鹿児島県南九州市の知覧(ちらん)に「取違(とりちがい)」というところがある。地名の由来は豊玉姫(トヨタマヒメ)と玉依姫(タマヨリヒメ)の伝説によるものだ。この地へ行ってみた。
「取違由来記」碑
取違は南薩縦貫道の南九州知覧インターチェンジのやや南に位置する。このあたりは知覧飛行場があった場所でもある。
道路沿いに「取違の由来」という石の看板がある。矢印の指すところには鳥居と社殿がある。


鳥居をくぐったところに「取違由来記」碑がある。大正6年(1917年)に知覧村が建碑したものだ。

碑文は次のとおり。
神代の昔海津見神此の都を領し、その女豐玉姫を川邉に、玉依姫を知覧に封し給ふや、鬢水峠より飯野を経て此の地に宿り給ふ、玉依姫性質怜利川邉田畑廣しと聞き豫て至らんの意あり、豐玉姫は常に白米ならては食はせ給はざりしかは玉依姫玄米なから炊き急きて川邊へ先発せらる、豐玉姫已むを得す知覧を領し給ひぬ、依つて取違と云ひ、今取違門の崇拝する薬師堂はその侍醫を祭れるものなりと云ひ傳ふ(「取違由来記」碑より)
海津見神(ワタツミノカミ)は娘二人に領地を与えた。姉の豊玉姫には川邉(川辺、かわなべ)を、妹の玉依姫には知覧を。姉妹はそれそれの領地に向かう。鬢水峠から飯野を経て宿を取る。玉依姫は川邉が田畑の多い豊かな土地であることを知っていた。で、川邉が欲しいと思って姉を出し抜く。玉依姫は姉より先に出発して川邉に入る。豊玉姫は仕方がないので知覧を領することになった。そして、姉妹が宿を取って行き先を取り違えたことから、この地を「取違」と呼ぶようになった、と。

また、豊玉姫は白米を食べ、玉依姫は玄米のまま食べて出発を早めたとも。これにも何か意味がありそうな気がする。玉依姫の知恵が効いて活発な気質は川辺の住人に、のんびりとした豊玉姫の気質は知覧の住人に受け継がれているとも。

記念碑のあるところは取違神社と呼ばれる。

社殿には祭壇が二つ収められている。向かって右がウッガンサァ(氏神様)、左側が薬師如来。

ウッガン(氏神、内神)というのは集落の守護神である。祭壇の中には自然石が納められているとのこと。また、薬師如来のほうは如来像が納められている。こちらは豊玉姫の侍医ともされ、お産の神様でもある。

取違の近くに「峯苫(みねとま)」という集落がある。こちらの峯苫神社も同じような祭祀の様子が見られる。

中宮三所大明神社(豊玉姫神社)
知覧に豊玉姫神社がある。その名のとおり豊玉姫を祭る。現在の境内は、慶長15年(1610年)に佐多忠充(さたただみつ)が遷座したものである。もともとは「中宮三所大明神社」と称し、亀甲城跡に鎮座していた。ここは豊玉姫の宮居跡ともされる。麓には豊玉姫陵と伝わるものもあり。
『三国名勝図会』にちょっと情報がある。創建年代は不明。古くから広大な神領を有していたという。元享4年(1324年)の文書に「薩摩國知覧院鎮守開門中宮大明神御神領云々、平忠世」とあるとのこと。
「開門」はたぶん「開聞(ひらきき/かいもん)」のことか? 薩摩国頴娃の開聞宮(枚聞神社、ひらききじんじゃ、鹿児島県指宿市開聞)の神領であったことがうかがえる。
「平忠世」というのは知覧忠世だろう。知覧氏は薩摩平氏の一族である。薩摩平氏は薩摩半島中南部の郡司に名が見える。府領社の管理者でもあった。府領社というのは大宰府が管轄する土地で、「社」とついているとおり神社も関わっている。そして、府領社には開聞宮の神領も含まれている。
建久8年(1197年)の『薩摩国図田帳』には府領社として「開門宮領四十二町」とあり。また知覧院に、府領社の「下司忠答」、公領の「郡司忠答」なる人物が確認できる。これが知覧氏である。
中宮三所大明神社や豊玉姫陵についてはこちの記事にて。
知覧氏についてはこちらの記事にて。
飯倉新宮三所大明神社(飯倉神社)
鹿児島県南九州市川辺町宮に飯倉神社(いいくらじんじゃ)が鎮座する。もともとは「飯倉新宮三所大明神社」と称した。こちらは玉依姫を御祭神とする。また、境内には玉依姫陵と伝わるものもあり。
『三国名勝図会』によると、御祭神は中宮に天智天皇の皇女、東宮に天智天皇、西宮に倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)としている。
飯倉神社の伝承では「天智天皇の皇女二人が頴娃開聞から川辺と知覧に遷ってきた」としている。姉妹の領地を取り違えた話も同じである。違うところは、豊玉姫・玉依姫にあたる人物が天智天皇の皇女とされていることである。
『薩摩国図田帳』では河辺郡に府領社があったと記される。こちらも開聞宮の神領と思われる。管理者は「下司平太道綱」。薩摩平氏の河邊氏だろうか。
伝説について、ちょっと思うこと
知覧と川辺のこの伝承は、何を示すものなのか? いろいろと想像させられる。伝承はまったく何もないところからは発生しないはず。ここへとつながる何かがあるはずのだ。
要素を抜き出しててみると、こんなところか。
豊玉姫と玉依姫
海神(ワタツミ)
開聞宮
天智天皇
薩摩平氏
トヨタマヒメ(豊玉姫)とタマヨリヒメ(玉依姫)の姉妹はワタツミの娘として日向神話に登場する。竜宮にたどり着いたヒコホホデミノミコト(山幸彦)はトヨタマヒメを娶る。そして、生まれたのがヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト。ただ、トヨタマヒメは竜宮に帰ってしまい、かわりに遣わされたタマヨリヒメが養育をする。さらに玉依姫はヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコトの妻となり、カムヤマトイワレビコノミコト(神武天皇)を生む。この姉妹は皇統につながる重要人物なのだ。
現在の枚聞神社(開聞宮)の御祭神はオオヒルメムチノミコト(大日孁貴命)とする。こちらはアマテラスオオミカミ(天照大神)の別名ともされる、ただ、開聞宮はもともとワタツミに関連した祭祀の場であったのかも、とも思わせる。
南九州のあちこちに天智天皇の伝説がある。『開聞縁起』には「天智天皇が大宮姫と開聞に住んだ」という伝承がある。日向国の志布志(鹿児島県志布志市)、大隅国の横川(鹿児島県霧島市横川)の安良神社、薩摩国鹿児島郡元(鹿児島市郡元)の一之宮神社、薩摩国日置南郷(鹿児島県日置市吹上町永吉)の久多島神社などにも、天智天皇と后の説話がある。これらは開聞宮が基点となっているようにも思える。
天智天皇が絡んでくるのはどういうわけなのか? こちらも興味深いところだ。
また、大宰府と関係の深い開聞宮領、そこに絡んでくる薩摩平氏とも何かしらのつながりがあるのかもしれない。
たぶん、「姉妹による領地の取り違い」の話は、モデルになるような出来事があったんじゃないかと思う。それが、いつ頃のことかはわからない。古代のことかもしれないし、古代よりももっと前のことかもしれないし、あるいは中世の話であるかもしれない。そして、この話にいろいろな要素が乗っかってきた、というところか。
豊玉姫と玉依姫は日向神話から持ち込んで、取り違えた姉妹に重ねたのだろうか?
あるいは、南九州に残る伝説のほうが先で、豊玉姫と玉依姫が『古事記』『日本書紀』に入れ込まれた、とか。そんな可能性もなくはないのかな?
以下、関連記事。
<参考資料>
『三国名勝図絵』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年
『鹿児島市史第3巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1971年
※建久8年の『薩摩国図田帳』を収録
『知覧町の民具 知覧町民俗資料調査報告書1』
調査/鹿児島大学法文学部文化人類学研究室 発行/知覧町教育委員会 1990年
『知覧町郷土誌』
発行/知覧町 1982年
ほか