ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

宇喜多秀家が隠れ住んだところ、関ヶ原から逃れ逃れて大隅牛根へ

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける脱出劇というと、島津義弘(しまづよしひろ)がよく知られている。美濃国関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)から国許の南九州まで、長い道のりを生還した。

関ヶ原から南九州まで落ちのびた大名がもうひとりいる。宇喜多秀家(うきたひでいえ)だ。

宇喜多秀家は島津家に匿われ、大隅国牛根(うしね、鹿児島県垂水市牛根麓)に隠れ住んだ。その潜伏場所を訪れてみた。

山深いところに階段と幟も

宇喜多秀家潜居地跡

 

 

 

 

 

宇喜多秀家ってこんな人

宇喜多秀家は備前国の岡山城(おかやまじょう、現在の岡山市北区)を拠点に美作国・備中国・播磨国にも所領を持つ。その範囲は現在の岡山県全域と兵庫県の一部に及ぶ。57万石の大名で、「備前宰相」「備前中納言」と呼ばれた。元亀3年(1572年)の生まれで、関ヶ原の戦いの時点では28歳だった。

父の宇喜多直家(なおいえ)は没落した家を再興し、主君を倒して備前国の戦国大名になり上がった人物。のちに織田信長に臣従するが、天正9年(1581年)に病死する。その頃の宇喜多秀家はまだ幼少で、名を八郎といった。宇喜多家は羽柴秀吉のもとで動くようになる。

羽柴秀吉(豊臣秀吉)が天下を取ったあとも、宇喜多家の扱いは変わらない。のちに八郎は元服し、羽柴秀吉から偏諱を賜って「宇喜多秀家」と名のる。備前国をはじめとする所領もそのまま引き継いだ。宇喜多秀家の妻は豪姫(ごうひめ)という。豪姫は前田利家(まえだとしいえ)の娘で、豊臣秀吉の養女である。豪姫と娶せられたことで、豊臣氏の一門として扱われるようになった。豊臣政権でどんどん出世し、若くして五大老に列せられた。

 

 

関ヶ原から薩摩落ち

慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が没する。翌年には五大老の重鎮の前田利家も没する。豊臣政権が揺らぐ。宇喜多秀家にとって、大きな後ろ盾となる人物をたて続けに失ったことにもなる。

五大老筆頭の徳川家康の専横が目立つようになり、それに反発した石田三成らがその打倒を画策する。そして反徳川勢力が結集して挙兵。そして、関ヶ原の決戦に至った。

反徳川方を「西軍」といった。一方で徳川家康が率いる軍勢は「東軍」という。天下を二分しての決戦となる。

宇喜多秀家は西軍の副大将。17000の兵を率いて関ケ原の決戦に参加する。主力として奮戦した。しかし、豊臣氏の一門でもある小早川秀秋(こばやかわひであき)の寝返りで形勢が一気に決する。西軍は壊滅する。宇喜多秀家は敗走し、なんとか戦場から脱出した。

ちなみに宇喜多秀家の旧領は、その後、小早川秀秋に与えられている。

宇喜多秀家主従は落ち武者狩りや徳川家の捜索をかいくぐって関ヶ原から西へ。和泉国堺(大阪府堺市)から船に乗って九州を目指した。

慶長6年(1601年)6月初め頃、宇喜多秀家は薩摩国山川(やまがわ、鹿児島県指宿市山川町)の港に到着した。

その様子は、同年6月6日付けの島津義弘から島津忠恒(ただつね、島津家の次期当主、島津義弘の子)に宛てた書状に記されている(『旧記雑録後編 第3巻』に収録)。

書状によると、島津義弘は伊勢貞成・相良長泰(いせさだなり・さがらながやす、いずれも島津義弘の家老)らを山川に派遣して調べさせた。で、宇喜多秀家の処遇をどうしたものかと、島津義久(よしひさ)・島津忠恒と相談している。

島津家では匿うことと決め、宇喜多秀家を大隅国牛根に移す。この地に住む平野(ひらの)氏に命じて世話をさせた。それから2年ほど隠れ住む。牛根では「休復」と号した。

 

 

 

宇喜多秀家公潜居地跡を散策

国道220号から脇道にちょっと入ると、「宇喜多秀家公潜居地跡」用の駐車場がある。そこから徒歩で山のほうへ入っていく。

細い道路と案内の看板

駐車場から歩いて、ここを下りる

 

順路に沿って、細い道を歩いていく。

細い道を歩く

集落のすき間を縫うように進む

 

山に入るとまた案内がある。分かれ道。右が「宇喜多秀家潜居地跡」で、左が「七人塚」だ。ひとまず右へ。

分かれ道と案内看板

まずは右奥へ

 

歩みを進める。どんどん山深くなる。

森の中の遊歩道

隠れ家らしい雰囲気に

 

分かれ道から5分ほどで、平坦な空間に出た。このあたりに、屋敷があったようだ。ここには小さな祠がある。その横には「岡山城の石」なんてものもある。こちらは2020年にツアー客一行が寄贈したものとのこと。

ちょっとした広場になっている

屋敷があったあたり

城の石が持ち込まれた

岡山城の石

 

こちらは宇喜多秀家が八丈島でお手植えしたというソテツを株分けしたもの。八丈島はのちの配流地である。

小さなソテツと宇喜多秀家の歌

宇喜多秀家のソテツ

 

うたたねの夢は牛根の里にさへ
都忘れの菊は咲きけり

そこには、宇喜多秀家が牛根で詠んだとされる歌も。

 

ここからさらに山の上へと道が続く。10分ほど登ると山頂の展望台。こちらにも歌の看板がある。桜島と海が見える。宇喜多秀家も眺めた風景だろうか。

麓の集落を見下ろす、遠くに海と桜島

山上からの眺め

 

 

七人塚へ

入口付近の分かれ道のもう一方の「七人塚」にも立ち寄る。宇喜多秀家はここにに日参したと伝わる。そこは木々が鬱葱と茂る。こんもりと盛り上がったあたりが塚だろうか。その上にはアコウの大木が生えている。大木の空洞には玉串も納められていた。

森の中の巨木

塚の上にはアコウの巨木

存在感を放つアコウの木

裏側にまわり込んで、こちらで参拝


宇喜多秀家の潜居に協力した平野氏の一族は、もともとは平家の水軍だったという。12世紀末の源平合戦に敗れた平家は没落。平野一族は大隅国牛根まで逃げてきた。牛根には安徳天皇が落ちのびたという伝承もある。鎌倉の幕府は、平氏の残党をしつこく追う。牛根にも追手が送り込まれたのだという。7人の追手は山伏に扮してこの地に入るが、平野一族の剣客が夜陰に紛れて剣客を討った。殺された7人の慰霊のために作られたのが「七人塚」だとされる。

平野一族は操船技術や造船技術に優れ、島津氏が手がけた貿易にも関与したようだ。重く用いられ、この地の有力者になったという。

 

 

八丈島に流される

宇喜多秀家がなぜ島津氏を頼ったのか? 正確なところはよくわからない。ただ、当時の状況から考えると、選択肢がそれしかなかったのだと思われる。

潜伏を続けていた宇喜多秀家には、日本国内には居場所がなくなっていた。関ヶ原の戦いの敗軍となった者たちは処刑され、改易された。徳川家康の天下は確定的なものとなっていた。当時、徳川家に屈していない大名がひとつだけあった。それが島津家である。

西軍についた島津家は「攻めてくるなら戦うぞ」と強気の構えを見せながら、本領安堵を求めて粘り強く交渉を続けていた。

そんなところへ、宇喜多秀家が落ちてくる。「やっかいなヤツが来たもんだ」と島津家はかなり困ったと思われる。だが、徳川家に報告してさっさと差し出すという選択はとらなかった。その意図はわからない。

慶長7年12月(1603年1月)、島津家は本領安堵を勝ち取る。島津忠恒は上洛して徳川家康に謁見。そこで宇喜多秀家を匿っていること打ち明けた。隠しているのは、のちのち不都合だと判断したのだろう。この時に助命嘆願も訴えたという。

慶長8年8月6日、宇喜多秀家は牛根を発つ。8月27日に京の伏見(京都市伏見区)に到着する。この間にも、島津忠恒を中心に助命運動が続けられていた。徳川家康は「島津の面目を潰さないよう」と宇喜多秀家の命を取らないことを約束した。

宇喜多秀家は駿河国の駿府城(すんぷじょう、静岡市葵区)に移される。その後、八丈島に配流されることが決まり、慶長11年(1606年)4月に流された。

流人生活は50年近くにも及んだ。明暦元年(1655年)11月20日に没する。享年84。関ヶ原で戦った大名の中で、宇喜多秀家はいちばん最後に死んだ人物である。

 

 

 

 

 

牛根周辺については、こちらの記事でも。

rekishikomugae.net

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<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

鹿児島県史料『旧記雑録後編 第3巻』
編/鹿児島県維新史料編さん所 1983年

『宇喜多秀家 秀吉が認めた可能性』
著/大西泰正 発行/平凡社 2020年

『「不屈の両殿」島津義久・義弘 関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』
著/新名一仁 発行/株式会社KADOKAWA 2021年

ほか