戦国時代の島津氏は「強い」というイメージを持たれている。関ヶ原の戦いでの「島津の退き口」のほか、「木崎原の戦い」「耳川の戦い」「沖田畷の戦い」「泗川の戦い」などでの劇的な勝利がよく知られている。映画・ドラマ・小説・漫画なんかでも、このあたりがクローズアップされる。また、ゲーム作品でも「島津は強い」という設定になっていることがほとんどである。ゲームから歴史に興味を持つ人は多く、こちらの影響もけっこうあるんじゃないかと思われる。
その一方で、天正15年(1587年)に豊臣政権の傘下に入ってからの島津氏はグダグダである。島津義久(しまづよしひさ、1533年~1611年)・島津義弘(しまづよしひろ、1535年~1619年)兄弟の足並みはそろわず、家臣も言うことを聞かず、家中の統制はまったくとれていない。豊臣政権からの要求に対応できず、朝鮮への出兵要請の際に兵も船も準備できなかったり、関ヶ原の戦いでも寡兵での参加を強いられたり、とダメっぷりを露呈しまくるのである。
で、島津は強かったのか? そうではないのか? そこのところを紐解いてくれるのが、新名一仁(にいなかずひと)氏の『「不屈の両殿」島津義久・義弘 関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』である。
豊臣政権との関わり、関ヶ原の戦いと徳川家との和睦交渉を中心に、戦国島津氏の実情を掘り下げる。大量の一次史料をもとに丁寧に検証されている。
「両殿」とは?
島津家中では、島津義久と島津義弘の2人を「両殿(りょうとの)」と呼んでいた。これは「当主がふたりいる」ことを意味する。
天正13年(1585年)に島津義弘は「名代」「守護代」となった。この頃、島津義久は健康に不安があり、後継者となる男子もいなかった。自分の代わりに采配を振るえる者を置こうと考えた。また、島津氏の支配領域が大きくなっていたこともあり、島津義久ひとりで領国経営を見るのも難しくなっていた。そこで、島津義弘が「もうひとりの当主」として指名されたのだ。
ただ、両殿には上下関係はある。島津義弘は生涯にわたって兄を立てている。
島津義久と島津義弘の人物像
島津氏は、分家出身の島津貴久(たかひさ)が一族の抗争を制して戦国大名になっていく。島津義久は貴久の嫡男、島津義弘は次男である。島津義久は若い頃から次期当主として期待され、戦場でも父とともに大将を務めることが多かった。一方、島津義弘は最前線での戦いを担っていた。期待される立場、そこでの経験の違いも影響したのか、この兄弟の性格・考え方はまったく異なる。『不屈の両殿』によると、つぎのような感じだったとのこと。
島津義久は慎重なリアリスト。保守的でなかなか動かない感じだが、大局はしっかり見えている印象だ。豊臣政権とはやや距離を置いている。
島津義弘は生真面目でまっすぐ、周囲への気配りも細やか。現場監督者としてすこぶる優秀である。豊臣政権からの命令には誠実に対応しようと動いており、そうすることが家のためだと考えていたようだ。
豊臣政権は、島津義弘のほうを島津家の代表として扱うようになる。そちらのほうが与しやすいと考えたのだろう。だが、島津家領内では依然として島津義久の権力が強い。島津義弘は領内をコントロールできない。そして、兄と弟の目指すところは違う。意見が食い違い、前述のグダグダな状況へとつながるのだ。
ただ、兄と弟は対立しながらも、訣別することはなかった。最終的に島津氏は戦国時代を生き残る。
さらに三殿体制へ
島津家の後継者に、島津忠恒(ただつね)が指名される。島津義弘の三男で、島津義久の三女を妻とする。島津忠恒は慶長4年(1599年)に家督を継承するが、このちょっと前から忠恒・義久・義弘の3人の意思決定者が並立する状態となった。
そんな三殿体制になったところで、関ケ原の戦いにも巻き込まれるのである。
在京の島津義弘、鹿児島にいる島津義久と島津忠恒。関ヶ原の戦いの前後では、3人それぞれの思惑が交錯する。
そして、敗軍に参加しながらも、本領安堵を勝ち取るのである。
ちょっと感想を
読み応えあり! はじめて知る情報も多かった。また、登場人物の思いや苦悩もよく描かれていて、人間味が感じられるのである。
著者は南九州中世史研究の第一人者とも言える人物だ。島津氏の成り立ち、その権力構造の形成過程、風土や文化などに精通する。しっかりとした知見があるからこそ、書かれたことのひとつひとつに説得力が感じられるのだろう。
「不屈の両殿」島津義久・義弘 関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇 (角川新書)
島津貴久を題材にした『島津貴久 -戦国大名島津氏の誕生-』も面白い。戦国島津氏ができるまでの状況がよくわかる。