ムカシノコト、ホリコムヨ。

おもに鹿児島あたりの歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

霧島神宮へお詣りに、見上げる霊峰は天孫降臨の伝承地

ニニギノミコトが天降ったことから日向三代(ひむかさんだい)の物語が始まる。「天孫降臨」である。そして、建国へとつながっていく。『古事記』や『日本書紀』にはそう記されている。

高千穂峰(たかちほのみね)は天孫降臨の伝承地とされる。そのふもとに鎮座するのが霧島神宮(きりしまじんぐう)である。場所は鹿児島県霧島市霧島田口。

 

 

御祭神は日向神話の主役たち

かつては「霧島神社」と呼ばれていた。明治7年(1874年)に神宮号を宣下され、「霧島神宮」と称するようになった。

天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊(アメニギシクニニギシアマツヒタカホコホノニニギノミコト)を御主神とする。天孫降臨の主役だ。

そして、相殿神に木花開姫尊(コノハナサクヤヒメノミコト)・彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)・豊玉姫尊(トヨタマヒメノミコト)・鵜鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)・玉依姫尊(タマヨリヒメノミコト)・神倭磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)。ニニギノミコトの妻、息子夫婦、孫夫婦、そして曾孫である。曾孫が神武天皇となる。

 

 

噴火で遷座、15世紀に島津氏が再興

創建は欽明天皇の御代(6世紀中頃か)とされる。当初は高千穂峰の山上にあったという。頂上近くの脊門丘(せとお)に、慶胤(けいいん)上人が霧島神社を整備したのが始まりと伝わる。現在、脊門丘に霧島神宮の元宮がある。

 

高千穂峰は日向国と大隅国にまたがる。現在も宮崎県と鹿児島県の県境にあたる。頂上と連なって御鉢(おはち)という火口もある。

延暦7年(788年)の噴火で脊門丘の境内は焼失した。その後、天慶3年(940年)に性空(しょうくう)上人が御鉢の西側の瀬多尾越(せとおごし)に霧島神社を再興。しかし、こちらも文暦元年(1234年)の噴火で焼失する。

瀬多尾越は高千穂河原(たかちほがわら)にある。高千穂峰の登山口のある場所だ。現在、瀬多尾越の跡地は「霧島神宮古宮址(ふるみやあと)」と呼ばれている。

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ちなみに、『続日本後紀』の承和4年(837年)8月1日の条に、日向国の官社として「諸県郡霧島岑」が出てくる。また、『日本三代実録』の天安2年(858年)10月22日の条に、日向国の「霧島神」が確認できる。延長5年(927年)の完成した『延喜式』においては、日向国に「霧島神社」とある。

 

これらの記録は、脊門丘の境内が焼失したあと、瀬多尾越(古宮址)に再興される前、ということになる。

 

その後は仮宮を経て、文明16年(1484年)に島津忠昌(しまづただまさ、島津氏11代当主)が再興。兼慶(けんけい)上人に命じて神社と別当時を整備させ、現在地に遷座した。

島津氏の崇敬が厚ったこともあり、全体的に豪華な造りだ。現在の社殿は、正徳5年(1715年)に島津吉貴(しまづよしたか、21代当主、4代藩主)が造営させたものである。

 

 

大鳥居をくぐって

参道口は国道223号沿いにあり、道はわかりやすい。ちょうど県道60号と交差する場所に一の鳥居がある。

大きな朱の鳥居

一の鳥居、写真右奥に高千穂峰

 

一の鳥居を車でくぐり、奥へ進むとロータリーがある。そこをぐるりとまわって向かって右側の道に入っていく。案内看板に従ってのぼっていくと、霧島神宮の駐車場に到着する。ほとんどの人はここから本殿のほうへ向かうのだが、せっかくなので二の鳥居のほうから行ってみる。

駐車場から参道をいったん下りる。前述のロータリーのほうから見ると、赤い欄干の橋を渡った先に入口がある、という位置関係だ。

石柱には「霧島神宮」の文字

石段をのぼって参道へ

 

石段をあがれば二の鳥居だ。参道には石燈籠が並ぶ。西郷従道(さいごうじゅうどう)や樺山資紀(かばやますけのり)の献燈もあった。

鳥居の向こうに参道がのびる

二の鳥居

 

参道をのぼりきると広場に出る。遠くに石段と三の鳥居が見える。手前のパネルの人物は、坂本龍馬とお龍である。この夫婦は慶応2年(1866年)に参拝している。

境内に坂本龍馬のパネル

パネルの向こうに三の鳥居も見える

 

展望台もあり。天気が良ければ桜島も見える。

展望台からの眺望

遠くにうっすらと桜島

 

石段をのぼって三の鳥居。このあたりから空気が変わる感じがする。

鳥居をくぐって森の中の参道へ

三の鳥居

 

三の鳥居をくぐって森の中の参道を奥へ。

森の中の参道を奥へ

参道の奥に社殿が見える

森の中をあるく

参道を振り返る、いい雰囲気

 

社殿は斜面を利用して階段状に建てられている。奥のいちばん高いところに本殿。建物は入母屋造で、屋根は銅板葺きとのこと。本殿から拝殿と幣殿がつながり、そこから廊下が伸びていちばん手前が勅使殿だ。本殿・幣殿・拝殿は2022年に国宝に指定。また、勅使殿・登廊下は国の重要文化財に指定されている。

立派な社殿

屋根の段差が美しい

 

社殿の内部は豪華絢爛だ。彫刻や絵があしらわれ、内装が造り込まれているそうだ。参拝者は中に入ることはできないが、勅使殿を見るだけでも造りの豪華さがうかがえる。

豪華な装飾のある霧島神宮の建物

勅使殿

屋根の下に手の込んだ彫刻

装飾は南方系の雰囲気

 

勅使殿前の広場には大きなスギ。御神木である。推定樹齢は800年ほどとのこと。

スギの巨木が立つ

御神木

 

御神木には神様がいらっしゃる、と言われたりもする。

スギの枝に神様が見えるかな

枝の上に!?

 

霧島神宮の境内まわりには、見どころがまだだある。山神社や旧参道のほうも素敵な雰囲気なのだ。こちらは別の記事にて。

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太古の山岳信仰がはじまりか?

霧島神宮の本殿の背後には高千穂峰がそびえる。山を拝むような配置である。当初は山の上に神社があり、古宮址も山の間近だ。高千穂峰を崇拝するする古い信仰がもとになっていると考えられる。

霧島連山は活発な火山群である。最近では新燃岳(しんもえだけ)が噴火している(2011年、および2017年~2018年)。高千穂峰にくっついている御鉢もたびたび噴火を繰り返した歴史を持つ。古代の人は山を崇め、そして恐れたことだろう。

 

高千穂峰は「襲之峯(そのみね)」とも呼ばれた。「襲(ソ)」というのはこのあたりの古称だ。「曾(曽、そ)」「囎唹(曽於、そお)」もこれに通ず。和銅6年(713年)に大隅国が設置されたあと、この一帯は「囎唹郡」となる。囎唹郡は現在の鹿児島県曽於市・霧島市にあたる。

隼人の有力氏族のひとつに曾君(そのきみ)がある。曾君一族は「ソ(襲、曾)」の一帯に栄えていたと考えられている。高千穂峰はかなり存在感がある。おまけに噴火もする。曾君一族が信仰の対象としていたことは、容易に想像できる。


古代の祭祀があり、そこに日本神話の要素も重ねられ、霧島神社(霧島神宮)の信仰が形成されていったと思われる。さらに、仏教の要素も習合して修験道の霊場としても発展していった。

 

 

霧島権現六社

『三国名勝図会』(19世紀に編纂された薩摩藩の地誌)には、霧島神宮が「西御在所霧島六所権現」の名称で紹介されている。

霧島神宮の絵図

『三国名勝図会』巻之三十四より(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

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霧島山(高千穂峰を含む)を崇拝する聖地が、山を取り囲むように配置されいる。これらを総称して「霧島権現六社」「霧島六社権現」といったりする。西御在所霧島六所権現(霧島神宮)もそのひとつであった。該当する六社は以下のとおり

 

西御在所霧島六所権現
現在の霧島神宮。別当寺は華林寺(けりんじ)。高千穂宮の西麓の中腹あたりに鎮座する。

 

霧島東御在所両所権現
現在の霧島東神社(きりしまひがしじんじゃ)。別当寺は錫杖院(しゃくじょういん)。鎮座地は宮崎県西諸県郡高原町蒲牟田。高千穂峰の東麓にあたる。

 

狭野大権現
現在の狭野神社(さのじんじゃ)。別当寺は神徳院(しんとくいん)、鎮座地は高原町蒲牟田で、霧島東神社のやや北に位置する。神武天皇(狭野尊、サノノミコト)を主祭神とする。ここは神武天皇の生誕の場所とも伝わる。

 

霧島山中央六所権現(瀬多尾六所権現)
現在の霧島岑神社(きりしまみねじんじゃ)。別当寺は瀬戸尾寺(せとおじ)。現在の鎮座地は宮崎県小林市細野。もともとは夷守岳(ひなもりだけ)の中腹にあったが、明治の初めに夷守神社跡地に遷座して現在に至る。

 

雛守六所権現
夷守神社(ひなもりじんじゃ)。別当寺は宝光院(ほうこういん)。明治時代に霧島岑神社に合祀された。

 

東霧島権現
現在の東霧島神社(つまきりしまじんじゃ)。別当寺は勅詔院(ちょくしょういん)。鎮座地は宮崎県都城市高崎町。


霧島権現六社を中心として霧島の山岳信仰が広がったという。六社はいずれも性空上人が再興し、整備した権現社である。

性空は京生まれの天台宗の僧。播磨国の書寫山圓教寺(しょしゃざんえんぎょうじ、兵庫県姫路市)を創建したとされる人物である。性空は霧島で修業をしたと伝わり、その際に霧島権現六社も形成されていったという。


霧島神宮は「西御在所」の権現社であった。そして、霧島岑神社の前身の「霧島山中央六所権現」「瀬多尾六所権現」のほうが本宮っぽい呼称でもある。

霧島六所権現の中心は、もともとは霧島山中央六所権現(霧島岑神社)だった可能性はあると思う。ただ、西御在所霧島六所権現(霧島神宮)の整備に島津氏が力を入れるようになり、こちらが本宮のように扱われるようになった……と、そんな推測もたつ。

 

 

霧島神社と税所氏

霧島神宮本殿の横には税所神社(さいしょじんじゃ)が鎮座する。税所(さいしょ)氏の祖とされる藤原篤如(ふじわらのあつゆき)が祀られる。ここには税所(さいしょ)一族だけが入れる。

 

税所氏は大隅国の囎唹郡(現在の鹿児島県霧島市・曽於市)を中心に大きな勢力を持っていた。また、霧島神社の神職を務めたという。ほかにも鹿児島神社(大隅正八幡宮、現在の鹿児島神宮、霧島市隼人町内)や止上神社(とがみじんじゃ、霧島市国分重久)の神職でもあった。

「税所」というのは徴税を担う役所・役職である。国衙や寺社領に置かれたという。『三国名勝図会』には「神領の租税を司り、税所を以て氏とす」とも記されている。

 

藤原篤如の大隅国下向が、税所氏のはじまりとされる。その時期は治安元年(1021年)、または永久4年(1116年)と伝わる。出自については宇多天皇の皇子の敦実親王(あつみしんのう)の後裔とされる。ほかに光孝天皇の後裔、醍醐天皇の後裔とする系図もあるようだ。

ただ、地方豪族が称する藤原姓はあやしいものが多いように思う。税所氏はどうだろうか?

 

もともとは檜前(ひのくま)姓であった、という説もある。『旧記雑録拾遺 地誌備考六』収録の「囎唹郡地誌備考」には、文治3年(1187年)の曽野郡司(囎唹郡司)として「檜前篤平」という名が出てくる。檜前氏は東漢(やまとのあや)氏の後裔とされる。あるいは、宣化天皇の名代である檜前部(ひのくまべ)の後裔とも。

檜前氏・檜前部氏は古代から九州に土着していたようである。例えば、肥後国葦北(あしきた、熊本県水俣市・葦北郡)にあった葦北一族が檜前姓であったと考えられる。

もし税所氏が檜前氏や檜前部氏なら、かなり古くから大隅国にあった可能性もあるのかもしれない。また、その支配領域は、前述の曾君一族ともかぶる。もしかしたら、こちらとつながりがあるのかも? ……と思ったりもする。史料がなく、なんとも言えないところだけど。


税所氏は中世においても大きな力を持っていた。12世紀末、鎌倉に武家政権ができると領国統治のあり方が変わった。国司・郡司とは別に、幕府が任命する守護・地頭も置かれる。薩摩国・大隅国・日向国の守護に任じられた惟宗忠久(これむねのただひさ、島津忠久)をはじめ、鎌倉御家人系の領主がやってきた。そんな中で税所氏は囎唹郡司や神領管理者として存続した。また、鎌倉政権にも協力的だったようだ。建暦3年(1213年)の和田義盛の乱では、税所篤満(あつみつ)が北条方で活躍したという。税所篤満は陣没するが、戦功から税所一族に恩賞が与えられている。時代が下って、南北朝争乱期でも税所氏は大隅の有力者として名が出てくる。

しかし、文明15年(1483年)に税所篤庸(さいしょあつつね)が島津忠廉(ただかど、分家の豊州家)と戦って敗れ、これを機に勢力を失っていく。あわせて霧島神社への影響力も小さくなり、主導権は島津氏に移ったようだ。文明16年に島津忠昌が霧島神社(現在の境内)を再興している。

 

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税所氏は領主としての地位を失う。その後、一族の中には島津氏や国人衆の家臣となった者もあった。

幕末から明治にかけて活躍した税所篤(さいしょあつし)も税所一族である。税所篤は島津久光に仕え、西郷隆盛・大久保利通らとともに奔走した。新政府では河内県知事・兵庫県権知事・ 堺県知事・奈良県知事・元老院議官・宮中顧問官・枢密顧問官などを歴任した。また、明治31年~33年(1898年~1900年)にかけて霧島神宮の宮司も務めている。

境内の献燈

境内には税所篤が奉納した石燈籠もある

 

 

島津貴久・島津義久と霧島神社

16世紀、南九州では島津一族の抗争が繰り広げられた。守護・本宗家の島津勝久(しまづかつひさ)は政権を維持できず、分家の薩州家(さっしゅうけ)と相州家(そうしゅうけ)が覇権を争った。相州家の島津貴久(しまづたかひさ)が制し、本宗家と守護職を相続。島津氏の惣領となった。

大隅国囎唹郡は本田薫親(ほんだただちか)が領有していた。曽於郡城(そのこおりじょう、橘木城とも、霧島市国分重久)・姫木城(ひめきじょう、霧島市国分姫城)・清水城(きよみずじょう、霧島市国分清水)などを拠点とする。この人物は島津勝久の国老であった。覇権を握った島津貴久に反発して戦いとなる。天文17年(1548年)に島津貴久は本田氏を降伏させ、その所領を奪った。

 

囎唹をおさえた島津貴久は、霧島神社の神威にあやかるようになる。『霧島神宮文書』には願文がいくつか残っている。天文24年(1555年)に霧島神社で戦勝祈願を行う。この頃、大隅国蒲生・帖佐(かもう・ちょうさ、現在の鹿児島県姶良市)で抗戦中だった。「大隅合戦」である。また、永禄6年(1563年)に日向国真幸院三山(みつやま、宮崎県小林市)を攻撃する際にも戦勝を祈願し、鬮(くじ)もひいている。

島津義久(よしひさ、貴久の嫡男)の願文もある。天正6年(1578年)の大友氏との決戦(高城川の戦い、耳川の戦い)に向かう前に、霧島神社で戦勝祈願を行っている。

 

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<参考資料>
『霧島神宮誌』
編/霧島神宮誌編纂委員会 発行/霧島神宮

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『旧記雑録拾遺 地誌備考六』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 2019年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『南九州御家人の系譜と所領支配』
著/五味克夫 出版/戎光祥出版 2017年

ほか