ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

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曽於末吉の檍神社、イザナギノミコトが黄泉国の穢れを落とした場所はココ?

檍神社(あおきじんじゃ)は鹿児島県曽於市末吉町南之郷に鎮座する。境内からは東方向へ視界が広がり田園風景が遠くまで続いている。この一帯は古くから「檍原(あはきがはら、あおきがはら)」と呼ばれている。

神社の境内と田園風景

檍神社と檍原

 

『古事記』には、イザナギノミコト(伊邪那岐命、伊弉諾尊)が黄泉国(よもつくに)から戻って禊をされた場所は「竺紫日向之橘小門之阿波岐原(つくしのひむかのたちばなのおどのあはきがはら)」と記されている。『日本書紀』には「筑紫日向小戸橘之檍原」とある。

「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」はここ、という言い伝えがあるのだ。

『三国名勝図会』には檍神社をはじめ、この周辺のことが詳しく紹介されている。絵図とも照らしあわせながらつづってみる。

 

『三国名勝図会』は鹿児島藩(薩摩藩)により編纂された地誌で、天保14年12月(1844年1月)に発行。詳細はこちらの記事で。

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檍神社の由緒

創建時期は不詳で、上代(奈良時代以前)とも伝わる。伊邪那岐神(イザナギノカミ)・伊邪那美神(イザナミノカミ)を主祭神とする。もともとは小社であったが、寛保3年(1743年)4月に重建された。

御祭神はほかに天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)・高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)・神御産巣日神(カミムスヒノカミ)・國之常立神(クニノトコタチノカミ)・豊雲野神(トヨクモノノカミ) 宇比地邇神(ウヒジニノカミ)・須比智邇神(スヒジニノカミ)・角杙神(ツヌグイノカミ)・活杙神(イクグイノカミ)・意富斗能地神(オオトノジノカミ)・大斗乃辨神(オオトノベノカミ)・淤母陀流神(オモダルノカミ)・阿夜訶志古泥神(アヤカシコネノカミ)も加わる。神代七代を祭っている。

イザナギノミコトの聖地であることを由来とし、檍原の一帯には檍神社・上津片加男神社(うわつかたがおじんじゃ)・中津眞津男神社(なかつまつおじんじゃ)・下津片加男神社(しもつかたがおじんじゃ)・眞木男神社(まきおじんじゃ)が鎮座していた。明治時代末期の神社合祀令により、5社は檍神社でまとめて祀ることとなった。合祀の御祭神も以下に列挙する。

上津片加男神社の八十禍津日神(ヤソマガツヒノカミ)・表津小童命(ウワツワタツミノミコト)・表筒男命(ウワツツノオノミコト)。

中津眞津男神社の神直日神(カムナオビノカミ)・中津小童命(ナカツワタツミノミコト)・中筒男命(ナカツツノオノミコト)。

下津片加男神社の大直日神(オオナオビノカミ)・底津小童命(ソコツワタツミノミコト)・底筒男命(ソコツツノオノミコト)。

眞木男神社の表津小童命・中津小童命・底津小童命。

ほか、山口神社の天智天皇、岩宮神社の聖天(ショウテン)も合祀されている。


檍原系4社の御祭神は、イザナギノミコトが穢れをすすぐ際にあらわれた神々である。『古事記』によるとつぎのとおり。

イザナギノミコトは中津瀬に入るとはじめにヤソマガツヒノカミ、つぎにオオマガツヒノカミ(大禍津日神)が成る。そして、禍(まが)をなおすカムナオビノカミ・オオナビノカミ・イズノメノカミ(伊豆能賣神)が成る。水の底で身をすすぐとソコツワタツミノカミ・ソコツツノオノカミが、水の中ほどですすぐとナカツワタツミノカミ・ソコツツノオノカミが、水の上のほうですすぐとウワツワタツミノカミ・ウワツツノオノカミが成った。

……といった感じである。

 

こちらは『三国名勝図会』の絵図より。

檍原の絵図

檍原、『三国名勝図会』巻之三十六より(国立国会図書館デジタルコレクション)

広がる田園風景

檍原を檍神社から見る

 

周辺には「橘嶽(たちばなだけ)」「上津瀬(うわつせ)」「中津瀬(なかつせ)」「下津瀬(しもつせ)」「小戸池(おどのいけ)」「黄泉平坂(よもつひらさか)」「磐根子(いわねこ)」「柄基(つかもと)」「高天原(たかまがはら)」「高山(たかやま)」「短山(ひきやま)」「佐久良谷(さくらだに)」「天岩戸(あまのいわと)」などの伝承地もある。

 

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住吉三神を祭る住吉神社も近くに鎮座する。

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水の湧く境内

県道503号や県道109号に檍神社への案内看板がある。それほど迷わずに行けると思う。2022年4月には、バイクツーリングの拠点となる「全国オートバイ神社」にも認定された。

県道503号で見つけた案内看板から脇道に入り、しばらく進むと鳥居が現れた。一の鳥居だ。

森と鳥居

一の鳥居

 

鳥居を車でくぐって奥へ。「全国オートバイ神社」の認定を機に、広い駐車場も整備されたようだ。

広場と鳥居、看板に「全国オートバイ神社」の文字もある

駐車場は整備されたばかり

 

二の鳥居は駐車場からすぐ。参道が奥へと続く。疫病退散の茅の輪も設置されていた。

社叢と鳥居

二の鳥居と参道

 

神社は手入れが行き届いている。そして、活気のある感じがした。地域の方たちで組織された「南之郷もりあげ隊」がいろいろ取り組んでいるようだ。訪問日には「もりあげ隊」の方がいて、境内を案内してくださった。貴重な情報もいろいろ聞くことができた。

 

参道を歩いていくすぐ、左側に小戸池(おどのいけ)が見える。湧水は澄んでいて、鯉なども泳いでいる。この水を飲むと安産の御利益があるという。水を持ち帰る際には「二人連れで来る」「瓶の口を下流に向けて汲む」「持ち帰る途中で立ち止まらい」などの作法もあるとのこと(現地の説明看板より)。

白い標柱と池

小戸池

池の水は澄んでいる

こんこんと水が湧く


拝殿は築80年以上とのこと。奥の本殿は流造のようだ。

神社の境内

拝殿と小戸池

 

『三国名勝図会』の絵図と照らし合わせてみると、境内の様子はほぼ変わっていない。

神社の絵図

檍神社、『三国名勝図会』巻之三十六より(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

参拝したあと、「南之郷もりあげ隊」の方から拝殿の向かって右脇に行くよう促された。そこで見たものは……。

石の像、乳房から水が出る

おっぱいが!

 

おっぱいから水が勢いよく飛び出す! 「安産子育地蔵」という。出ているのは「おっぱい水」と呼ばれている。小戸池と水源は同じ。人感センサーが設置されて、人が近づくと水が出る仕掛けになっている。「南之郷もりあげ隊」の方が紙コップを持って来てくれた。飲んでみる。美味しい水だ。

安産子育地蔵は1980年前後に地元の石工によって制作されたものとのこと。その姿は、田の神様(たのかんさぁ、南九州の田んぼの脇などで石像が見られる)をモチーフにしている。もともとは手動で水栓を開閉していたが、ちょっと前にセンサー式になった。

 

もうちょっと歩いてみる。境内の石灯籠には「寛保三年」と刻まれている。前述の重建の際に奉納されたものだろう。

古い石灯籠

小戸池近くの石灯籠


二の鳥居の近くには道祖神の姿も。クナドノサエノカミ、チマタノカミ、ヤチマタノカミ・ヤチマタヒメノカミとも呼ばれている。

小さな石の像

檍神社の道祖神

 

そんなに大きな神社ではないのだが、なんだか長居をしてしまった。もうちょっと調べてみると、何か面白いものが出てきそうな気もする。周辺の伝承地も含めて、また訪れてみたいところである。

 

 

柄基へ、天浮橋の伝承地

檍神社から北に1㎞ほどの場所に、「柄基(つかもと、さかもと)」がある。それは田んぼの中に屹立していて、天浮橋(あめのうきはし)の橋柱と伝えられている。ちなみに、このあたりの地名は「橋野」という。「浮橋」という小字もあるそうだ。

田んぼの中に小さな丘

柄基、何に由来する地形だろう?

柄基の絵図

『三国名勝図会』巻之三十六より(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

『三国名勝図会』によると、高さは5間~6間ほど(10m前後)、周囲は11間余(20mくらい)としている。目視での印象では、ちょっと小さくなっているようだった。

 

 

 

 

 

<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『古事記』(岩波文庫)
校注/倉野憲司 発行/岩波書店 1963年

ほか