会』によると、陵窟の北の三十六歩ほど(約65m)の場所に鵜戸権現廟(鵜戸六社権現)が鎮座していたという。絵図も掲載されている。当社は天平15年(743年)の創建。享禄4年(1531年)の火災で焼失し、明和5年(1768年)に島津重豪(しまづしげひで、島津氏30代当主、8代藩主)が社殿を新築したことも記されている。

神社の社殿の絵図

鵜戸権現廟、『三国名勝図会』巻之四十八より(国立国会図書館デジタルコレクション)

木立の中の参道

このあたりが跡地か

 

鵜戸権現廟(鵜戸六社権現)はその後、水害で破壊される(明治の初め頃か)。明治4年(1871年)に吾平麓の八幡神社の内に仮宮を造営し、そのまま遷座となった。それが鹿屋市役所吾平総合支所のすぐ隣にある鵜戸神社である。

 

 

陵窟の中はどうなっている?

川沿いに歩いていくと陵窟が見えてくる。川に隔てられていて、対岸から参拝する。細い石橋が架かっているが、門が閉ざされていて渡れない。陵窟のほうには鳥居と玉垣が見える。その先に岩窟の入口。近づけないので、中は見えない。

川の対岸に御陵が見える

御陵を参拝

 

岩窟内の様子については『三国名勝図会』で知ることができる。絵図とあわせて、情報を抜き出してみる。

岩窟内に小社が建っている絵図

陵窟内部、『三国名勝図会』巻之四十八より(国立国会図書館デジタルコレクション)


窟内の規模は奥行き十間(約18m)、横幅十二間(幅約22m)、高さ一丈余(高さ約3m)。岩窟は北に向かって口を開け、入口からから九間ほど(約15m)入ったところに塚が2基ある。

ひとつはヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコトの御陵と伝わる。土を盛ってあり、高さ四尺一寸(約1.24m)、周囲長は三丈九尺ばかり(約12m)。「人力動かすべからざうの磐石」が斜めに置かれて塚の一部を覆う。「是即ち玉體を葬奉し所」とのこと。また、「其土半ば自然と岩石に化し」とも記されていて、葺石が敷かれているのかもしれない。

塚の土際には孔があり、廻り四尺(約1.2m、孔の円周長か)、長さ一間三尺ばかり(約2.7m)のものが東西に通る。さらに、その後方には孔がもう1本あけられていて、撞木形(T字型)につながっている。縦方向の孔は廻り三尺五寸ばかり(約1m)、長さ四尺ばかり(約1.2m)とのこと。この孔は「試しの孔」と呼ばれていて、御陵を築いた当時に作られたものらしい。「陵壙を伺ひ視し所なりや(墓の内部を見るためのものであろうか?)」とのこと。

その塚の前には石板の檀が置かれ、その上に小社が建てられている。その中には数面の鏡が納められている。太古においては、この小社が山上にあったとも伝わっている。

もうひとつの塚が三尺ばかり(約0.9m)の距離を隔てて並ぶ。タマヨリビメノミコトの御陵と伝わる。高さ三尺(約0.9m)、周囲長は二丈三尺三寸(約7m)。もうひとつの塚と比べるとやや小さい。こちらも土を盛り、磐石が伏せられている。また、東西の孔もある。塚の前面は群青色であるとも。

社檀の下には井戸のような穴がある。かつてはかなりの深さがあったとされるが、砂石で埋められている。これは、慶長9年(1604年)の洪水の際に流れ込んだものであるのだという。

 

ここは水害にたびたび見舞われていて、現在の状況も変わっていると思われる。

 

 

吾平山上陵はここなのか?

「吾平山上陵」は『日本書紀』に記されているが、それがどこであるかは詳しく説明されていない。明治7年(1874年)、この地がそうであると政府により治定されて現在に至る。なお、宮崎県日向市の鵜戸神宮(うどじんぐう)にも吾平山上陵の伝承地があり、こちらは「宮内庁御陵墓参考地」になっている。

治定の根拠となったのは、薩摩の国学者の白尾国柱(しらおくにはしら)の研究から。寛政4年(1792年)に『神代三陵考』を著し、神代三陵がすべて鹿児島藩領内にあるとした。そのときに、吾平山上陵の場所も大隅国姶良としたのである。鹿児島藩(薩摩藩)では島津重豪が白尾国柱にさらなる調査を命じ、研究がすすめられた。

『三国名勝図会』は天保14年(1843年)に完成したもので、白尾国柱の説を踏襲している。


で、実際のところはどうなのか? である。その答えは「わからない」。だが、ここが太古から神聖な場所であった、というのはしかと感じられる。

 

 

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<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『明治維新と神代三陵 廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』
著/窪壮一朗 出版/法蔵館 2022年

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