霧島神宮(きりしまじんぐう)は高千穂峰(たかちほのみね)の麓に鎮座している。かつては、もっと山の近くにあった。
現在の境内から7㎞ほどの道のりを登っていくと、高千穂河原(たかちほがわら)にいたる。ここは標高約970m。高千穂峰への登山口がある場所だ。そして、大きな鳥居もある。登山道入口付近は霧島神宮の境内だ。ここが霧島神宮の古宮址(ふるみやあと)である。
霧島神宮については、こちらの記事にて。
天孫降臨伝説の地
竺紫の日向の高千穂のくじふる嶺に天降りまさしめき。(『古事記』より)
高千穂峰は、ニニギノミコトの天孫降臨伝説の地とされる。山頂には天逆鉾(あめのさかほこ)も突き刺さっている。なお、こちらの天逆鉾はレプリカとされる。本物についてもレプリカについても、由緒はよくわかっていない。
霧島神宮は鹿児島県霧島市霧島田口に鎮座し、天孫降臨伝説に関連した神社である。御主神は天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊(アメニギシクニニギシアマツヒタカホコホノニニギノミコト)。相殿神として木花開姫尊(コノハナサクヤヒメノミコト)・彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)・豊玉姫尊(トヨタマヒメノミコト)・鵜鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)・玉依姫尊(タマヨリヒメノミコト)・神倭磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)を祀る。日向三代(ひむかさんだい)および神武天皇である。
噴火により遷座を繰り返す
欽明天皇の御代(6世紀中頃か)に、慶胤(けいいん)上人が脊門丘(せとお)に霧島神社を創建したのがはじまりとされる。
高千穂峰は標高1574m。山頂の西側には御鉢(おはち)という直径約600mの火口がある。その火口と東側の山頂をつなぐ場所が「脊門丘」。御鉢と頂上の間のちょっと低くなったあたりだ(下の写真を参照)。
御鉢は「火常峯(ひけふのみね、ひとこのみね)」とも呼ばれていた。よく噴火するのだ。近年では、明治時代から大正時代にかけて火山活動が活発だった。
脊門丘にあった霧島神社もたびたび噴火に見舞われた。そして、延暦7年(788年)の噴火で焼失したという。なお、現在は脊門丘に石祠があり、「元宮」と呼ばれている。
天慶3年(940年)、性空(しょうくう)上人が御鉢の西側の瀬多尾越(せとおごし)に霧島神社を再興する。これが、古宮址にあたる。
しかし、瀬多尾越の霧島神社も、文暦元年(1234年)の噴火で焼失した。その後は、待世(まつせ)に仮宮を置いた。待世は、現在の霧島神宮より南に5kmほどの場所。JR霧島神宮駅の近くである。
文明16年(1484年)、島津忠昌(しまづただまさ、島津氏11代当主)が霧島神社を再興。兼慶(けんけい)上人に命じて境内を整備させた。これが現在の霧島神宮である。
古宮址へ
高千穂河原の駐車場から登山口へ入る。
しばらく歩いていく。参道は火山由来の土壌。さらさらとした砂と小石の道である。標高が高いこともあり、植生も麓とは違う感じがする。
古宮址までは200mほど。すぐに到着する。石段と鳥居が現れる。そして、その背後には山が見える。見えているのは御鉢である。火口の向こう側が高千穂峰の頂上だ。古宮址・火口・山頂が一直線上に連なる位置関係となっている。『霧島神宮誌』によると、噴火により御鉢の頂上が100mほど高くなって頂上が見えなくなってしまった、とも言われているという。
現在の古宮址には、「天孫降臨神籬斎場(てんそんこうりんひもろぎさいじょう)」がある。ここは天孫降臨御神火祭の斎場で、昭和15年(1940年)に造成整備された。天孫降臨御神火祭は昭和4年(1929年)に始まったもので、毎年11月10日に開催される。なお、斎場の造成前の大正11年(1922年)に標柱や玉垣も設けられていた。
石段を登ると、途中にやや広めの空間。ここは幅54m・奥行き16mあるという。
さらに登る。玉垣に囲まれた斎場がある。けっこう広い。斎場上段は幅54m・奥行き38m。
山を背にして祭壇もある。
斎場の上からは中岳も見える。
ここでは、山の霊気をいっぱいに浴びられるような気がする。
縄文的な雰囲気を感じる。もともとは高千穂峰を御神体とする信仰だったのだろう。祭祀のはじまりは、もっと古いようにも思われる。
<参考資料>
『霧島神宮誌』
編/霧島神宮誌編纂委員会 発行/霧島神宮
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年
『古事記』(岩波文庫)
校注/倉野憲司 発行/岩波書店 1963年
ほか