「妙円寺詣り(みょうえんじまいり)」は鹿児島県の三大行事の一つ。毎年10月に島津義弘の武威を偲んで行われる。
『妙円寺詣りの歌』というのもあり、歌詞は二十二番まである。その歌詞をあらためて見てみると、すごくよくできている。ちょっと解説を交えつつ紹介する。
なお、慶長5年(1600年)の日付は旧暦にて記す。
「妙円寺詣り」とは?
妙円寺(妙圓寺)は薩摩国伊集院(鹿児島県日置市伊集院)にある寺院。山号は「法智山」。島津義弘の菩提寺で、その木像や位牌が安置されていた。明治2年(1869年)に廃仏毀釈により妙円寺は廃され、明治4年に徳重神社(とくしげじんじゃ)に。島津義弘の木造を御神体として祀られることになった。また、明治13年(1880年)に法智山妙円寺が徳重神社の隣地に復興。こちらには島津義弘の位牌が安置されている。
この徳重神社と妙円寺に詣でる。かつては旧暦9月15日に参詣。前日の夜に鹿児島城下を出発。甲冑姿で20㎞ほどの距離を歩いて伊集院を目指す。なお、現在は旧暦9月15日に近い土曜日・日曜日に実施。2025年は10月25日・26日である。



この行事は慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いにちなむ。島津義弘は敗軍につき、敵中を突破して戦場を離脱し、美濃国関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)から居館のある大隅国帖佐(鹿児島県姶良市鍋倉)まで約1000㎞もの撤退路を生還した。
その苦難を語り継ぐ行事である。
いつから行われるようになったのかはわからない。幕末には妙円寺詣りの記録があり、その頃には定着していたと思われる。薩摩藩では島津義弘が英雄として崇敬され、その存在は藩士の結束にもつながっていた。
『妙円寺詣りの歌』
この歌の成立については『かごしま文化の表情 第5集(文芸編)』に情報があった。
大正4年(1915年)に鹿児島新聞社(南日本新聞社の前身の一つ)が行った公募によるもので、その一等作品である。また、『士魂 薩摩兵児歌』には「大正八年ごろ」とある。
作詞者は池上真澄。鹿児島県河邊郡知覧町(鹿児島県南九州市知覧)の生まれ、当時は鹿児島女子師範学校附属小学校(鹿児島大学教育学部付属小学校の前身)の教師だった。作曲者は佐藤茂助。
ちなみに、大正8年(1919年)は島津義弘没後300年にもあたる。『妙円寺詣りの歌』ができた背景には、これもあったのかも?
この『妙円寺詣りの歌』は、鹿児島県内ではけっこう浸透している。「妙円寺詣り」が学校行事にも組み込まれていて、その際に歌も覚えさせられるのだ。歌詞も一番だけなら、鹿児島県の多くの人が知っているんじゃないかと思われる。


歌詞
大作だ。歌詞は二十二番まである。七五調で、関ヶ原の戦いの様子が臨場感たっぷりに描かれている。読みにくい漢字もけっこう多いので、仮名表記も併記する。
なお、歌詞では大正時代の頃の通説がもとになっている。研究が進んだことで覆った説もある。
一番/開戦前
明くれど閉ざす雲暗く
薄かるかやそよがせて
嵐はさっと吹き渡り
万馬いななく声高し
あくれどとざす くもくらく
すすきかるかや そよがせて
あらしはさっと ふきわたり
ばんばいななく こえたかし
夜が明けたけど空には暗雲。風の音の中に、馬のいななき。静けさの中に、「今にも戦が始まるぞ!」という緊迫した雰囲気だ。9月14日に東軍・西軍が関ヶ原に集まってきて、陣につく。9月15日の朝、各々が出撃の機会をうかがっている。
二番/火蓋を切る
銃雷と轟けば
太刀稲妻ときらめきつ
天下分目のたたかいは
今や開けぬ関ヶ原
つついかずちと とどろけば
たちいなずまと きらめきつ
てんかわけめの たたかいは
いまやひらけぬ せきがはら
銃の轟音と太刀の煌めき。戦いがついに始まった。
三番/島津は動かず
石田しきりに促せど
更に動かぬ島津勢
占むる小池の陣営に
鉄甲堅くよろうなり
いしだしきりに うながせど
さらにうごかぬ しまづぜい
しむるこいけの じんえいに
てっこうかたく よろうなり
石田三成が小池に陣取った島津隊に攻撃を促す。しかし、島津義弘は従わない。堅く守りを固めている。
四番/山田有栄が応戦
名だたる敵の井伊本多
霧にまぎれて寄せ来るや
我が昌巌ら待ち伏せて
縦横無尽にかけ散らす
なだたるてきの いいほんだ
きりにまぎれて よせくるや
わがしょうがんら まちぶせて
じゅうおうむじんに かけちらす
井伊直政(いいなおまさ)と本多忠勝(ほんだただかつ)が島津隊を攻撃。いずれも徳川家康の重臣で、剛勇で知られる。島津隊では山田有栄(やまだありなが)が待ち伏せて、敵軍を蹴散らした。なお、「昌巌」は山田有栄が後年に称した入道名。
五番/乱戦
東軍威望の恃みあり
西軍恩義によりて立つ
二十余万の総勢の
勝敗何れに決せんや
とうぐんいぼうの たのみあり
せいぐんおんぎに よりてたつ
にじゅうよまんの そうぜいの
しょうはいいずれに けっせんや
東軍は徳川家康の強さを慕って集まった者たち、西軍は豊臣家への恩義でまとまったもの者たち。
六番/寝返り
戦い今やたけなわの
折しも醜の小早川
松尾山を駆けくだり
刃返すぞ恨めしき
たたかいいまや たけなわの
おりしもしこの こばやかわ
まつおやまを かけくだり
やいばかえすぞ うらめしき
小早川秀秋が西軍から東軍へ寝返った。突如として松尾山に布陣していた軍勢が駆け下りて、西軍の背後を衝いた。
七番/孤軍
前に後ろに支えかね
大勢すでに崩るれど
精鋭一千われ独り
猛虎負嵎の威を振るう
まえにうしろに ささえかね
たいせいすでに くずるれど
せいえいいっせん われひとり
もうこふぐうの いをふるう
小早川秀秋の寝返りをきっかけに、西軍を総崩れとなる。大勢は決した。その中で、島津隊1000人が身構える。
八番/奮闘
蹴立てて駒の行くところ
踏みしだかれぬ草もなく
西軍ために気負い来て
靡くや敵の旗の色
けたててこまの ゆくところ
ふみしだかれぬ くさもなく
せいぐんために きおいきて
なびくやてきの はたのいろ
馬が走りまわって地面に草も見えない。戦いの激しさを物語る。島津隊が踏ん張っているところで、西軍の他部隊も前に出るが……。
九番/徳川家康
家康いたく荒立ちて
自ら雌雄を決せんと
関東勢を打ちこぞり
雲霞の如く攻めかかる
いえやすいたく あらだちて
みずからしゆうを けっせんと
かんとうぜいを うちこぞり
うんかのごとく せめかかる
徳川家康がみずから撃って出る。東軍の大軍勢が一気に攻めかかる。
十番/掛かれ!
掛かれ進めと惟新公
耳をつんざく雄叫びに
勇む隼人の切先の
水もたまらぬ鋭さよ
かかれすすめと いしんこう
みみをつんざく おたけびに
いさむはやとの きっさきの
みずもたまらぬ するどさよ
惟新公(島津義弘)が「かかれ!」「すすめ!」と号令を出す。その雄たけびに応えて島津隊の兵が躍り出る。
十一番/もっと兵がいたなら
払えば又も寄せ来たり
寄すれば又も切りまくり
剛は鬼神を挫けども
我の寡勢を如何にせん
はらえばまたも よせきたり
よすればまたも きりまくり
ごうはきしんを くじけども
われのかぜいを いかにせん
敵を払っても払って押し寄せる。その敵を切って切って切りまくる。島津隊は強い。でも数が多すぎてキリがない。島津義弘は「もっと兵がいたらなあ」と嘆く。
十二番/敵中突破
運命何れ生か死か
ここを先途と鞭ふるい
奮迅敵の中堅に
活路を求めて駆け込ます
うんめいいずれ せいかしか
ここをせんどと むちふるい
ふんじんてきの ちゅうけんに
みちをもとめて かけこます
活路をいずこに求めるのか……敵の猛勢の中へ。
十三番/死にものぐるい
譜代恩顧の将卒ら
国家の存亡この時と
鎬を削る鬨の声
天に轟き地にふるう
ふだいおんこの しょうそつら
くにのそんぼう このときと
しのぎをけずる ときのこえ
てんにとどろき ちにふるう
島津隊には、島津義弘を慕って国許から駆け付けた者も多い。少数だが腕自慢で士気も高い。今こそ働きどきと意気が上がる。
十四番/激戦あって
篠を束ねて降る雨に
横とう屍湧く血潮
風なまぐさく吹き巻きて
修羅の巷のそれなれや
しのをつかねて ふるあめに
よことうかばね わくちしお
かぜなまぐさく ふきまきて
しゅらのちまたの それなれや
凄惨な戦場の様子を描写。
十五番/烏頭坂
薙げど仆せど敵兵の
重なり来る烏頭坂
たばしる矢玉音凄く
危機は刻々迫るなり
なげどたおせど てきへいの
かさなりきたる うとうざか
たばしるやだま おとすごく
ききはこくこく せまるなり
島津隊は激しい追撃を受ける。烏頭坂で乱戦となる。島津豊久(しまづとよひさ)が殿となって踏みとどまるが、倒しても倒しても敵兵が押し寄せる。島津豊久は島津義弘の甥にあたる。
十六番/島津豊久の戦死
骸も染みて猩々緋
御盾となりし豊久を
見るや敵兵且つ勇み
群がり寄する足速し
むくろもそみて じょうじょうひ
みたてとなりし とよひさを
みるやてきへい かついさみ
むらがりよする あしはやし
壮絶な戦死。島津豊久は槍で突き上げられて血に染まる。敵の追撃はまだまだ続く。
十七番/長寿院盛淳の戦死
賜いし御旗ふりかざし
阿多長寿院駆け入りて
兵庫入道最期ぞと
名乗る雄々しき老の果て
たまいしみはた ふりかざし
あたちょうじゅいん かけいりて
ひょうごにゅうどう さいごぞと
なのるおおしき おいのはて
長寿院盛淳(ちょうじゅいんせいじゅん)は島津義弘の家老。阿多盛淳とも名乗る。島津義弘から陣羽織と旗を拝領して陣に残る。影武者を買って出たのだ。「兵庫入道(島津義弘)の最期なり」と叫びながら応戦し、果てた。
十八番/松平忠吉の追撃
欺かれたる悔しさに
息をもつかず忠吉ら
くつわ並べて追い来しが
返す我が余威また猛し
あざむかれたる くやしさに
いきをもつかず ただよしら
くつわならべて おいきしが
かわすわがよい またたけし
松平忠吉(まつだいらただよし)が軍勢を率いて追撃。ちなみに、松平忠吉は徳川家康の四男である。このときに井伊直政と本多忠勝も追撃に加わったとされる。島津隊も強く、追撃を振り払う。松平忠吉と井伊直政は負傷。
十九番/伊勢路へ
牧田川添いひと筋に
行く行く敵を蹴散らして
駒野峠の夜に紛れ
伊勢路さしてぞ落ち給う
まきたがわぞい ひとすじに
ゆくゆくてきを けちらして
こまのとおげの よにまぎれ
いせじさしとぞ おちたまう
島津隊は追撃を蹴散らしながら牧田川沿いを行く。現在の岐阜県養老郡養老町から大垣市のほうへと逃げていった。駒野峠を超えて、伊勢路へと落ちていく。
二十番/無念なり
献策遂に容れられず
六十余年の生涯に
始めて不覚をとらしたる
公の無念や嗚呼如何に
けんさくついに いれられず
ろくじゅうよねんの しょうがいに
はじめてふかくを とらしたる
こうのむねんや ああいかに
「献策遂に容れられず」というのは、島津義弘が石田三成へ夜襲を提案したが採用されなかったという話のこと。このとき島津義弘は66歳。「生涯で初めての不覚」と、どれほどに悔しがったことだろう、と歌う。
ただし、島津義弘は負け戦もけっこう多かったりする。作詞者は「それまでは負けなし」と思っていたのか?
二十一番/背を見せず
興亡総べて夢なれど
敵に背を見せざりし
壮烈無比の薩摩武士
誉は永久に匂うなり
こうぼうすべて ゆめなれど
てきにそびらを みせざりし
そうれつむひの さつまぶし
ほまれはとわに におうなり
敵に背を見せることなく戦った壮烈無比の薩摩武士。戦いは夢のように過ぎ去ったことだけど、その栄誉はずっと残る。
二十二番/往時に思いを馳せる
無心の蔓草今もなお
勇士の血潮に茂るらん
仰げば月色縹渺と
転た往時の懐かしや
むしんのつるくさ いまもなお
ゆうしのちしおに しげるらん
あおげばげっしょく ひょうびょうと
うたたおうじの なつかしや
前半は松尾芭蕉の「夏草や兵どもが夢のあと」という句を連想させる。後半は、夜空の月を見上げて、かつての勇士たちに思いを馳せる。……と、そんな感じか。
<参考資料>
『かごしま文化の表情 第5集(文芸編)』
発行/鹿児島県県民福祉部県民生活課 1995年
『士魂 薩摩兵児歌』
編/鹿児島市学舎連合会 発行/春苑堂書店 1970年
『伊集院町誌』
編・発行/鹿児島県伊集院町 1939年
『関ヶ原 島津退き口 義弘と家康 知られざる秘史』
著/桐野作人 発行/株式会社ワニブックス 2022年
ほか