霧島岑神社(きりしまみねじんじゃ)は宮崎県小林市細野に鎮座する。ここは夷守神社(ひなもりじんじゃ)でもある。両社は合祀され、夷守神社の旧社地を鎮座地としている。
御祭神は瓊瓊杵命(ニニギノミコト)・木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)・彦火々出見命(ヒコホホデミノミコト)・豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)・鸕鷀草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)・玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)。日向三代(ひむかんさんだい)がそれぞれ夫婦で祭られている。夷守神社も御祭神は同じ。
日付は旧暦にて記す。
明治時代に合祀される
霧島連山のまわりには「霧島六社権現」と称される6つの権現社があった。霧島岑神社(霧島山中央六所権現)も夷守神社(雛守六所権現)もこの中に数えられている。六社はつぎのとおり。
霧島山中央六所権現(霧島岑神社、宮崎県小林市)
雛守六所権現(夷守神社、宮崎県小林市)
狭野大権現(狭野神社、宮崎県高原町)
東霧島権現(東霧島神社、宮崎県都城市)
霧島東御在所両所権現(霧島東神社、宮崎県高原町)
西御在所霧島六所権現(霧島神宮、鹿児島県霧島市)
ちなみに、小林はかつて「三山(みつやま、みのやま)」と呼ばれていた。高千穂峰(たかちほのみね)・韓国岳(からくにだけ)・夷守岳(ひなもりだけ)の3つの火山をのぞむことに由来する。
もともと霧島岑神社は夷守岳の中腹の「築地」というところにあった。明治7年(1874年)に夷守神社と合祀されたうえで、夷守神社の跡地に遷座された。
明治元年(1868)の神仏分離令により、権現社から神社になる。そして、国内では神社合祀が進められ、その中でこの両社も合祀されることになった。築地(旧社地)の霧島岑神社は人里離れた場所にあり、参拝にも管理にも不便であったという。そこで、夷守神社の旧社地へ遷されることに。
現在の霧島岑神社。道路沿いの標柱にも「霧島岑神社」とある。「夷守神社」の文字は見当たらず、その存在はあまり感じられない。
鳥居をくぐると広い駐車場もある。そこから参道を奥へ行くと、一対の仁王像と石段に出くわす。
仁王像の背中には「雛守大権現」の文字。もう一体の像に造立年が刻まれていて、享保6年(1721年)のものとのこと。夷守神社がここにあったことを示すものである。
霧島山中央六所権現(霧島岑神社)
創建時期は太古のこととされる。記録がなく、詳細はよくわからない。
『続日本後紀』の承和4年(837年)8月朔日の条にこうある、
日向国子湯郡都濃神、妻神、宮崎郡江田神、諸縣郡霧嶋岑神、並預官社 (『続日本後紀』より)
官社に預かった日向国の神社のうち、諸県郡(もろかたのこおり)の「霧嶋岑神」があった、と。
また、『日本三代実録』の天安2年(858年)10月22日の条には、霧島神に従四位下が授けられたという記録もある。
また、延長5年(927年)に完成した『延喜式』の神名帳(延喜式神名帳)にて。ここに記される日向国の4社の一つに、諸縣郡の霧島神社が確認できる。
これらも霧島岑神社のことであると推測される。
当初は高千穂峰の背門丘(脊門丘、せとお)というところに鎮座していたという。その場所は頂上と御鉢火口の間のあたり。現在、ここには石祠があり霧島神宮の元宮とされる。
天慶・天暦年間(10世紀半ば頃)に天台宗僧の性空(しょうくう)が霧島に入り、霧島にあった6社を権現社として整備した。これらを「霧島六社権現」という。
六社のうち、瀬多尾(背門丘、脊門丘)にあったものを「瀬多尾権現(せとおごんげん)」と号し、別当寺として瀬多尾寺も置かれた。「霧島山中央六所権現」とも称した。
天永3年(1123年)の噴火で社殿が焼失して再建。仁安2年(1167年)にも噴火があって焼失・再建。
そして、文暦元年(1234年)の御鉢の噴火でまたも焼失した。半里ばかり(2㎞くらい)麓にあった末社の霧辺王子神社のあたりに遷座され、そこを新しい「瀬多尾」と定めた。また、「瀬多尾越」とも称した。また「瀬多尾腰」は高千穂峰と韓国岳の間とする資料もある(『三国名勝図会』など)。
瀬多尾越の霧島山中央六所権現(霧島岑神社)は長くこの地にあったが、享保元年(1716年)の新燃岳(しんもえだけ)の噴火で焼失。降灰が深く降り積もる中で、埋まった御神体が掘り起こされたという。そして、小林細野の岡原というところ(現在の秋葉神社のあるあたりか)に仮宮を造って安置した。
火山活動が静まると、瀬多尾越に還座しようとするが、この地は被害が大きかったために計画を断念。享保14年(1729年)8月27日に、夷守岳東側の五合目あたりに社殿を新築して遷座した。ここを「築地」と呼んだ。その後、明治時代の合祀・遷座となる。
『三国名勝図会』には夷守岳の築地にあった霧島山中央六所権現(霧島岑神社)の絵図がある。往時の様子を伝えている。
雛守六所権現(夷守神社)
応和3年(963年)頃に、性空が霧島岑神社の神々を夷守岳に勧請したのが、雛守六所権現の始まりと伝わる。夷守岳の八合目に境内を設け、鷹導山承和寺宝光院を別当寺とした。
雛守六所権現は真幸院(現在の宮崎県小林市・えびの市・高原町のあたり)を領した北原(きたはら)氏に厚く崇敬された。北原氏にかわって真幸院に島津義弘(しまづよしひろ)が入ると、島津氏からも大事にされた。天正6年(1578年)に島津忠平(島津義弘)による社殿造立の棟札、貞享2年(1685年)に島津光久(みつひさ)が寄進造営したという棟札もあったという。
享保元年(1716年)の新燃岳噴火で雛守六所権現も焼失。そして、小林細野の現在地へ遷座した。
『三国名勝図会』に絵図が掲載されている。現在の霧島岑神社(夷守神社も合祀)は、かつての雛守六所権現の雰囲気をよく残している。
巨樹の並ぶ参道を奥へ
霧島岑神社は素敵な雰囲気であった。仁王像のあるところから、参道が真っすぐに伸びている。大きな木々が並ぶ中を登っていく。
参道のイチイガシの大木の根元に祠がある。「お熱の神サァ」と呼ばれている。子供が熱を出したときにここをお詣り。切った竹を束ねたものを供えて祈願する、という風習も(現地の看板より)。
参道のさきに鳥居が見える。
石段を登りきって鳥居をくぐる。両脇には門守神社も一対。櫛磐間戸神(クシイワマドノカミ)・豊磐間戸神(トヨイワマドノカミ)を祭る。2本の木も存在感がある。
奥に社殿がある。本殿の脇社には大山祇大神(オオヤマツミノオオカミ)・豊受大神(トヨウケノオオカミ)も祭られている。
境内には大きな木が多い。叢林の中に境内社の繭神社。養蚕の神を祭る。このほか、馬頭観音を祭る馬頭神社もある。
拝殿の向かって左側のほうの叢林には石塔群も。これらは宝光院のもの。銘によると明応9年(1500年)に奉納。逆修供養塔であるという。
中央と、西と、東と
『続日本後紀』にある「霧島岑神」、『日本三代実録』にある「霧島神」、延喜式内社の「霧島神社」。これらが現在のどの神社にあたるのかについては諸説ある。霧島岑神社(霧島山中央六所権現)とも、霧島神宮(西御在所霧島六所権現)とも、あるいは霧島東神社(霧島東御在所両所権現)とも言われたりする。
霧島岑神社の成り立ちについては、霧島神宮(西御在所霧島六所権現)とかぶる部分がけっこうある。両社の根源は同じところにあるような印象を受ける。また、細かいところで情報も錯綜していて、ちょっとこんがらがる。
霧島神宮についてはこちら。
霧島神宮古宮址についてはこちら。
霧島東神社(霧島東御在所両所権現)については古い記録がない(焼失か?)。ちなみに、高千穂峰山頂は霧島東神社の境内だったりする。そして、ここに刺さっている天逆鉾(あまのさかほこ)は霧島東神社の御社宝だ。
霧島東神社についてはこちら。
思うに、こんな感じだったんじゃないかと。
まず、高千穂峰の山頂近くの背門丘(脊門丘、せとお)に鎮座。霧島神宮の元宮のあるところに。
背門丘(脊門丘)の社殿が焼失したので、やや山の下のほうへ遷座。ここが瀬多尾(瀬多尾腰)。高千穂河原の霧島神宮古宮址のあたりだろうか。
文暦元年(1234年)の噴火で瀬多尾(瀬多尾腰)の社殿が焼失。瀬多尾権現(霧島山中央六所権現)は末社の霧辺王子神社のあったところに遷して、そこを新たな「瀬多尾」とした。
西御在所霧島六所権現(霧島神宮)については、文明16年(1484年)に島津忠昌(しまづただまさ、島津氏11代当主)によって高千穂峰に西麓に再興。また、文明18年(1486年)には霧島東御在所両所権現(霧島東神社)も再興。と。
中央にある「霧島山中央六所権現(霧島岑神社)」
西麓にある「西御在所霧島六所権現(霧島神宮)」
東麓にある「霧島東御在所両所権現(霧島東神社)」
この三つの権現社は、すべて瀬多尾(旧)から分かれたんじゃないかな? ……と。あくまでも個人的な想像である。
<参考資料>
『三国名勝図会』
編/橋口兼古・五代秀尭・橋口兼柄・五代友古 出版/山本盛秀 1905年
『小林市史 第1巻』
編/小林市史編纂委員会 発行/小林市 1965年
六国史巻7『続日本後紀』 増補
編/佐伯有義 発行/朝日新聞社 1940年
六国史 巻9『三代実録 巻上』 増補
編/佐伯有義 発行/朝日新聞社 1941年
『延喜式 第2』
編/藤原時平・正宗敦夫 発行/日本古典全集刊行会 1929年
ほか