ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

2022-01-01から1年間の記事一覧

鹿児島城(鶴丸城)跡の堀は、夏になるとハスの葉に覆われる!

鮮やかな緑色の中に、ピンクの花も色を挿す。水堀にはハスが群生する。夏の鹿児島城(鶴丸城、つるまるじょう)は素敵だ! 鹿児島城は慶長11年(1606)年頃に完成。鹿児島藩(薩摩藩)の政治の拠点であった。現在の住所だと鹿児島市城山町。背後にある「城山…

佐土原城跡にのぼってみた、島津家久・島津豊久が守った日向の要衝

佐土原城(さどわらじょう)跡は宮崎市佐土原町にある。別名に「田島城(たじまじょう)」「鶴松城(かくしょうじょう)」とも。日向国のほぼ中央に位置し、中世にこの地を支配した伊東(いとう)氏の拠点のひとつであった。 戦国時代末期に島津氏の支配下と…

桜島の噴火史をまとめてみた、大噴火には前兆もいろいろあるみたい

桜島は火山である。日常的に噴火している。音と空振で噴火に気づいたり、「灰はどっちに降るのかな?」と風向きを気にしたり、「車を洗ったばかりなのに」と残念がったり……というのは鹿児島に住む者にとってはよくあることだ。噴火には慣れている。恐れはあ…

藺牟田池と竜石と環状列石と、山の上の湖畔には謎がいっぱい

藺牟田池(いむたいけ)は鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田にある。直径約1㎞、周囲約4km、面積は約60ha。山上の窪地に水がたまっていて、湖水面の標高は295m。これを標高450m~500mほどの外輪山が囲む。火山活動でできた地形である。 右奥に見えるのは飯盛…

都於郡城跡にのぼってみた、堅固な伊東氏の本拠地は戦わずして落城した

曲輪群は船が浮いているようにも見える。そのことから「浮舟城(うきふねじょう)」とも呼ばれる。日向国の都於郡城(とのこおりじょう、宮崎県西都市)は伊東氏の本拠地であった。国の史跡にも指定されている。 日向伊東氏の本拠地 守りは堅いぞ 高屋山上陵…

日向伊東氏の栄華と没落、島津氏と抗争を続けて240年余

中世の南九州の歴史は、島津氏と伊東氏の抗争の歴史でもある。当ブログではおもに島津氏について記事を展開しているが、伊東氏のことももうちょっと知りたいのである。そんなわけで、伊東氏の歴史をまとめてみた、とくに島津との関りについて焦点を当てて。 …

岩窟の御陵に眠るのは神武天皇の父と母とされる、吾平山上陵を『三国名勝図会』より

吾平山上陵(あいらやまのえのみささぎ、あいらさんじょうりょう、あいらさんりょう)は鹿児島県鹿屋市吾平町にある。神代三陵(じんだいさんりょう、かみよさんりょう、神代三山陵)のひとつに数えられ、ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト(彦波瀲武…

三州統一へ、伊東義祐の豊後落ち/戦国時代の九州戦線、島津四兄弟の進撃(3)

天正2年(1574年)、島津義久(しまづよしひさ)は長年の宿敵であった肝付(きもつき)氏を従属させた。大隅国を平定し、日向国南部の志布志(しぶし、鹿児島県志布志市)まで島津氏の支配下となった。薩摩国とあわせてその範囲は、現在の鹿児島県全域(島嶼…

高鍋大師にいってみた、古墳のある丘にすごい数の神仏の石像が立ち並ぶ

丘の上に石像がいっぱい! ここは「高鍋大師(たかなべだいし)」と呼ばれている。 妙なセンスが光る石像群 場所は宮崎県児湯郡高鍋町。このあたりの地形は河岸段丘になっていて、段丘の上には持田古墳群(もちだこふんぐん)がある。前方後円墳10基・円墳75…

小林城(三山城)跡にのぼってみた、島津の大軍を跳ね返した伊東氏の前線基地

戦国時代の南九州では、島津氏と伊東氏が覇権を争っていた。その中で、元亀3年(1572年)の木崎原(きざきばる)の戦いがよく知られている。島津義弘(しまづよしひろ、島津忠平、ただひら)が寡兵で伊東方の大軍を打ち負かした、というものである。 一方で…

大友宗麟がキリスト教にのめり込む、そして高城川の戦い(耳川の戦い)で大敗、ルイス・フロイスの『日本史』より

天正6年(1578年)、日向国の高城川原(たかじょうがわら、宮崎県児湯郡木城町)で大友宗麟(おおともそうりん、大友義鎮、よししげ)と島津義久(しまづよしひさ)が激突した。結果は、島津勢が大勝する。大友勢は敗走し、追撃を受けて耳川(みみかわ、宮崎…

宇喜多秀家が隠れ住んだところ、関ヶ原から逃れ逃れて大隅牛根へ

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける脱出劇というと、島津義弘(しまづよしひろ)がよく知られている。美濃国関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)から国許の南九州まで、長い道のりを生還した。 関ヶ原から南九州まで落ちのびた大名がもうひとりいる…

『明治維新と神代三陵 廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』(著/窪壮一朗)、神々の陵がどうして鹿児島県にあるのか?

日向三代(ひむかさんだい)の陵(みささぎ)はすべて鹿児島県にある、ということになっている。治定されたのは「可愛山陵(えのみささぎ、えのさんりょう)」「高屋山上陵(たかやのやまのえのみささぎ、たかやさんりょう、たかやさんじょうりょう)」「吾…

牛根の太崎観音にいってみた、桜島をのぞむ海辺の石祠

鹿児島県垂水市は海岸線の景色が美しい。桜島は鹿児島市から見た姿がよく知られているが、大隅半島側からの姿も素晴らしいのである。 『三国名勝図会』という本がある。江戸時代末期に編纂された島津氏領内の地誌である。この中には桜島の見える風景の絵図が…

牛根麓稲荷神社の埋没鳥居、桜島の大噴火の凄まじさを伝える

ここは桜島が近い。牛根麓稲荷神社(うしねふもといなりじんじゃ)は鹿児島県垂水市牛根麓に鎮座する。 桜島は日常的に噴火する活発な火山だ。大噴火の記録も残っていて、近い時代では大正3年(1914年)のものがよく知られている。大正大噴火では桜島の中腹…

曽於末吉の平松城跡にのぼってみた、国境の激戦地に築かれた山城

大隅国末吉の平松城(ひらまつじょう)は国境の山城だ。城跡の現住所は鹿児島県曽於市末吉町南之郷。ちなみに小字は「陣ノ山」で、ここに陣取って戦ったことをうかがわせるものである。 このあたりは国合原(くにあいばる)と呼ばれ、大隅国と日向国が接する…

大隅平定、肝付兼亮が降る/戦国時代の九州戦線、島津四兄弟の進撃(2)

薩摩国の島津義久(しまづよしひさ)、大隅国の肝付兼亮(きもつきかねあき、かねすけ)、日向国の伊東義祐(いとうよしすけ)と、南九州では3つの勢力が鼎立。このうち伊東氏と肝付氏は手を結び、島津氏に対抗していた。 元亀2年(1571年)より肝付氏は水軍…

曽於末吉の住吉神社、島津義久も戦勝を祈願した国境の聖地

鹿児島県曽於市末吉町に鎮座する住吉神社(すみよしじんじゃ)を参拝した。御祭神は底筒之男命(ソコツツノオノミコト)・中筒之男命(ナカツツノオノミコト)・表筒之男命(ウワツツノオノミコト)。住吉三神である。 檍原の伝承地 境内をあるく 姥石 島津…

曽於末吉の檍神社、イザナギノミコトが黄泉国の穢れを落とした場所はココ?

檍神社(あおきじんじゃ)は鹿児島県曽於市末吉町南之郷に鎮座する。境内からは東方向へ視界が広がり田園風景が遠くまで続いている。この一帯は古くから「檍原(あはきがはら、あおきがはら)」と呼ばれている。 檍神社と檍原 『古事記』には、イザナギノミ…

『破天の剣』(著/天野純希)、主役は島津家久! その軍才は強烈な光を放つ

戦国時代後期の九州は島津氏が席巻する。その過程で戦功を挙げまっくたのが島津家久(しまづいえひさ)である。島津四兄弟の末っ子だ。 四兄弟の中でもっとも知名度が高いのは、次男の島津義弘(よしひろ)だ。猛将としてよく知られている。かたや島津家久の…

島津歳久、竜ヶ水に散る ~平松神社(心岳寺跡)を『三国名勝図会』より~

平松神社(ひらまつじんじゃ)は鹿児島市吉野町の竜ヶ水(りゅうがみず)に鎮座する。御祭神は碧空巌岳彦命(あおぞらいずたけひこのみこと)。島津歳久(しまづとしひさ)のことである。前身を心岳寺(しんがくじ)といい、島津歳久の菩提寺であった。 島津…

吉松の熊野神社・内小野寺跡、木崎原の戦いの前に島津義弘が戦勝を祈願した

鹿児島県北部の山間に「湧水町」という自治体がある。2005年に吉松町と栗野町の合併により発足したもので、湧水が多い地域であることから新町名もつけられている。このあたりは霧島連山の西麓に位置し、山々が蓄えた水が湧出する。湧水町内では栗野(くりの…

『島津義久 九州全土を席巻した智将』(著/桐野作人)、長兄の目線で描く戦国島津氏の激闘

島津義久(しまづよしひさ)は島津氏の16代当主である。天文2年(1533年)の生まれで、慶長16年(1611年)に没する。その生涯は戦国時代後期から徳川幕府成立期にあたる。『島津義久 九州全土を席巻した智将』は歴史作家の桐野作人(きりのさくじん)氏によ…

『島津義弘の賭け』(著/山本博文)、そして島津家は戦国時代を生き残った

島津義弘(しまづよしひろ)を知るにはオススメの一冊だ! 『島津義弘の賭け』は、16世紀末から17世紀初めにかけての島津家の事情を丁寧に掘り起こす。豊臣政権下で苦闘し、関ケ原の戦いから生還し、粘り強く交渉して本領安堵を勝ち取る。お家存亡の危機の連…

加久藤城跡にのぼってみた、大軍から城を守りきって木崎原の決戦へ

加久藤城(かくとうじょう)は宮崎県えびの市小田にあった山城である。「覚頭城」と書かれる場合もある。永禄7年~天正18年(1564年~1590年)に島津義弘(しまづよしひろ)がこの地を領有。元亀3年(1572年)の「木崎原の戦い」の緒戦は、この城であった。 …

ザビエルがやってきた、ルイス・フロイスの『日本史』より

1549年(天文18年)、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが薩摩に上陸。キリスト教を日本に布教するための第一歩を踏み出した。ルイス・フロイスの『日本史』はこの出来事から始まるのである。 『完訳フロイス日本史』(訳/松田毅一・川崎桃太、全12巻)で…

飯野城跡にのぼってみた、島津義弘が守った日向の前線基地

戦国時代の島津氏でもっとも知名度が高い人物は島津義弘(しまづよしひろ)だろう。それで、「薩摩の島津義弘」と説明されることも多く、一般的にもそんなイメージだと思われる。だが、島津義弘は薩摩国で城主になったことがない。居城は日向国や大隅国にあ…

木崎原古戦場跡にいってみた、島津義弘が10倍もの兵力差をひっくり返した

宮崎県えびの市は、島津義弘(しまづよしひろ)ゆかりの地である。ここはかつての日向国真幸院(まさきいん)にあたる。永禄7年(1564年)から天正18年(1590年)にかけて、島津義弘は飯野城(いいのじょう、えびの市原田)を居城として真幸院を治めていたの…

木崎原の戦い/戦国時代の九州戦線、島津四兄弟の進撃(1)

元亀元年(1570年)、島津貴久(しまづたかひさ)は薩摩国(鹿児島県の西側)を平定する。このほか、大隅国の西部(現在の鹿児島県霧島市・姶良市・姶良郡湧水町・伊佐市菱刈のあたり)、日向国真幸院(まさきいん、宮崎県えびの市のあたり)にも勢力を広げ…

宣教師が見た沖田畷の戦い(島原合戦)、ルイス・フロイスの『日本史』より

ルイス・フロイスの『日本史(Historia de Iapam)』を手に取ってみた。そこに綴られているのは、イエズス会宣教師が見た戦国時代だ。史料としては、かなり面白い存在なのである。 『完訳フロイス日本史』(訳/松田毅一・川崎桃太)という全12巻のシリーズ…