幾何学模様を思わせる岩壁に水が落ちる。あちこちに伏流水がしたたり、滝壺は鮮やかな青緑色に輝く。「雄川の滝(おがわのたき)」は、なんとも神秘的な雰囲気の場所である。
滝壺は鹿児島県肝属郡南大隅町根占にある。ここは町境にあたり、滝の上側は錦江町田代になる。雄川(別名に花瀬川)に麓川が合流したあたりから、ちょっと下流が滝になっている。
雄川の滝は、けっこう最近までほとんど知られることのない存在だった。2013年の鹿児島銀行のカレンダーに写真が採用されたことをきっかけに話題となり、そこから徐々に知名度が上がる。2018年のNHK大河ドラマ『西郷どん』のオープニング映像にも登場し、全国的にも知られるようになった。
この雄川の滝を、薩摩藩が編纂した地理誌『三国名勝図会』で見てみる。巻之四十六に掲載され、大隅国大隅郡田代(たしろ)の山水として「小川瀑布」が絵図入りで紹介されている。絵図には、小根占(こねじめ、根占のこと)より見たものとも書かれている。
『三国名勝図会』は五代秀堯(ごだいひでたか、五代友厚の父)や橋口兼柄らがまとめたもので、天保14年(1843年)に完成したものである。現在は明治38年(1905年)に出版されたものが、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能だ。
かつては水が轟轟と
まずは絵図を見てほしい。現在とは雰囲気がまったく違う。かつてはかなりの水量があったのだ。
『三国名勝図会』によると、高さが25間~26間(46m前後)、横幅は50間(90mくらい)、瀑潭(滝壺)の深さは33尋(60mくらい)ある、としている。現在は落差がほぼそのままであるものの、横幅は60mとやや規模を縮小した感じ。滝壺も川底が見えるので、そんなに深くはない。
景観についてはつぎのとおり。
瀑の左右は、絶壁直立し、草木も生ずることなし。瀑より下流の両崖が高きこと三十間許、皆屏風を立たるが如し。其南崖の上は戸崎と名づけ、人家数宇あり。瀑布は崖上より望む所あり、寶暦元年十一月、圓徳公遊覧し玉ひ、其御輿を置し跡残れり。(『三国名勝図会』より)
当時は滝の裏側が見えていないが、左右の断崖についてはその様子が語られている。また、滝上に展望できる場所があり、宝暦元年(1751年)には島津重年(しまづしげとし、圓徳公、島津氏24代当主・薩摩藩7代藩主)が遊覧に訪れたのだという。
じつは、現在の風景は近年の開発が影響してのもの。大正時代に滝上に水力発電所が建設され、ダムも設けられている。水量が減ったことで、滝が荒々しく削った絶壁があらわになったのである。
このあたりの地質は火山由来の溶結凝灰岩からなる。10万年ほど前の阿多カルデラの巨大噴火により噴出した火砕流が固まったもので、柱状に割れる(柱状節理)という特徴がある。幾何学模様のような断崖は、そんな地質からきているのだ。
現在は、遊歩道が設けられるなど観光地としても整備されている。駐車場から1㎞ほど川に沿って山奥へと踏み入る。
遊歩道から川を見ると、四角い岩がゴロゴロ転がっている。水の流れにより渓谷が深く削られる中で、岩肌が剥がれ落ちるように崩されたというわけだ。
上から眺めてみる
雄川の滝へは下から遊歩道を経て滝壺に至るルートのほか、上から覗き込める展望所もある。滝下遊歩道の駐車場から滝上展望所への道のりはかなりの大回りで、約9kmもある。その道中では、前出の瀧見大橋もわたる。
こちらの展望所の眺めは島津重年が見た風景に近いかも、滝の様相は違っているけど。滝上にある水力発電所やダムも見える。
ときどきダムの放水が行われる。下の写真は、そのタイミングでたまたま訪れたときに撮影したもの。こっちが、もともとの姿に近いのかな。
余談だが、南大隅町の根占(小根占)には西郷隆盛もたびたび訪れたのだという。雄川をずっと下った河口のあたりには、西郷隆盛が逗留した民家も残っている。
明治10年(1877年)に私学校(西郷隆盛が旧士族のために設立した仕官養成学校)の生徒が暴発し、鹿児島にある政府の武器弾薬庫を襲撃した。この知らせを西郷隆盛は小根占で聞き、大急ぎで鹿児島に戻った。そして、西郷隆盛を総大将として挙兵。西南戦争へと突入するのである。
<参考資料>
『三国名勝図会』 巻之四十六
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年