ムカシノコト、ホリコムヨ。

おもに鹿児島あたりの歴史を掘りこみます

ザビエルがやってきた、ルイス・フロイスの『日本史』より

1549年(天文18年)、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが薩摩に上陸。キリスト教を日本に布教するための第一歩を踏み出した。ルイス・フロイスの『日本史』はこの出来事から始まるのである。

 

『完訳フロイス日本史』(訳/松田毅一・川崎桃太、全12巻)では、6巻~8巻の『大友宗麟編』はイエズス会の初期の活動が記されている。ザビエルの来日は6巻で読めるのだ。『完訳フロイス日本史6 ザビエル来日と初期の布教活動 -大友宗麟篇1』を紹介する。

 


宣教師たちはよく観察している。当時の日本人の考え方だったり、街の様子だったり、習慣だったりを知ることができるのだ。そして、当時の日本の状況、とくに九州の情勢もよくわかるのである。

布教は薩摩国(鹿児島県)から始まり、その後は肥前国平戸(長崎県平戸市)や豊後国府内(大分市)、周防国山口(山口市)などで活動する。この巻には、薩摩の島津貴久(しまづたかひさ)・豊後の大友義鎮(おおともよししげ、大友宗麟、そうりん)・周防の大内義隆(おおうちよしたか)などが登場する。

なお、ルイス・フロイスの来日は1563年(永禄6年)のことである。この巻の情報元はイエズス会士の報告書などからまとめられている。

 

薩摩国に関する情報をいくつかつまんでみる。

 


アンジロウ(ヤジロウ)が優秀すぎる

フランシスコ・ザビエルを日本に案内したのは、パウロ・デ・サンタ・フェの洗礼名を持つ人物。日本名を「アンジロウ(Anjiro)」という。「ヤジロウ」という説もあり、本書でも「弥次郎」の漢字があてられている。

アンジロウ(ヤジロウ)は、島津氏領内(薩摩国か大隅国)の出身。国外に出た経緯はつぎのとおり。自身がイエズス会に出した書簡(本書にも掲載)で述べられている。書簡は1548年11月29日付けで、インドのゴアより出されたもの。以下は、その要約だ。

 

人を殺して役人から追われ、アンジロウ(ヤジロウ)は寺に隠れていた。近くにポルトガルの交易船が来ていて、その船には知り合いだったアルヴァロ・ヴァスという人物が乗っていた。アルヴァロ・ヴァスはアンジロウ(ヤジロウ)の境遇を知って、「自分の国に行きたくないか」と聞いてきた。アンジロウ(ヤジロウ)は国外に逃げることにした。アルヴァロ・ヴァスは仕事のためにしばらく日本を出られなかったので、ドン・フェルナンドという別の貿易商を紹介する。アンジロウ(ヤジロウ)は紹介状を持ってその人物をたずねたところ、ポルトガル人がいたので書簡を渡す。その人物はジョルジェ・アルヴァレスというまた別の貿易商だった。でも、ジョルジェ・アルヴァレスはアンジロウ(ヤジロウ)を歓待し、船に乗せてくれる。そして、アンジロウ(ヤジロウ)はマラッカに至る。

 

アンジロウ(ヤジロウ)の身分はわからない。ただ、ポルトガル人の知り合いがいることから海上交易に関わる人物だろう。倭寇っぽい感じもする。

ちなみに、ジョルジェ・アルヴァレスはフランシスコ・ザビエルと親しく、アンジロウ(ヤジロウ)を引き合わせるよう手配もしたようだ。また、フランシスコ・ザビエル宛に日本に関する報告書を送っている。この史料も探して読んでみたいところである。

1546年(天文15年)にアルヴァロ・ヴァス、ドン・フェルナンド、ジョルジェ・アルヴァレスの船は薩摩国の山川(やまがわ、鹿児島県指宿市山川)に入港したのだという(情報は『鹿児島縣史 1巻』より)。上記の出来事もこのときだと推測される。

 

パウロ(アンジロウ、ヤジロウ)はとんでもなく優秀な人物だったようだ。ゴアの学院で学んで半年でポルトガル語をほぼ習得。『聖マテオ福音書』について説明を受けると、一度聞いたら理解して記憶したのだという。また、教義を聞いて日本語で書き留めてもいた。

たまたま優秀な日本人を協力者として得て、ザビエルの日本への布教が始まるのある。パウロ(アンジロウ、ヤジロウ)は、通訳者としても薩摩で存分に活躍する。

アンジロウ(ヤジロウ)のその後の動きはよくわかっていないが、フロイスが得た情報が「不確かなこと」という前提のもとに書かれている。それによると、アンジロウ(ヤジロウ)はザビエルらと別れて、バハン(倭寇)に加わったのだという。そして海賊行為をするなか、中国で殺されたらしい、と。

 

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市来のミゲル

フランシスコ・ザビエルは島津貴久(しまづたかひさ)に謁見し、布教の許可をもらう。島津貴久は家臣が洗礼を受けることも許した。

市来城(いちきじょう、鹿児島県日置市東市来)の新納伊勢守(新納康久、にいろやすひさ)はとくにザビエル一行を歓待したようである。新納康久は改宗しなかったが、その妻や子はキリシタンとなる。のちに島津氏配下で活躍する新納久饒(ひさあつ、康久の次男)・新納旅庵(りょあん、康久の三男)も、幼少時に洗礼を受けた可能性がある。

ちなみに、新納康久は島津忠良(ただよし、貴久の父)・島津貴久の家老を務めた人物である。新納康久の父は新納忠澄(ただずみ)という。島津忠良の母は新納氏(新納是久の娘)であり、新納忠澄はその甥にあたる。つまり島津忠良の母方の従兄弟ということになる。新納忠澄は学問に優れた人物で、島津忠良の教育係も務めた。

 

市来城の家臣たちも多くの者が洗礼を受けた。新納氏の家老に、洗礼名をミゲルという者がいた。日本名は伝わっていない。この家老ミゲルはとくに信心深かった。ザビエルは苦行用のムチを家老ミゲルに与えた、「病人があればイエスとマリアの御名を唱えながら軽く鞭打つように、そうすれば病は治る」と言って。その後、家老ミゲルはこのムチで多くの病人を救ったのだという。「城主の奥方の大病を回復させた」とも。

1561年末(あるいは1562年初め)頃に、ルイス・デ・アルメイダが薩摩を訪れた記録があり、ここでも家老ミゲルが登場する。かなり年老いているが健在であった。信仰は依然として深く、前述の鞭打ちも続けている。ザビエルが去って10数年間のことについても報告している。

 

市来城(鶴丸城)跡にはザビエルや家老ミゲルの像もある。

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ザビエルと忍室

フランシスコ・ザビエルは鹿児島の福昌寺(ふくしょうじ)にあった忍室(にんじつ)と仲良くなった。ザビエルは何度も足を運んで、忍室とじっくりと話をしたようだ。忍室はキリスト教についてよく聞き、ザビエルのほうも忍室の話に興味を覚えたようである。

福昌寺は島津本宗家の菩提寺で、歴代当主の墓所もある。島津家領内でももっとも力を持った寺院のひとつだ。宗派は曹洞宗。明治初めの廃仏毀釈で廃寺となったが、その跡地が鹿児島市池之上町に残っている。忍室は福昌寺の15代住職である。

曹洞宗は禅宗の一派であるが、フロイスの『日本史』ではその教義をつぎのように記している。

この世には、生と死以外には何もなく、来世なるものは存在しない。現世における悪行に対する懲罰もなければ善行に対する報賞もない。さらに宇宙を支配する創造主も存在しないと信じている。(『完訳フロイス日本史6 ザビエル来日と初期の布教活動』より)

これは仏教における「無」についての解釈だろう。キリスト教の考え方とはまったく異なるものである。

 

フランシスコ・ザビエルは僧たちが黙想をしているところを見る。そして、忍室とこんなやりとりもあったそうだ。

司祭は「これらの修道者たちはここで何をしているのか」と質問した。すると忍室は微笑して彼に次のように答えた。「ある連中は、過去数ヶ月に、信徒たちからどれだけの収入を得たかを数えており、他の連中は、どこに行けば自分たちのためによりよい衣服や待遇が得られようかと思いめぐらしている。また他の連中は、気晴らしになることや閑(ひま)つぶしになることを考えているのであって、つまるところ、何か有意義なことを黙想しているような者は一人もいないのだ」と。(『完訳フロイス日本史6 ザビエル来日と初期の布教活動』より)

忍室と接した時間は、ザビエルにとって新鮮な経験だったという。

また、1562年にルイス・デ・アルメイダが鹿児島を訪れたときに、南林寺(なんりんじ、島津貴久の菩提寺)の高僧とじっくり話し込んでいる。この僧は忍室の門弟であった。

 

 

本書では、情報を盛りすぎてくどい文章が多い。読んでするすると内容が入ってくる感じではないが、その一方で情報量が豊富なのだ。いろいろなことが詳細までわかる。貴重な史料である。

完訳フロイス日本史〈6〉ザビエル来日と初期の布教活動―大友宗麟篇(1) (中公文庫)

 

ほかの巻についても記事あり。

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<参考資料>
『完訳フロイス日本史6 ザビエル来日と初期の布教活動 -大友宗麟篇1』
著/ルイスフロイス 訳/松田毅一・川崎桃太 発行/中央公論新社 2000年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年