ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

2022-01-01から1年間の記事一覧

桜散る城跡をめぐる、帖佐館跡・平山城跡・岩剣城跡・蒲生城跡

桜の季節の城跡の写真を撮っておこうかと思い、鹿児島県姶良市にある帖佐館(ちょうさやかた)・平山城(ひらやまじょう)・岩剣城(いわつるぎじょう)・蒲生城(かもうじょう)にいってみた。見頃はちょっとすぎている感じで、花びらが落ちて地面をピンク…

春の精矛神社へ、桜並木を抜けて島津義弘公を詣でる

花満開であった。精矛神社(くわしほこじんじゃ)を参拝した。再訪である。 精矛神社は鹿児島県姶良市加治木に鎮座する。御祭神は精矛厳健雄命(クワシホコイヅタケヲノミコト)だ。島津義弘(しまづよしひろ)公である。 島津義弘は関ヶ原の戦いから生還し…

江之島と瀬戸、桜島の東側を『三国名勝図会』より

鹿児島県の地形は、桜島をふたつの半島が抱きかかえるような感じになっている。そのため、いろいろな方向から桜島を見ることができる。そして、角度によって表情も変わるのである。 19世紀に薩摩藩が編纂した地誌『三国名勝図会』にも、桜島が描かれた絵図が…

三俣院高城(月山日和城)跡にいってみた、群雄が奪いあった都城盆地の要衝

宮崎県都城市高城町大井手にある三俣院高城(みまたいんたかじょう)跡にいってみた(2021年10月訪問)。別名に月山日和城(がっさんひわじょう)とも。14世紀前半に肝付兼重(きもつきかねしげ)が築いたのが始まりとされる。この地は都城盆地の要衝であり…

島津貴久の戦い、分家から薩摩の覇者へ ~戦国時代の南九州、激動の16世紀【まとめ】~

南九州は14世紀より戦乱が続く。島津氏は薩摩国・大隅国・日向国の守護職にあるが、一族の抗争が絶えず。ずっと領内を統治しきれないのであった。 14世紀から15世紀にかけての混乱期についてはこちら。 rekishikomugae.net rekishikomugae.net 16世紀に入っ…

『風雲児たち』(作/みなもと太郎)、読みだしたら歴史の面白さに引きずり込まれる

江戸時代が面白い! 中世的な武士の世から近代国家に変わっていく過渡期である。その時代を生きた人が何を考え、どう行動したのか? そこのところを丁寧すぎるほど丁寧に描いているのが漫画『風雲児たち』(作/みなもと太郎)である。これ、すごい作品であ…

佐多岬と御崎神社、大隅半島の先っぽを『三国名勝図会』より

すごく遠い。行くにはけっこうな覚悟が必要だ。ここは離島を除く日本列島の最南端。 佐多岬は鹿児島県肝属郡南大隅町にある。車を走らせて南下していくうちに、植物の感じが亜熱帯性のものにかわる。陸続きなのに、見える景色は日本じゃないみたいなのだ。 …

戦国時代の南九州、激動の16世紀(9)菱刈・大口の戦い、薩摩を制圧

島津貴久(しまづたかひさ)は日向国真幸院(まさきいん、宮崎県えびの市)にも進出する。一方で、伊東義祐(いとうよしすけ)も真幸院への勢力拡大をうかがう。島津氏と伊東氏の野望がぶつかり、そこに肥後国の相良義陽(さがらよしひ)も絡んでくる。抗争…

日新寺跡(竹田神社)・常潤院跡にいってみた、島津忠良ゆかりの地

戦国島津氏は島津忠良(しまづただよし、島津日新斎、じっしんさい)にはじまる。もともとは分家のひとつの相州家の当主であったが、嫡男の島津貴久を本宗家の後継者に擁立する。そして、一族間の抗争を勝ち抜いて覇権を握った。 島津忠良(島津日新斎)は薩…

『「不屈の両殿」島津義久・義弘 関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』(著/新名一仁)、対立したけど仲が悪いわけではなさそう

戦国時代の島津氏は「強い」というイメージを持たれている。関ヶ原の戦いでの「島津の退き口」のほか、「木崎原の戦い」「耳川の戦い」「沖田畷の戦い」「泗川の戦い」などでの劇的な勝利がよく知られている。映画・ドラマ・小説・漫画なんかでも、このあた…

川尻浦と花礁、開聞岳の近辺を『三国名勝図会』より

海上に突き出すようにそびえる! 開聞岳(かいもんだけ)はよく目立つ。薩摩半島南部では、あちこちからこの山をのぞむ。その存在感は強烈なのだ。南九州では海上交易を行っていた、古代の隼人も中世の豪族も、そして島津(しまづ)氏も。開聞岳は航海の目印…

戦国時代の南九州、激動の16世紀(8)廻城の戦い、飫肥の役、真幸院の争乱

島津貴久(しまづたかひさ)は西大隅の帖佐・蒲生(ちょうさ・かもう、鹿児島県姶良市)を制圧し、さらなる勢力拡大をうかがう。ただ、反抗勢力を完全に押さえ込んだわけではなく、火種はあちこちにくすぶっている。 rekishikomugae.net そして、味方っだっ…

都之城跡にいってみた、北郷氏が守った「島津」の拠点

宮崎県南西部から鹿児島県北東部にかけて広大な盆地が広がっている。都城盆地は南北約30km・東西約25㎞もの規模があり、2市2町(宮崎県都城市・三股町・高原町、鹿児島県曽於市)にまたがる。 この都城盆地を統治したのが、島津一族の北郷(ほんごう)氏であ…

雄川の滝、『三国名勝図会』より

幾何学模様を思わせる岩壁に水が落ちる。あちこちに伏流水がしたたり、滝壺は鮮やかな青緑色に輝く。「雄川の滝(おがわのたき)」は、なんとも神秘的な雰囲気の場所である。 雄川の滝 滝壺は鹿児島県肝属郡南大隅町根占にある。ここは町境にあたり、滝の上…

『三国名勝図会』(編/橋口兼古・五代秀堯・橋口兼柄・五代友古) 南九州の歴史を知りたければ、ひとまずこの書に訊ねるべし!

当ブログはおもに南九州の歴史をテーマにしているが、参考にすることが多いのが『三国名勝図会(さんごくめいしょうずえ)』である(実際の表記は『三國名勝圖會』)。鹿児島藩(薩摩藩)が編纂させた地理誌で、天保14年12月(1844年1月)に発行された。 明…

知覧の亀甲城跡にのぼってみた、豊玉姫の伝説も残る

鹿児島県南九州市知覧の中心地は、多くの観光客が訪れる場所である。知覧麓(ちらんふもと)の武家屋敷群は江戸時代の雰囲気をよく残す。この一帯は国の重要伝統的建造物群保存地区に指定され、武家町にある庭園群は国の名勝にも指定されている。その武家屋…

『関ヶ原 島津退き口 敵中突破三〇〇里』(著/桐野作人)、島津義弘の撤退戦の実像

関ヶ原から長い長い道のり 慶長5年9月15日(1600年10月21日)、美濃国関ヶ原(せきがはら、現在の岐阜県不破郡関ケ原町)で徳川家康が率いる「東軍」と、石田三成らを中心に結成された「西軍」がぶつかった。双方あわせて20万もの兵がひしめき合う大合戦とな…

鎌倉殿に仕えた島津忠久、薩摩島津氏のはじまり

12世紀末、惟宗忠久(これむねのただひさ)は源頼朝より薩摩国・大隅国・日向国(現在の鹿児島県・宮崎県)に所領を与えられた。そして、島津荘(しまずのしょう)という広大な荘園の惣地頭に補任されたことにちなみ、「島津忠久」と名乗るようになった。こ…

『北条義時』(著/岩田慎平)、ひょんなことから最高権力者に

武家政権の始まりのゴタゴタを勝ち抜く 2022年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』が楽しみなのである。主人公は北条義時(ほうじょうよしとき)だ。 鎌倉幕府というのは変則的な政権である。いちばん偉いのは「鎌倉殿(かまくらどの)」と称される将軍なのだが…

戦国時代の南九州、激動の16世紀(7)大隅合戦、島津義久と島津義弘と島津歳久の初陣

天文21年(1552年)、島津貴久(しまづたかひさ)は任官がなり、幕府からも正式に守護と認められた。だが、領内はまだまだ安定しない。一度は帰順した西大隅の国人たちが、再び叛旗をひるがえすのである。 rekishikomugae.net 島津実久の死 加治木の動乱、再…